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第36話 真夏の夜の光と闇

 八月十一日。  父の仕事もお盆休みに入り、茜さんの祖父母の家に行くことになった。泊まりがけになるというので、紫季は「受験勉強があるから」と丁寧に断った。  代わりに、先月階段を踏み外して足を骨折し、入院中の祖母へのお見舞いを頼まれた。紫季にとっても、悪くない話だった。小学生の頃は頻繁に会っていたが、中学に入ってからは盆と正月くらいしか顔を出せなくなっていたし、年末は受験で帰省できないだろうと考えていたからだ。  祖母が入院しているのは、〇〇駅近くの市内最大の総合病院。駅周辺は商業施設やオフィスビルが立ち並ぶ、華やかなエリアだった。  家からはバスが早い。紫季は、蝉の声が何重にも響くバス停で、病院前直通のバスを待っていた。  隣には、市民プールに向かう小学生たちが数人。肌は真っ黒に日焼けし、タンクトップの下には半袖焼けの跡がくっきりと残っている。付き添いの母親はもうすでに疲れきっていて、大きな荷物を抱えてベンチに項垂れていた。  その光景が、紫季の記憶を引き寄せる。  ──あの頃はまだ、母親も“まとも”だったな。  凛太朗と一緒に母親ふたりに連れられて、夏休みに市民プールに行った日々。曇りも傷もない、小さな家族の思い出。  懐かしさと、少しの切なさを胸に抱えて、通学時より空いているバスに乗り込んだ。 —————— 「失礼します。おばーちゃん?」  総合受付を抜け、エレベーターで病棟に上がり、紫季は祖母の病室をすぐに見つけた。 「あらっ、紫季ちゃん。いらっしゃい。また背が伸びたんじゃない?」  四人部屋の窓際。祖母はベッドの上で本を読んでいた。紫季が想像していたよりも、ずっと元気そうだった。 (……まぁ、病気じゃないもんな) 「俺、去年からまったく伸びてないよ。残念ながら成長期は終了しました」 「あらそう? 会うたびに背が高くなってる気がするのにねぇ」  祖母は本を閉じ、枕元の引き出しから煎餅を取り出して紫季に差し出した。 「こんなのしかないけど……」 「ありがと。ぜんぜん平気。おばあちゃん、調子はどう? 困ってることとかない?」 「ないわよ〜。おじいちゃんも毎日来てくれてるし、もう来週には退院できるんだから」 「そうなんだ。あんまり無理しちゃだめだよ。どうせ若い頃のつもりで動いちゃったんでしょ? たまには父さん呼びつけて、いろいろ手伝ってもらわないと。俺も、受験終わったら手伝うからさ」 「あらまあ、図星つかれたら何も言えないわねぇ。紫季ちゃんは、私たちのことなんて心配しなくていいから、うーんと勉強頑張って。いい報告、楽しみにしてるわよ」 「うん、がんばるね」  紫季は祖母としばらく他愛もない話をしたあと、病室を後にした。       ——————  消毒液の匂いがうっすら漂う、地下のように薄暗い廊下をひとりで歩く。  紫季の記憶の中の祖母は、もっと髪にボリュームがあって、背筋も伸びていた気がする。半年に一度は会っているはずなのに──急に老け込んだのか、それとも、今まで自分がちゃんと見ていなかっただけなのか。 (……できるだけ、長生きしてほしい)  ロビーに向かうエレベーターの中で、紫季は静かに願った。祖母は、自分のなかで、数少ない「心から慕える存在」だったから。  エレベーターが開くと、会計待ちの人々と薬の説明を受ける家族でごった返すロビーが目に飛び込んできた。  アナウンスがひっきりなしに流れている。番号札を呼ぶ声が、建物の外にまで漏れていた。  エントランスを出て右に進むとタクシー乗り場があり、そこを抜けた先がバス停だ。距離にして、八十メートルほど。  日陰の中からバス停を見やると、ありえない人物が、まっすぐこっちに向かって歩いてくるのが見えた。 「……凛太朗?」

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