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第33話 真夏の夜空の光と闇
終業式が終わり、下級生たちは部活に精を出していた。
グラウンドからは蝉の鳴き声とともに、野球部やサッカー部の掛け声が響いている。
3年生の教室前には椅子がずらりと並べられ、順番を待つ親子たちの姿。三者面談の最終日だ。
紫季も今日がその日だった。
帰宅せず、どこか空き教室で勉強しようと思ったが、どこも鍵がかかっていて諦め、図書室へ向かう。
同じ考えの生徒が数人いたのか、図書室の椅子もぽつぽつ埋まっていた。
エアコンが壊れているこの部屋では、窓が大きく開け放たれ、カーテンが風に揺れている。
揺れる布のすき間から日差しが差し込み、紫季は眩しさに顔をしかめながら席を移ろうとした。
そのとき、不意に窓の外に見慣れた姿を見つけた。
(え……?)
校門の近くにいたのは、凛太朗とその母親、そして——父親。
凛太朗の父を見かけるのは、紫季にとっても久しぶりだった。
(まさか…?)
三者面談に両親揃って来るなんて、よほどのことがない限り珍しい。
凛太朗の父は普段から多忙だし、面談のために時間を取ったとなると、何かあったのかと不安がよぎる。
(成績が落ちたとか?でも、それで学校に来るタイプの親じゃなさそうだし…)
「失礼しまーす。紫季、そろそろだよ」
声をかけてきたのは由希子だった。
紫季の二つ前の時間だった由希子に、終わったら教えてと頼んでいたのだ。
「あ、ありがとう」
「あー疲れたー。うちの母親さぁ、“絶対受かりますか?”しか言ってなくて。こっちは今頑張ってるのに、なんなのあれって感じ」
「厳しいんだ?」
「いや、母じゃなくて祖母だよ。うち、父親がひとりっ子で、ばあちゃんと同居なの。お母さん、ずっとチクチク言われてたみたいでさ、いわゆる嫁姑バトルってやつ。私、小さい頃はばあちゃんっ子だったけど、今はもう完全お母さんの味方。
ばあちゃん、めちゃくちゃ世間体気にする人で、“落ちたら近所に顔向けできない”とか言ってさ。知るかっての」
「そうなんだ……」
紫季は目を伏せたまま、並んで廊下を歩く。人気のない廊下に、2人の足音だけが静かに響いていた。
しばらく黙ったあと、由希子が少し声のトーンを落として口を開く。
「……聞いていいかわかんないけど、紫季の面談って、お父さん来てるよね?お母さんは?」
「あぁ……小四のときに離婚してるんだ。母親、病んじゃって。育児できる状態じゃなかったから」
「そっか。……珍しいね、父親が親権持つって」
「うん。まぁ、色々あって」
「へぇー……どこも大変なんだね」
その言葉に、紫季はぴたりと立ち止まる。
「……“どこも”?」
その一言が引っかかった。
どこも、というけど、みんな両親揃ってて、普通の家庭に見える。
“特別”なのは自分のほうじゃないのか——そんな思いが喉元にせり上がる。
「家族なんて、そんなもんじゃない?どこも何かしらあるよ。真美だって、小さい頃に両親が離婚してて、中学入った頃に母親がとんでもない金持ちの社長と再婚しちゃったらしいの。で、いきなり“こーんな私立”に入れられてさ。本当は地元の公立に行きたかったのに、友達と離れたくなかったって言ってた。成績落ちたら、義父が怒るんだって。マジで、他人が何様って感じだよね」
「……そ、そうだよね」
「担任のハラセンなんて、両親にネグレクトされてて施設育ちらしいよ?」
「……え?」
「うん。卓球部の子が言ってた。顧問じゃん?大学の奨学金もまだ返してて、お金カツカツらしいよ。“私立に行かせてもらえて、好きなことできてんだから、感謝しろよー”って釘刺されたって言ってた」
「……そっか……」
「ね、そう聞くとさ。“普通の家族”なんて、ないんじゃない?って思わない? “普通”って、なに?」
由希子の口調はさらりとしていたが、言葉は不思議な重みを持っていた。
「うちの悩みなんて、まだ小さいほうかもって思うもん。奨学金の心配もしなくていいし、予備校も行かせてもらえてるし」
由希子はそう言いながら、にこっと笑って紫季を振り返る。
「じゃ、紫季、お父さん待ってるよ!面談頑張って!
