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第18話 心の攻防戦
6月。梅雨の最中だが、晴れた日は容赦なく照りつける日差しが、すでに夏の訪れを予感させる。
朝。紫季は、クーラーの効いた自室から、むわっと湿気のこもる2階の廊下に出て、のそりとした足取りで階段を降りた。向かう先は、いつものリビング。
先日、父の再婚が正式に決まった。
そして、今日がその日——曰く、大安らしい。
「紫季、今日だけど……本当に大丈夫か?」
父の問いかけは、もはや聞き慣れたものだった。何度となく繰り返されている。
「わかってるって。午前中に籍入れて、午後に引っ越してくるんでしょ?もう耳タコなんだけど……」
呆れ気味に答える紫季。しかし、父はなおも静かな目で紫季を見つめてくる。
「そうじゃなくて……紫季の気持ちのことを言ってるんだ。本当は、無理してるんじゃないか?言いたいことがあるなら——」
「ないよ。何度も言わせないでよ。大丈夫だから」
「……そうか」
会話は、それ以上続かなかった。紫季は朝食を口に運びながら、それ以上話が広がらないように意識して黙りこんだ。
(あるよ、言いたいことなんて……山ほど)
喉の奥で引っかかるような思いがあった。
父の幸せを願っていないわけじゃない。本当に、心から幸せになってほしいと思ってる。でも、どうしても——あのとき見た光景が脳裏を離れない。
——父さんと茜さんと葵くん。
3人が揃って笑いながら食卓を囲んでいた。そこに、自分はいなかった。
今は気を遣って紫季を“家族”として迎えてくれているかもしれない。でもいつか、少しずつ少しずつ、存在が疎ましくなっていく気がする。
もし、2人の間に本当の子供が生まれたら——紫季はもう、不要になる。
“おまえはいらない”
そう言われる日が来る前に。
紫季は、心の奥で決意していた。
(家を出よう。一人暮らしをしよう)
「じゃあさ、前も言ったけど、今日は俺、朝から予備校の授業だから。引越し手伝えなくてごめんって茜さんに伝えといて」
「……わかった。夜はみんなで外食しよう。寿司なんてどうだ?」
「いいと思うよ。葵くんも喜びそうだし」
「そうだな。じゃあ早めに帰っておいで。気をつけてな」
「……行ってきます」
紫季は、足早に家を出た。
予備校の授業などない。ただ、家にいたくなかった。それだけだった。あの空間で、3人が暮らしはじめる光景を見るのが怖かった。
(……帰りたくない)
心の奥でぼんやりとそう思いながら、紫季は歩く。
「あーあ。テストが終われば夏休みもすぐそこなのに……どうしよ」
口をついて出た独り言。目的もなくさまようには暑すぎる季節だ。
紫季は、図書館へと足を向けた。
***
「よっ。やっぱここだと思った」
静かな空気の中、図書館の自習スペースに現れたのは凛太朗だった。ひょいっと隣の席に座ってくる。
「……なんでいるんだよ」
「紫季んち行ったら、予備校だって聞いてさ。でも今日、お前予備校ない日だろ?きっと逃げてるんだろうなーって思って」
「……ストーカー」
「おい、友達思いの俺に対して、その態度はひどくない?」
(……友達。……友達……?)
紫季は、ノートの隅に視線を落としながら、静かに思った。
“友達”って、こんなに優しくて、気づいてくれて、そばにいてくれる存在だったっけ?
「そうだな。悪い。ありがと……」
「えええ、ちょっと待って。素直な紫季って、なんか怖……」
「おい、人のことをなんだと思ってる」
「いや、それはお互い様」
(……)
(……)
ふ、と。
先に吹き出したのは紫季だった。
釣られて凛太朗も、口元を緩める。図書館の静けさのなかで、ふたりは笑い声を堪えながら肩を震わせた。
「ぷっ……ははっ……っ、な、紫季、ちょっと息抜きにコンビニ行かね?」
「いいよ。参考書返却してくるから、先に入口で待ってろ」
そろそろお昼も近い。小腹も空いてきたし、ちょうどいいタイミングだった。
紫季は立ち上がりながら、ふと考える。
(休みの日に、こうやってふたりで過ごすの……いつぶりだっけ)
つい最近のようで、ずっと前のようでもある。
時間だけは流れていって、でも、あの返事だけはずっと宙ぶらりんのままだ。
――もう、答えは決まってる。
名前のないこの関係。曖昧な距離。
手を伸ばせば届くのに、どうしても壊すのが怖くて、踏み出せなかった。
(でも、もう逃げられないよな……)
紫季は、大きく息を吸い込んだ。
鼓動が早くなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
それでも、足を止めずに、凛太朗のもとへ向かった。
「凛太朗!待たせてごめん」
「大丈夫。……なぁ、コンビニのあと、ちょっと公園寄らない?」
「え?……いいけど」
(公園?こんな暑いのに……なんかあるのか?)
図書館には軽食スペースもあるのに、わざわざ公園というのが不思議だった。けれど、凛太朗がそう言うなら――それでいいと思えた。
コンビニでは、凛太朗がミントタブレットとおにぎり二つ、揚げ鶏。
紫季はサンドイッチとホットドッグを選び、屋根付きベンチのある公園に向かった。
夏の空気がじっとりと肌にまとわりつく中、木陰に座って2人は黙々と食べ始めた。
いつもなら、凛太朗のほうが先に食べ終わる。なのに今日は――
「凛太朗、残りのおにぎり食べないのか?体調でも悪いの?」
紫季の問いかけに、凛太朗は手を止め、残ったおにぎりをカバンにしまう。
そして、真剣な目で紫季を見た。
「紫季、ごめんな。……もう、返事はいいよ」
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