30 / 46
第30話 白粉花
七月も半ばを過ぎた。期末テストも終わり、周囲は一気に夏休みモードに突入している。
かといって浮かれている暇なんてない。いまが勝負どきとばかりに、黙々と勉強に取り組むのが三年生の“当たり前”だ。
普通科の生徒でさえ、部活を引退してからは一気に受験モードに切り替わっている。
「今回の数Ⅱ、めっちゃ難しくなかった?」
「うん……でも、凛太朗は解けたでしょ?」
「いや、うーん……まあ、全部埋めたけどさ、でもいつもほどの自信はなかったかな」
「そうなんだ。意外」
駅までの道のりを歩きながら交わす会話は、色っぽいことではなく、テストの話。
初めて体を重ねてから、何度か関係は持ったけれど、テスト一週間前からはさすがに自粛モード。
強い日差しが肌をジリジリと焼いて、背中のシャツが汗で張りついて気持ち悪い。
あと少しというところで電車を逃した二人は、仕方なく真夏の駅のホームで、十五分後に来る普通電車を待っていた。
額からは汗がどんどん流れ、こめかみをつたって顎に落ちる。
凛太朗はたまらず、制服のズボンの裾をくるりと折って、少しでも風を通そうとしていた。
「悩んでも、明日には期末の結果出るんだろ?」
「うん、そうなんだけど……はあ〜、憂鬱だわ」
珍しく、凛太朗が弱音を吐く。
彼はどんなときでも前向きで、努力すれば何とかなるっていうタイプだ。そんな人が「憂鬱」なんて言うのはめずらしくて、紫季は内心、少し不安になった。
「今日、予備校行く前にワック寄る?」
「ああ……いや、俺、自習室行くわ」
「そっか。……わかった」
(体調、悪いのかな……)
ふだんと少しだけ違う恋人の様子に引っかかりつつも、自分も頑張らなきゃいけない時期なのはわかっている。
無理に詮索するよりは、今はお互いのペースでやるべきことをやるべきだと、紫季は割り切った。
(凛太朗のことだから、きっと成績は落としてない。自分も、負けてられない――)
紫季は深く息を吸い込み、真夏の風を切って歩き出した。
汗をかきながらも、顔を上げて前を向く。少しの不安と、でもそれ以上の決意を胸に。
次の日―――
「朝自習するから先行く」
朝起きて、携帯を見るとそんなメッセージが届いていた。
(……? なんでいきなり?)
紫季は、胸の奥がきゅうっとなるのを感じた。
昨日の様子を思い出してみても、やっぱりどこかいつもと違っていたように思える。
(何かあったんかな……)
考え込んでも仕方ない。と、自分に言い聞かせるように「了解」と返事を打った。
凛太朗は、いつも紫季の家の前で“待ち伏せ”していた。約束をしたことはない。けれど、それが日常だった。
右隣に凛太朗がいない。
ただそれだけで、たまらなく不安になる。
友達だった頃なら、一日一緒に登校しないだけで動揺するなんて、絶対なかったのに。
(……やば。なんでこんなに一喜一憂してんの、俺)
自分の変化が怖くなった。
恋人になるって、こんなにも相手の言動に左右されるものなのか。
束縛なんて絶対したくないし、嫉妬だって……みっともない。
そんな自分を、凛太朗に見られたら……。
(いやだ……)
ポツリと口の中で呟いて、下を向く。
道端の白粉花がしぼみかけていて、紫季の気持ちを写しているようだった。
——凛太朗ですら、恋愛が絡むと変わってしまうんだろうか。
信じたい気持ちと、疑いたくなる弱さの間で揺れているうちに、紫季はすでに満員のバスに押し込まれていた。
———————
「紫季!やばいよ、事件!」
ピロティで上履きに履きかえていると、真美と由希子が走ってきた。
「え、何?どうしたの?」
「とりあえず来て!」
二人とは期末テスト前に少し話すようになってから、時々お昼も一緒に過ごしていた。連絡先も交換していたが、進学校らしく、グループトークは必要最低限のやりとりだけ。
その代わり、学校では気軽に雑談をしたり、勉強の情報交換をしたりしていた。
女子なのにこんなにサラッと友達として付き合えるの、なんか新鮮かも——紫季は内心そう思っていた。
ぐいっと手を引かれて連れていかれたのは、渡り廊下の掲示板前。定期考査の成績上位者が貼り出される場所だった。
(あぁ、成績出たんか。まあ別に……)
そんな程度にしか考えていなかったけれど、様子がいつもと違う。
騒がしい。人だかり。ざわめき。
何かを隠すように、コソコソと話す声。
一番人が集まっている張り紙の前に、凛太朗の姿が見えた。
「りん゛ん゛ん゛!!」
紫季が思わず声を上げた瞬間、由希子が背後から口を塞いできた。
「ちょ、なに?」
戸惑う紫季に、真美がそっと指を差す。
「見て」
言われるがままに視線を向けて、紫季は言葉を失った。
「……は?」
英数科、五名。
理数科、十名。
普通科、二十名。
そして学年総合の三十名。
四枚の紙に、凛太朗の名前がなかった。
入学以来、初めてのことだった。
理数科の紙にも、総合の紙にも。
凛太朗の姿はどこにもなかった。
紫季は立ち尽くし、目を疑った。
「紫季も……珍しく低いね? どうしたの?」
由希子の声で、我に返る。
自分の名前を見るのをすっかり忘れていた。
「……英数科、五位……総合、十九位……」
紫季もまた、入学以来初めての成績だった。
英数科ではいつも三位以内。総合でも十位以下にはなったことがない。
そしてそれは、凛太朗も同じだった。
どんなに調子が悪くても、理数科の上位から外れることはなかった。
学年総合も、最低でも二十位以内には入っていた。
それなのに——。
キーンコーンカーンコーン……
ざわつきが収まらないまま、予鈴が鳴った。
「紫季、行こ!」
真美と由希子に半ば引っ張られるようにして教室へ向かう。
その途中、渡り廊下の端からもう一度掲示板の方を見た。
けれど、そこに凛太朗の姿はもうなかった。
ともだちにシェアしよう!