夏休み、一回くらいどっか行こうよ。花火大会とか!また連絡するねー!」
「うん、ありがとう……」
(“普通の家族”なんて……ないのかもしれない)
気がつけば、教室前の椅子にたどり着いていた。
紫季は父と並んで腰を下ろす。
「ごめん、待たせた?」
「いや、大丈夫。さっきの子は友達?」
「うん。そう。……久しぶりにできた、友達」
「そうか……大事にしなさい」
「うん。……そうする」
父の横顔は、いつもより少し柔らかく見えた。
ただの思い過ごしかもしれない。でも紫季は、そう感じることにした。
廊下には風が通らず、蒸し暑さがまとわりついてくる。
背面の窓から、蝉の声が波のように響いては、また静かに引いていった。
(……もしかして、凛太朗の家にも、俺が知らない何かがあるのかもしれない)
紫季は、今まで考えたこともなかった“可能性”に、ふと触れた気がした。
面談も滞りなく終わり、予備校へ向かう電車の中で、紫季は凛太朗にメッセージを送った。
――今日会って話したい。何時に帰る?
夏休みに入るし、今日くらいは会ってくれるだろう。そんな淡い期待を抱きながら授業を終え、真っ先にスマホを開く。
既読はついているのに、返信はない。
一番きついやつだ――と、紫季は心の奥からじわりと落ち込んだ。
仕方なく、また凛太朗の家へ向かうことにした。
時刻はすでに十九時を回っているが、空はまだどこか名残惜しそうに青さを残していた。
さすがに蝉の声は聞こえない。代わりに、カエルが鳴いている。
“カエルの歌が〜”なんて童謡もあるが、あんな可愛らしいものでは到底なかった。
家の近くの側溝あたりから、グワグワ、ボーボーと響いてくる低音の合唱。地響きのような鳴き声は、耳の奥にずっしり残った。
このあたりは高級住宅街と呼ばれてはいるが、所詮は地方の中核都市。ときおり目をひく豪邸もあるが、ほとんどは“そこそこ”な家々が並んでいる。駅からの帰り道には、ふつうに田んぼや畑もある。
でも、紫季はこの道が好きだった。
田んぼに水が張られ、側溝にはアメンボが浮かび、庭木がそよぐ。
季節の移ろいを、道そのものが教えてくれる。
小学生の頃、この道をよく凛太朗と帰った。
ザリガニを釣ったり、タニシを拾ったり。ランドセルを背負った二人が、水辺で遊んだあの日々。
胸の奥に、懐かしさと不安が混ざる。
歩みを止めるわけにもいかず、紫季はそのまま凛太朗の家に向かった。
二階の部屋に明かりがついているのを見て、インターホンを押す。
シャッとカーテンが開かれ、凛太朗と目が合った。
「上がってこいよ」
窓を開けてそう言うと、凛太朗はまたすぐに窓を閉じ、姿を消した。
「おじゃまします……」
一階は誰もいないのか、電気もついておらず、しんと静まり返っている。
この階段を登るのは何度目だろう。
最後に来たのは、テスト前。
そして、最後に身体を重ねた、あの日だった。
あの時は――恋人になって、浮かれていて、触れられることが嬉しくて。
どんな言葉も、どんな触れ方も、甘やかで幸福だった。
今は、ただ階段の一歩一歩が重くて。
足取りが鉛のように沈んでいく。
(……なんて話そう)
「話したい」と言ってきたのに、何から言えばいいのか決めていなかった。
どう切り出せば、凛太朗の表情が曇らずに済むのか、そればかり考えていた。
「紫季、早く来いよ」
上の方から声がして見上げると、部屋のドアから凛太朗が顔をのぞかせていた。
お風呂上がりなのか、濡れた髪にタオルを掛けていて、いつもより少し無防備な姿だった。
紫季は小さく息を吐き、残りの段を駆け上がって凛太朗の部屋へと入る。
「……ごめん、急に来て」
「いや、それは俺が悪かったから。分かってるよ。俺が避けたんだよな。ほんと、ごめん……」
まさか、謝られるとは思っていなかった。
紫季は一瞬、何も言えなくなって俯いた。
言いたいことが、何ひとつまとまらなくなってしまう。
頭の中で、問いかけが渦を巻く。
――どうして連絡をくれなかったの?
――今、なにを考えてるの?
――好きでいてもいい?
――嫌いにならないで……
言葉にできない感情が、喉の奥でごちゃごちゃになったまま、ようやく凛太朗の口が開く。
「紫季……ほんと、ごめん。ちょっと……距離おきたい」
その言葉を聞いた瞬間、心の中にあった曖昧な不安が、はっきりと“傷”のかたちになった。
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