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第31話 白粉花
紫季は今日一日、いろんな不安を抱えたまま過ごしていた。自分の成績はもちろん、凛太朗のランク外という事実には心底動揺した。
自分の順位は落ちたものの、まだ巻き返せる範囲だ。それよりも気になるのは、凛太朗の態度だった。ネガティブな発言に、朝は一緒に登校すらできなかった。
なんで? 本当に大丈夫?――そんな言葉が、ぐるぐると頭の中を巡っている。
今まで人付き合いを避けてきた紫季には、凛太朗の行動の意図がわからなかった。自分のこの気持ちをどう処理したらいいのかも、まるでわからない。
(別れる、とか言い出すのかな……)
少しでも想像しただけで、紫季の綺麗なヘーゼルアイにはうっすらと涙が浮かんだ。頭の中に浮かんだ“別れ”という言葉をすぐにかき消し、ぐっと深呼吸をして気持ちを立て直す。
(よし……憂鬱だけど、仕方ない。凛太朗を迎えに三年六組に行ってみよう)
帰りのホームルームでは、そう自分に言い聞かせていた――。
紫季は、勇気を振り絞って三年六組に来ていた。
「勇気を振り絞る」なんて、大げさに聞こえるかもしれない。でも、紫季にとっては本当に、それくらい高いハードルだった。
三年一組から五組までの普通科と、三年八組の英数科は同じ校舎にある。だが、理数科だけは別の棟にあり、渡り廊下でつながっているとはいえ、紫季にとっては小さな冒険だった。
しかも理数科は男子ばかり。まだ気は楽だが、知らない教室に、知らない人ばかりの中へ入って、声をかけるという行為は――紫季にとっては苦痛に近い。
それでも、朝から胸に渦巻いていた嫌な予感が、紫季を突き動かしていた。
「えっと……凛太朗、いますか?」
「あぁ、雨宮ね。予備校あるとかで、さっき帰ったよ」
「けっこう急いでたよな」
「やっぱアレか? 成績。今回めっちゃ落ちてたもんな」
「俺らみたいな部活組が今回、本気出したのもあるんじゃね?」
「それな! お前、一気に成績上がってたしなー」
「部活で鍛えた忍耐力を勉強に全振りよ。……って、眼鏡の君、誰か知らんけど。雨宮には“あんま落ち込むな”って言っといてくれや」
ドアの横に立っていた紫季に向かって、がっしりした体格の男子たちが次々に話しかけてくる。
見た目は凛太朗と同じくらいか、それ以上の身長の子もいて、四、五人も集まると、なかなかの迫力がある。
圧に飲まれそうになった紫季だったが、意外にも彼らの口調は柔らかく、どこか親しみがあって、少しだけ肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
ぽつりと呟いて、紫季は俯きながら六組の教室を後にした。
(何避けてんの? わざとなの? たまたまなの?)
紫季は、不安を通り越して、腹が立ってきた。
言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだ。黙って避けるなんて卑怯だと思う。
これは俺、絶対間違ってない。
恋人同士なら、ちゃんと話し合うべきだ――。
そう言い聞かせて、紫季はまっすぐ凛太朗の家へと向かった。
———ピンポーン。
自宅には戻らず、その足で凛太朗の家に寄った。だが、インターホンに出たのは凛太朗の母だった。
『はぁい。紫季ちゃんじゃない。凛太朗はまだ帰ってないのよ。予備校も今日はないはずだし……お茶して待ってる?』
「いえ、大丈夫です。また来ます」
『そう? じゃあ、また来てね』
(……帰ってない)
紫季の心臓が、ツキン、と痛んだ。
なんで……。
“とことん俺と向き合え”って言ったのは、お前だったじゃないか。
やっぱり、恋愛なんてロクでもない。
こんなに悩まされて、振り回されて……ばかばかしい。
もう元の自分に戻ろう。誰とも向き合わず、人付き合いを避けて、ひとりで生きていく。
それが一番いい――。
そんなことを考えながら、紫季は自宅の玄関ドアの前で、立ち尽くしていた。
もう、自分の家に入るのすら億劫だ……。
茜さんと葵が来てから、ここは“自分の家”ではなくなった。
それでも何とか踏ん張ってここにいるのは、紫季にとって凛太朗が“心の支え”だったからだ。
その凛太朗にまで裏切られた気がしている今、このドアを開ける気力さえ残っていない。
そして、そんなふうに自分が簡単に乱されていることにも、紫季は腹が立っていた。
怒りなのか、悲しみなのか。自分の中に渦巻く感情が、もううまく掴めない。
深く、大きなため息をついて、紫季はようやくドアを開けた。
「……ただいま」
「あっ……紫季くん、もう帰ってきたのね。おかえりなさい」
二階から、茜が階段の途中まで降りてきて、紫季を出迎える。
「紫季、おかえり。早いな……ちょっと待ってくれ」
父もリビングから慌ただしく顔を出した。
(なんだ? この慌てよう……)
父と茜の様子に、紫季は今日何度目かの胸騒ぎを覚える。
リビングからは葵の泣き声が聞こえてくるが、それはいつものことだと受け流していた。
けれど、茜が小さな段ボール箱を抱えて階段を降りてきた瞬間――
その中身を見た途端に、紫季の中でマグマのような怒りが沸き上がる。
手が小刻みに震え、下唇をギュッと噛んでなんとかこらえる。
「ご、ごめんなさいね……葵には、紫季くんの部屋には入らないように、キツく言ってあったんだけど……」
リビングから、泣きじゃくる葵を抱いた父が出てきた。
「今日は、お前の部屋のドアが少しだけ開いてたみたいでさ。そこからちらっと、このサボテンが見えたらしくて。で、近くで見たくなったらしいんだ。
中に入って取ろうとしたときに、手が滑った……そういうことらしい」
段ボール箱の中には、小さな鉢植えのサボテンが入っていた。
鉢は粉々に砕け、サボテンも土もぐちゃぐちゃに散乱している。
それは、紫季が中学の修学旅行のときに、凛太朗からもらったものだった。
ずっと大切に育てていた。
ただの“友達からの贈り物”だった頃から。
そして今は――恋人からの、大切な思い出として。
花が咲いたときには真っ先に凛太朗に報告して、一緒に喜んだ。そんな存在だった。
紫季の部屋には、無駄なものがほとんどない。
その中でひっそりと佇んでいたグリーン。
その姿が、いま無残な形で、箱の中に横たわっている――。
「お兄っちゃんっっ、ごめん゛な゛ざい……」
葵は、これでもかというほど泣いていた。
ちゃんと悪いことをしたと理解していて、その罪悪感も、十分すぎるほど伝わってくる。
茜は顔面蒼白で、申し訳なさそうに口元を噛んでいるし、父も泣きじゃくる葵に困り果てている。
――誰が悪いのか、誰が責められているのか、もはや分からない。
「紫季、悪かった。これからはもっと気をつけて躾けるから……今回は許してやってくれないか」
(……そっか。父さんは、そっちの味方なんだ)
紫季の中で、何かがスッと下りるような感覚があった。
「別に怒ってないよ。大丈夫。それ、処分しといて。……じゃあ俺、部屋で勉強するから。
茜さん、冷たいココア、作ってくれる?」
「……! もちろん! すぐに作るね」
「うん。ありがとう。葵も、泣かなくていいよ。怒ってないから」
紫季は、まるで模範解答のように、淡々とやり取りをこなしてみせた。
笑顔で、何も気にしていないように装いながら。
相手の罪悪感を取り除くように、気遣いの言葉まで添えて。
――その胸の内には、今にも爆発しそうな怒りを、必死に押し込めながら。
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