31 / 46

第31話 白粉花

紫季は今日一日、いろんな不安を抱えたまま過ごしていた。自分の成績はもちろん、凛太朗のランク外という事実には心底動揺した。  自分の順位は落ちたものの、まだ巻き返せる範囲だ。それよりも気になるのは、凛太朗の態度だった。ネガティブな発言に、朝は一緒に登校すらできなかった。  なんで? 本当に大丈夫?――そんな言葉が、ぐるぐると頭の中を巡っている。  今まで人付き合いを避けてきた紫季には、凛太朗の行動の意図がわからなかった。自分のこの気持ちをどう処理したらいいのかも、まるでわからない。 (別れる、とか言い出すのかな……)  少しでも想像しただけで、紫季の綺麗なヘーゼルアイにはうっすらと涙が浮かんだ。頭の中に浮かんだ“別れ”という言葉をすぐにかき消し、ぐっと深呼吸をして気持ちを立て直す。 (よし……憂鬱だけど、仕方ない。凛太朗を迎えに三年六組に行ってみよう)  帰りのホームルームでは、そう自分に言い聞かせていた――。  紫季は、勇気を振り絞って三年六組に来ていた。  「勇気を振り絞る」なんて、大げさに聞こえるかもしれない。でも、紫季にとっては本当に、それくらい高いハードルだった。  三年一組から五組までの普通科と、三年八組の英数科は同じ校舎にある。だが、理数科だけは別の棟にあり、渡り廊下でつながっているとはいえ、紫季にとっては小さな冒険だった。  しかも理数科は男子ばかり。まだ気は楽だが、知らない教室に、知らない人ばかりの中へ入って、声をかけるという行為は――紫季にとっては苦痛に近い。  それでも、朝から胸に渦巻いていた嫌な予感が、紫季を突き動かしていた。 「えっと……凛太朗、いますか?」 「あぁ、雨宮ね。予備校あるとかで、さっき帰ったよ」 「けっこう急いでたよな」 「やっぱアレか? 成績。今回めっちゃ落ちてたもんな」 「俺らみたいな部活組が今回、本気出したのもあるんじゃね?」 「それな! お前、一気に成績上がってたしなー」 「部活で鍛えた忍耐力を勉強に全振りよ。……って、眼鏡の君、誰か知らんけど。雨宮には“あんま落ち込むな”って言っといてくれや」  ドアの横に立っていた紫季に向かって、がっしりした体格の男子たちが次々に話しかけてくる。  見た目は凛太朗と同じくらいか、それ以上の身長の子もいて、四、五人も集まると、なかなかの迫力がある。  圧に飲まれそうになった紫季だったが、意外にも彼らの口調は柔らかく、どこか親しみがあって、少しだけ肩の力が抜けた。 「……ありがとう」  ぽつりと呟いて、紫季は俯きながら六組の教室を後にした。 (何避けてんの? わざとなの? たまたまなの?)  紫季は、不安を通り越して、腹が立ってきた。  言いたいことがあるなら、はっきり言うべきだ。黙って避けるなんて卑怯だと思う。  これは俺、絶対間違ってない。  恋人同士なら、ちゃんと話し合うべきだ――。  そう言い聞かせて、紫季はまっすぐ凛太朗の家へと向かった。   ———ピンポーン。    自宅には戻らず、その足で凛太朗の家に寄った。だが、インターホンに出たのは凛太朗の母だった。 『はぁい。紫季ちゃんじゃない。凛太朗はまだ帰ってないのよ。予備校も今日はないはずだし……お茶して待ってる?』 「いえ、大丈夫です。また来ます」 『そう? じゃあ、また来てね』 (……帰ってない)  紫季の心臓が、ツキン、と痛んだ。  なんで……。  “とことん俺と向き合え”って言ったのは、お前だったじゃないか。  やっぱり、恋愛なんてロクでもない。  こんなに悩まされて、振り回されて……ばかばかしい。  もう元の自分に戻ろう。誰とも向き合わず、人付き合いを避けて、ひとりで生きていく。  