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第37話 急転直下

 「紫季……なんでここに……」 「いや、それ、こっちのセリフ。……なんで、こんなとこにいるの? 俺は、おばあちゃんが骨折して入院してるから、お見舞いにきただけだけど……凛太朗は?」  凛太朗が持っているカバン――右手にはいつも予備校に持って行っている黒いトート、左手には、くたびれたリュック。そこから覗くタオルの端と、折りジワのある着替えの袋。  紫季は、それを見逃さなかった。 「……まさか、誰か入院してるの?」  二人の間に、少し重い沈黙が流れた。  観念したように、凛太朗は小さく息を吐き、目を伏せた。 「紫季、このあと、時間ある? ちょっとだけ話せる? ……大丈夫なら、ロビーで十分くらい待っててくれる?」 「……わかった」  二人は無言で自動ドアを抜け、ロビーへと入った。 「じゃあ、ちょっと待ってて」  そう言って、凛太朗は入院病棟のエレベーターへと足を向けた。  紫季は、言われた通りロビーの椅子に腰を下ろした。  先ほどと変わらず、ロビーには会計窓口からのアナウンスがひっきりなしに流れている。  外来患者と見舞い客が、ひっそりと、しかし確かに行き交っていた。 (……たしか、凛太朗の祖父母って、どっちも遠方だったはず。 母方の方は、もう亡くなってるって聞いた気がする。……じゃあ、誰? 凛太朗が着替えを持ってくるような関係の人って……)  紫季の胸は、張り裂けそうなほど早鐘を打っていた。 (予備校も、この駅の近くに変えたって言ってた。 ……なんか、嫌な予感がする)  浮かびかけた二つの可能性に、紫季は慌てて首を振る。  考えたくない。考えたくない。  頭の中のざわつきを振り払うように、バッグから単語帳を取り出し、英単語をブツブツと呟いた。 「紫季、おまたせ。……そこのカフェ、入らない?」 「うん。……いいよ」  二人は、病院の正面にあるコーヒーチェーン店へと向かった。  店内はよく冷えていて、コーヒーの香ばしい香りが漂っている。けれど、なぜだろう。  いつも通っている家の近くの店とは、何かが違って見えた。  客層は年配の人が多く、席に座ってもどこかざわついている。  店全体に、目には見えないモヤがかかったような、不思議な重さがあった。  二人は注文を終えると、奥のカウンター席へ腰を下ろした。  脚の長い椅子。小さくて、丸い座面。お洒落だけど、勉強にはまるで向いていない。  凛太朗は飲み物を置くと、少し俯いてから、ようやく口を開いた。  その横顔は、いつもより痩せていて、目の下には濃いクマができている。  どこか影を落としたような表情が、紫季にはとても静かで、とても不安に映った。 「……実はさ──」 「癌なんだ。父さんが。今月から入院してる」  凛太朗の口から出たその言葉は、紫季がロビーで想像していた避けたい可能性の内の一つだった。  だから、あまり衝撃は受けなかったが、やはりショックだ。 「そっか…」 (想像どうり。だけど……それでも、現実を突きつけられると、こんなにも胸が痛むんだな……)  紫季は、この時初めて心臓の位置がわかった気がした。 「まぁ、あんなところであの荷物もってたら誰でも予想はできるか」 「うん……」  紫季は、膝の裏とこめかみにじわりと汗が滲んだ。 「余命二ヶ月。膵臓癌だ」 「えっ…?」  次の言葉には流石に驚愕した。 「二か月?二か月っていつ余命宣告受けたの?」 「期末テスト前だよ。六月末。だから、この夏、持ち堪えるかどうかもわからないって言われた」 「そんな……」  紫季は凛太朗にかける言葉が見つからない。 どうにか励まそうとするけど、すんでのところで言葉が詰まってでてこなくて、拳を握ることしかできなかった。 「わかった時にはもうあちこち転移してて……ステージⅣだった。手術もできない」  机に肘をついて、手のひらで額を抑えながら大きなため息をつく凛太朗。  いつもひょうひょうとしている凛太朗からは想像もつかないほど、疲労困憊な様子が見て取れる。 「医者なのにな。他人の病気ばっか見て、全然自分を顧みないからこうなるんだよ……バカじゃないのか?」  凛太朗はこぶしを握りしめて、こみ上げる感情に必死に蓋をしている。 「医者の不養生にも程があんだよ。  俺も母さんも、こんなに父さんが痩せてたなんて気付かなかった。  本当に、本当にいつも通り帰ってきて、淡々と、まるで天気予報でも告げるように、“癌だ”って……  膵臓癌で色々な場所に転移しているって……それで、余命二ヶ月だって……言ってて……これからの治療計画と遺書と、財産と…それから、葬儀だって……」  凛太朗の瞳はどんどん赤くなる。 それでも、泣くまいと気丈に耐えている。  「………っ葬儀はしないって……母校の医学部に献体するって……  俺たちには何の相談も無しに、勝手に色々決めてて……母さんは泣き崩れるし、じーちゃんとばーちゃんももう施設に入ってるし。  もう、ほんとどうしようもなくて……」  少しずつ凛太朗の声が震えてきた。 「何より、紫季に余計な心配かけたくなかった… 本当はこんな弱ってる姿も見せたくない。 成績も落ちて、大学もまだちゃんと決まってなくて… やりたい事も明確じゃなくて…… それに比べて、自分のやりたい事も志望大も決まってて、それに向かって頑張ってる紫季に、こんな情けないやつ、隣にいる資格、ないんじゃないかって……」  ついに凛太朗は机に突っ伏した。 鼻が詰まってズズッと啜る音が小さく聞こえ、紫季はそっと凛太朗の肩を抱いた。

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