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第34話 真夏の夜空の光と闇
「え……」
しんと静まり返った部屋の中には、時計の秒針の音だけが淡々と響いている。
部屋に入った瞬間ふわりと感じた、金木犀のルームフレグランスの香りさえ、今はもうまったく意識に上ってこない。
思考がまとまらず、言葉が出てこない。
受験のこと、凛太朗のこと、家族のこと――
紫季の頭と心は、すでに限界を越えていた。
やっとの思いで出てきた言葉は、
「……別れる、じゃなくて?」
だった。
「うん。勝手でごめん。でも、今は一緒にいられない。その方がいいと思う。紫季にとっても……。でも、本当に別れたいわけじゃないんだ。紫季のこと、大好きだよ。それだけは信じてほしい。本当に、ごめん……」
「……それって、いつまで?理由は?教えてくれないの?」
「……うん……ごめん、ごめんな……」
凛太朗の言葉に、分厚くて高い壁を感じた。
今まで一度も感じたことのなかった、見えない距離だった。
――あぁ、やっぱり。
ほら見てみろ、色恋なんてロクなもんじゃない。
数ヶ月前の自分が、胸の中で冷たく囁く。
友達のままでいたら、こんなふうにこじれることもなかった。
きっと今ごろは、お互い励まし合いながら受験勉強に集中できていたはずだ。
……もう、このまま「友達に戻ろう」って言ってしまえばいいんじゃないか。
こんなもどかしい苦しみから、解放されてしまいたい――。
そう思った瞬間、紫季は覚悟を決めた。
別れの言葉を口にしようと顔を上げる。だが、その視線の先には、今にも泣き出しそうな顔の凛太朗がいた。
「は? なんで? なんでお前が泣きそうな顔してるんだよ。距離置きたいって言ったの、お前じゃん。……泣きたいのはこっちだよ。
俺たち、うまくいってたじゃん。たった数週間だったけど、俺……死ぬほど幸せだったんだよ。なのに……意味わかんねーよ、こんなの……」
紫季の目から涙が溢れ出した。
そのまま膝から崩れ落ち、床に倒れ込む。
四つん這いになった姿勢で顔を伏せると、ラグにぽたぽたと涙の跡が滲んだ。
そして、いつものように凛太朗の大きな手が紫季の頬に触れ、涙をそっとすくった。
「……ごめん。待ってて、としか言えない。ごめん……」
その声は、微かに震えていた。
ふたたび、二人の間に長い沈黙が落ちる。
紫季は下唇を噛みしめ、何かを押し込むようにして顔を上げた。
大きく息を吸い、香りの残る空気を鼻いっぱいに取り込む。金木犀の匂いが、胸の奥まで染みわたった。
そして、口から一気にその息を吐き出す。
「……わかった。俺は死ぬほど勉強する。
勉強しながら、お前のこと待つ。何と戦ってるのか知らないけど、負けんなよ、凛太朗も」
「うん……ありがとう、紫季」
紫季は、凛太朗の言った「紫季のこと、大好き」と「待ってて」――その二つの言葉だけを信じることに決めた。
言いたいことは山ほどある。
聞きたいことも山ほどある。
なんで? どうして?