それが一番いい――。  そんなことを考えながら、紫季は自宅の玄関ドアの前で、立ち尽くしていた。    もう、自分の家に入るのすら億劫だ……。  茜さんと葵が来てから、ここは“自分の家”ではなくなった。  それでも何とか踏ん張ってここにいるのは、紫季にとって凛太朗が“心の支え”だったからだ。  その凛太朗にまで裏切られた気がしている今、このドアを開ける気力さえ残っていない。  そして、そんなふうに自分が簡単に乱されていることにも、紫季は腹が立っていた。  怒りなのか、悲しみなのか。自分の中に渦巻く感情が、もううまく掴めない。  深く、大きなため息をついて、紫季はようやくドアを開けた。   「……ただいま」 「あっ……紫季くん、もう帰ってきたのね。おかえりなさい」  二階から、茜が階段の途中まで降りてきて、紫季を出迎える。 「紫季、おかえり。早いな……ちょっと待ってくれ」  父もリビングから慌ただしく顔を出した。 (なんだ? この慌てよう……)  父と茜の様子に、紫季は今日何度目かの胸騒ぎを覚える。  リビングからは葵の泣き声が聞こえてくるが、それはいつものことだと受け流していた。  けれど、茜が小さな段ボール箱を抱えて階段を降りてきた瞬間――  その中身を見た途端に、紫季の中でマグマのような怒りが沸き上がる。  手が小刻みに震え、下唇をギュッと噛んでなんとかこらえる。 「ご、ごめんなさいね……葵には、紫季くんの部屋には入らないように、キツく言ってあったんだけど……」  リビングから、泣きじゃくる葵を抱いた父が出てきた。 「今日は、お前の部屋のドアが少しだけ開いてたみたいでさ。そこからちらっと、このサボテンが見えたらしくて。で、近くで見たくなったらしいんだ。  中に入って取ろうとしたときに、手が滑った……そういうことらしい」  段ボール箱の中には、小さな鉢植えのサボテンが入っていた。  鉢は粉々に砕け、サボテンも土もぐちゃぐちゃに散乱している。  それは、紫季が中学の修学旅行のときに、凛太朗からもらったものだった。  ずっと大切に育てていた。  ただの“友達からの贈り物”だった頃から。  そして今は――恋人からの、大切な思い出として。  花が咲いたときには真っ先に凛太朗に報告して、一緒に喜んだ。そんな存在だった。  紫季の部屋には、無駄なものがほとんどない。  その中でひっそりと佇んでいたグリーン。  その姿が、いま無残な形で、箱の中に横たわっている――。 「お兄っちゃんっっ、ごめん゛な゛ざい……」  葵は、これでもかというほど泣いていた。  ちゃんと悪いことをしたと理解していて、その罪悪感も、十分すぎるほど伝わってくる。  茜は顔面蒼白で、申し訳なさそうに口元を噛んでいるし、父も泣きじゃくる葵に困り果てている。  ――誰が悪いのか、誰が責められているのか、もはや分からない。 「紫季、悪かった。これからはもっと気をつけて躾けるから……今回は許してやってくれないか」 (……そっか。父さんは、そっちの味方なんだ)  紫季の中で、何かがスッと下りるような感覚があった。 「別に怒ってないよ。大丈夫。それ、処分しといて。……じゃあ俺、部屋で勉強するから。  茜さん、冷たいココア、作ってくれる?」 「……! もちろん! すぐに作るね」 「うん。ありがとう。葵も、泣かなくていいよ。怒ってないから」  紫季は、まるで模範解答のように、淡々とやり取りをこなしてみせた。  笑顔で、何も気にしていないように装いながら。  相手の罪悪感を取り除くように、気遣いの言葉まで添えて。  ――その胸の内には、今にも爆発しそうな怒りを、必死に押し込めながら。

ともだちにシェアしよう!