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第38話 急転直下
「りん、たろ……」
気づいたら、紫季の目からも涙がとめどなく流れていく。
紫季は凛太朗に頭を寄せ、ギュッと抱きしめた。
「バカだろ……こんなこと、一人で抱え込むなよ」
「……ん。ちょっと参ってた。本当はずっと紫季にこうして欲しかったのかも」
情けない……凛太朗がこんなに苦しんでる時に、自分は会えない不満や、疑心暗鬼になってばかりで全然凛太朗の事を知ろうともしなかった。
紫季は、今更自分の愚かさに心底呆れた。
「……ごめん……辛い時に、何もしてやれなかったな俺……今も……何もできなくてごめん……。
お前があんな顔してたのに、気づけなかった。気づこうともしなかった。……ほんと、バカだ。自分ばっかりだ」
「紫季は悪くないだろ?逆に悩ませたよな。いきなり避けられて、もう俺の事嫌いになった?」
「そんな事で嫌いになるわけないだろ?」
少しだけ強い口調で紫季がすぐに否定する。
その声を聞いて、凛太朗は少し安心したように眉を下げてちょっとだけ笑った。
「そっか……良かった」
「お前は彼氏だけど、その前に親友だろ?なんでも相談しろよ。一人で悩むなよ。一緒に悩ませろ」
「ははっ……やばい。紫季が男前すぎて惚れそう」
「おぅ!存分に惚れろ。とことんお前を甘やかしてやる。もう距離は置かなくていいな?」
「うん……俺も紫季と一緒にいたい」
「うん」
店の奥、入り口から一番目が届かず、レジや調理場からも死角になっている壁際のカウンターで、誰にも見られず二人で声を押し殺して泣いた。
店内は相変わらずコーヒーの香りが漂って、心地よいBGMが流れている。周りも浮かない顔をして携帯を見たり、新聞を見たりして誰も紫季たちのことは気にも止めない。
誰も二人には気付かない。
窓の外では、誰も気づかぬうちに、夏の雨が降り始めていた。
紫季は、その時思った。
多分今日の事は一生忘れない——————
凛太朗が、涙の中で初めて本当の自分と弱さを見せてくれた日を……
—————あともう少しだけ、生きて欲しい。
そんな、風に消えそうな小さな祈りも虚しく、十月のはじまり。秋の風が肌に沁みはじめた金曜日に、凛太朗の父はそっと息を引き取った。
遺言どうり、遺体は大学病院の献体に出したので葬儀は行われなかった。
その代わり自宅で偲ぶ会を設けたらしく、凛太朗の家は週末、病院関係者がひきりなしに訪問しにきていた。
紫季も、偲ぶ会が始まってすぐに少しだけ顔を出して凛太朗の様子を見に行った。
凛太朗とその母の視線は、どこか虚空をさまよっていて……いまだこの現実を受け入れきれていないように見えた。
凛太朗は紫季を見つけると、口元がかすかに引きつり、笑うのか泣くのか分からない表情を浮かべて
「おぅ。来てくれたんだ……」と手を挙げた。
言葉の先は、もう声になっていなかった。
来る人来る人に深く頭を下げて、「暑い中、父のためにありがとうございます」と、何度も繰り返す。
いつものように、笑って、笑って……それでも、ときどき、視線がわずかに泳ぐ。
(無理、してるんだろうな……)
紫季との身長差は十五センチ。百八十センチ以上ある凛太朗が、今はすごく小さく見える。
幼馴染だから、わかってしまう。
あれは、崩れないようにしてるだけの笑顔だってこと。ほんの一瞬、誰も見てない時に、ふっと口角が落ちる瞬間。
紫季は、そういう“隙間”ばかりを見つけてしまった。
(代わってあげたい……)
代われないことくらい、わかってる。
それでも、今すぐにでも、背中を撫でてやりたい。
目の前で笑ってる凛太朗の手を、強く握ってやりたい。
「無理すんな」って言いたいけど、それを言った瞬間、凛太朗が崩れてしまいそうで……
ただ黙って彼の背中を見守ることしかできなかった。
紫季は自分の部屋からは凛太朗の家が見える。
窓から覗くと、人の波が引いていくのが見えて、すぐに家を飛び出して、凛太朗の側に駆け寄った。
そこには、まるで抜け殻のように椅子に項垂れて座る凛太朗がいた。
「……お疲れさま」
小さな声で言うと、凛太朗はわずかに目を伏せた。
言葉を止めて、静かにその手に触れるとまだ少し震えていた。
すると、握った手をぎゅっと握り返された。
「あんまり……顔、見せたくなかったのにな」
「見せてもいいよ、俺しかいないんだから」
凛太朗はふと笑う。
けれどその笑顔は、少しだけ滲んでいて……
次の瞬間、ぽたりと膝に雫が落ちた。
「遺体がないからさ、なんか……っ
なんかさ、まだ実感がわかなくて……まだ、父さんが近くにいる気がしてきてさ。
そんなわけないってわかってるんだけど……
生きてる気がして……きてっ……」
「……うん」
もう、凛太朗は泣くのを隠さなかった。
「……父さん、見てるよね」
小さくつぶやく。
「俺が、今日泣いてんの。
それに、お前に甘えてんのも……さ」
凛太朗は笑った。
声は出さずに、でも目尻がやさしく緩んでいた。
「うん。きっと見られてるよ。ちゃんと吐き出せる場所があるんだって喜んでると思う」
凛太朗はふっと鼻を鳴らした。
「あの人なら、こんな事で甘えるなって怒るかも」
「そうかな?絶対心配してるよ。こんな可愛い息子残してきちゃったんだから」
凛太朗は少し照れたように目を細めて、
「……そうかな?」って、笑いながら言った。
そしてまた、一粒涙を溢した。
紫季はそっと手を伸ばし、凛太朗の頬に触れる。
ふたりの唇が静かに重なった。
目の前で、線香の煙が細くたゆたう。
「紫季。側にいてくれてありがと」
「今日“だけ”じゃないよ」
紫季は、微笑みながら言った。
「これからも、ずっとだよ」
紫季は、ただそっと背中を撫でた。
外はもう暗闇に包まれている。
凛太朗の心を表しているかのように、秋雨が降り出した。
夜の空気に混じる金木犀と雨の匂いが、胸の奥をそっとかき回す。
秋雨が降るたび、胸の奥で乾かないままだった悲しみが、少しだけ流れ出す気がする。
雨は、すべてを洗い流してくれるわけじゃない。
だけど、凛太朗の涙を隠すくらいには、優しく感じられた。
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