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第32話 白粉花

紫季の視線は、本棚の一角に注がれていた。 そこは、わざわざ本を入れず、サボテンのために空けておいた特等席だった。  今は、ぽっかりと空虚なままだ。  カバンを放り投げると、制服を乱暴に脱ぎ捨て、下着一枚の姿でベッドに飛び込んだ。  もっと高い位置に置いておけばよかったのか。 朝、急いでいてドアをしっかり閉めなかったのが悪いのか。 そもそも、勝手に人の部屋に入る方がどうかしている。  ここは俺の家だ。 色々あったけれど、父さんと二人で暮らしてきた家だ。  なのに――  なのに!!!!!! (どうして、こんなにも乱されなきゃいけないんだ……)  そもそも、どこもかしこもカラフルで、やたらとガチャガチャしている。 階段の壁には、葵が幼稚園で作ったと思われる作品が、これでもかと並んでいた。  母が出て行ってから、こんなふうに家が散らかったことなんてなかった。  小三の秋からの一年間。母と二人で過ごした、たった一年。 あの一年間で、この家は徹底的に荒れた。  散らかった部屋、積まれた洗濯物、料理の匂いのしない台所。 あの頃の記憶が、散らかった風景に重なって蘇る。  子どもがいれば、部屋が散らかるのは当然かもしれない。 でも、俺は受験生だ。 この大学受験に、人生を懸けていると言っても過言じゃない。 少しは配慮してくれてもいいじゃないか――そう思ってしまう。  どうして、もともと住んでいた俺の方が、気を遣わなきゃいけないんだろう……。  「もう……疲れた……」  ベッドにうつ伏せた紫季の頬を、ひとすじの涙がすうっと伝った。  それは音もなく、枕にぽとり、ぽとりと落ちていく。  そのまま、紫季は静かに目を閉じた。    ピーポーピーポー。  救急車のサイレンに目を覚まし、ぼんやりと窓の外を見る。 外はもう薄暗く、時計の針は午後七時を指していた。 (うわ……寝すぎた……)  机の上には、茜が置いていったのだろうアイスココアがあった。 氷はすっかり溶け、小さな水たまりがコップの周囲にできている。  かけた覚えのないタオルケットが身体にかかり、 つけた記憶のないエアコンが、心地よい温度に部屋を整えていた。  胸の奥に、ずしりと罪悪感がのしかかる。 少し眠って、頭が冷えてくると―― さっきまでの怒りや苛立ちは、凛太朗のことを思ってのものだったと、ようやく気づけた。  紫季は、水っぽくなったココアを一気に飲み干して、階下へと足を運んだ。 「お兄ちゃん、サボテン……ごめんね。これ……代わりになるかな?」  葵がモジモジとしながら差し出したのは、折り紙で作った“サボテンらしき”何かだった。  まるで似ていないし、立体ですらない。  顔がついていて、てっぺんにはやけに派手な花が咲いている。  というか、花が増えていて、小さな花束みたいになっていた。  もう、サボテンですらないその謎の物体を見て、紫季は思わず「ふふっ」と笑った。 「葵、ありがとう。すっごく嬉しいよ。お部屋に飾るね」  そう言うと、葵はぱあっと顔を輝かせて、紫季の太ももにギュッと抱きついてきた。  テーブルの上には、唐揚げをはじめとしたご馳走がずらりと並んでいる。 どれも紫季の好物ばかりだ。  ――ああ、なんだ。  俺だけが、気を張っていたわけじゃなかったんだ。  相手だって、ちゃんと気を遣ってくれていたんだ。  そのことに気づいた瞬間、紫季は自分の器の小ささが恥ずかしくなった。 「美味しそう。いただきます」 「たくさん食べてね。おかわりもあるからね」 (俺は……どうして、こんなにも可愛い葵と、優しい茜さんのことを、素直に受け入れられないんだろう)  紫季は、自分の底意地の悪さに、心の底からうんざりした。 期末テストの個人成績も返却され、明日からはいよいよ午前授業。来週には夏休みに突入する。 「おはよう、紫季!」 「森くん、おはよう」 「うん。おはよ」  まだエアコンをつけて間もないせいか、教室にはムワッとした空気がこもり、湿気が肌にまとわりつく。  吹き出し口から放たれるカビっぽい匂いに顔をしかめながら、紫季は自分の席に腰を下ろした。  真美と由希子と仲良くなってから、その周りの女子とも挨拶やちょっとした雑談は交わすようになり、紫季の教室での居場所はずいぶん賑やかになっていた。 「森くん、夏期講習行くの?」 「うん。一応ね。今の塾のとこだけだけど」 「そっかー。真美は掛け持ちするんだよね?」 「うん。英語はいいんだけど、数学がちょっと不安で。家庭教師もお願いすることになった」 「やばー。ガチじゃん」 「まぁね」 「でもさー、ほんとはもう全部放り投げて青春したくない? 素敵な彼氏ほしー! デートしたーい!」 「それな〜!」  女子たちの会話に、紫季は相槌と笑顔で参加しつつも、心の中では思いきりうなずいていた。 (……わかる。俺も凛太朗とデートしたい……) 「ねぇ森くん、雨宮くんと仲いいんでしょ? 進路ってどうしてるの?」 「ああ……進路の話は、あんまりしないんだ。だからわかんない」 「えー、そうなの? 意外」 「俺も具体的なことは話してないし、男同士なんてそんなもんじゃない?」 「ふーん、そうなんだ」  ——嘘だ。それは、嘘だった。  一度だけ、恋人になってすぐの頃、紫季は凛太朗に志望校を聞いたことがある。 「医者にはならない」とだけは知っていたから、なんとなく気になって。  すると凛太朗は、「まだ迷ってるんだよね。決まったら教えるよ」と言って、そのまま話題をそらしてしまった。  それ以降、進路や大学の話になると彼の反応が薄くなるので、紫季の方からはなるべく触れないようにしていた。  ——きっと、もうとっくに志望校は決まってる。凛太朗のことだから。  なのに話してくれないのは、きっと何か理由がある。  紫季はそう思いながら、ずっと様子を見ている。  成績上位者の発表が終わった日の夜、凛太朗から一通のメッセージが届いた。 『勉強に集中したいから、登下校は別にしたい』  (……それって、いつまで? 会うだけでも、ダメなの?)  紫季の部屋からは、凛太朗の部屋の窓が見える。  そこに灯りがつくのを見て、彼の帰宅を知る。  ときどきカーテンの向こうに、大きな黒い人影がちらりと見えると、まるで凛太朗に会えたような気がして——少しだけ、心が温かくなる。  “凛太朗の生存確認”  それが、夜の紫季のルーティンになっていた。 (こんなに近くにいるのに……凛太朗が、遠い)

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