そんな疑問でいっぱいになる前に、自分の心を守るために、その二つだけを繰り返す。
凛太朗は、自分を変えてくれた人だ。
長い間、幼い頃のトラウマを引きずり、孤独の中にいた紫季に、
もう一度「信じること」や「人と繋がる喜び」を教えてくれた存在だった。
まだまだ難しいことはたくさんある。
でも、一歩を踏み出す勇気をくれたのは、間違いなく凛太朗だった。
――変わりたい。
かつての凛太朗が、自分の気持ちに迷いながらも、それでも想い続けてくれたように。
今度は、自分がそれをやりたい。
(よし……もう、ブレない。凛太朗が話してくれるまで、ちゃんと待とう)
紫季は、窓の外に目を向けた。
すぐそこにある凛太朗の部屋。明かりが灯っている。
近くに凛太朗がいる。
そのぬくもりを感じながら――紫季は、自分のやるべきことに集中しようと、静かに気合を入れた。
夏休みも二週間がすぎ、毎日予備校に通う日々が続いていた。
午前中は講義、午後は自習室。
お昼の時間にだけ茜さんの手作り弁当を食べて、それ以外はひたすら机に向かう。
まるで雑念を払うための呪いのように──。
そんな紫季も、さすがに今夜は勉強を休むことにした。
真美と由希子に花火大会へ誘われたのだ。
『十八時に真美のマンション集合!道中で、焼きそばとリンゴ飴と、たこ焼きとチョコバナナ二つよろしく!あとはテキトーに買ってきて〜!』と、由希子からの指令が届いていた。
なんでも、真美の住んでるマンションからちょうど花火が見えるらしい。
そのかわりに、おつかいという名のパシリを任命されたというわけだ。
(どんだけ買うんだよ……)
ぶつぶつ文句を言いながらも、内心ではちょっと楽しみだった。
久しぶりの気晴らしだし、凛太朗以外の友達と遊ぶのは、いつぶりだろう。
花火大会なんて、小学生以来だった。
(……本当は、凛太朗と行きたかったけど)
うっかりすると、ちいさな願望が顔を出す。
やっかいだなと自分に呆れながら、屋台が立ち並ぶ賑やかな通りを進む。
浴衣や甚平の人たちの中、両手いっぱいにおつかいの戦利品を抱えて、真美のマンションへと急いだ。
「おじゃまします」
「はーい、おつかれパシリくん!」
「ほんと、どんだけ食べんだよ」
「おい、紫季。このクソ暑い中、ギュウギュウの人混みのなか早くから場所取りして、時間も体力も削って、たいして見えもしない花火を見るか、それとも、涼しいお部屋でギリギリまで勉強して、ちょっとだけパシられて、そこからエアコンの効いた部屋で綺麗な花火見ながら屋台のごはん食べるのと、どっちがいい?」
「……はい。すみません。ありがとうございます。ありがたくパシらせていただきます」
「だよね〜」
(女子、つよ……)
でも実際、助かったのだった。
人混みは苦手だし、ましてや場所取りで何時間も潰すなんて耐えられなかった。
聞いてはいたが、真美のマンションはかなりの高級物件だった。
エントランスからして高級感がすごくて、二十三階という立地もあって、河川敷の花火が綺麗に見えそうだった。
「真美のご両親、今日は?」
「あー、二人とも船。船から花火見るんだって」
「ふ、ふね!?」
「そ。やばくない?」
「てかさー、うち、前は田舎のオンボロアパートで母と二人暮らしだったのに、気づけば社長夫人と社長令嬢だよ。場違い感すごいわ」
真美はたこ焼きをつまみながら、あっけらかんと笑った。
紫季は、ちょっと気になっていたことを口にしてみた。
「真美……もう新しい家族に慣れた? しんどくない? 環境が急に変わるって、大変じゃない?」
真美と由希子は目を見合わせて、ちょっと驚いたような顔をした。
「……うちはね、もともと貧乏だったから。生活の質が爆上がりしただけで、気持ちは案外平気。
義父に思うことはあるけど、もう高校卒業したら家出るって決めてるしね。
まぁ、あの人別に悪い人じゃないし。ちょっと勉強にうるさいだけ。……まぁ、進路に口出されたときはマジで腹立ったけど。心のなかで『クソじじぃ』って百回くらい言ったよ」
「そっかぁ……」
「真美、つよ! ほんと尊敬するんだけど!」
「いやいや、まじ尊敬するって……」
(こんなに小柄で可愛いのに、内側はめちゃくちゃ根性あるんだな……)
紫季は俯いて、失礼なことを考えながらチョコバナナをかじった。
その顔はなんとなく深刻で、妙にチョコバナナとミスマッチだった。
「なに? 紫季。なんか悩んでる?」
「うちら、なんでも聞くよ〜?」
二人の目は、思いのほか真剣だった。
冗談で言ってるんじゃなく、本気で心配してくれている。
それがちゃんと伝わってきて、紫季の胸にじんわり沁みた。
(……ふたりとも、やさしいな)
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