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第39話 冬、白い息、あの日の約束

  「紫季、おはよ!遅れるぞ」 「凛太朗が早いんだよー」  十一月中旬。金木犀の甘い香りはすっかり過ぎ去り、代わりに、冬の匂いがすこしずつ街に忍び寄ってきた。  朝の空気はひんやりとしていて、吐く息が白く染まる。  葬儀からひと月あまり。凛太朗は、少しずつ日常を取り戻していた。  ふとしたときに思い出が胸をよぎるのか、少し物悲しい顔をする時もあるが、それ以外はいつもとなんら変わらない。  二人は夏休み明けからまた一緒に登校するようになっていた。  凛太朗が紫季の家の前で待ち伏せして行く。 それが受験生二人のデート代わりになっていた。    紫季は予備校を週三から週五に増やしていた。授業のない日も自習室に通い、質問の時間も確保している。 一方で、凛太朗は夏休み中に父の看病の関係で〇〇駅近くの予備校に移ったが、今ではそこが自分に合っていると話していた。  だから、放課後はほとんど会えない。 二人の予備校は、全く逆の方向だからだ。  あまり会わない日々が続くと、お互い欲が爆発して大変な事になるのは経験済みだったので、水曜日だけは息抜きも兼ねて、二人休みを合わせて一緒に帰って凛太朗の家で勉強をしている。      二人は付き合う時に決めた約束、 『ちゃんと恋人もするけど、ちゃんと勉強もする。絶対どちらか諦めるような事はしない』を守っている。  それにプラス、夏休み明けにもう一つ約束を追加した。  それは、 『泊まりはなし。合格するまで大人のキスはしない。いちゃつくのは週一、水曜日だけ』  と、いうものだった。  それは、二人で考え抜いて出した答えだ。  今日は、待ちに待ったその水曜日だ。 「……ふぁぁ。もうやだ、こんな長文、読める気しない」  目がしょぼしょぼする。 文字が、黒いシミにしか見えなくなっていた。 「あーもう、無理……」   紫季は、ソファに体を投げ出して天井をにらんだ。 「あと二問だろ?頑張れよ」  斜め前でページをめくる音がする。紫季は凛太朗が集中してるふりして、自分の事を見ている気がした。  ちょっとだけ、構ってほしい。 というか……ほんとは、もっと触れてほしい。 「……ねぇ、ちょっとだけでいいから……ぎゅって、して。今……ナウ……お願い……」  紫季は思わず口走っていた。  紫季の指が、そっと凛太朗のスエットの裾をつかむ。 「なんか、俺ばっか我慢して……おまえ、ずるい。触りたくなんないの?」  その声は、甘く、少し怒ってて、でも寂しそうでもあった。  凛太朗の手が、紫季の頬にそっと触れた。  それだけで、身体がピクリと反応する。  「勉強ばっかで……さみしい。ちょっと……ぎゅってされたいだけなのに」  「それが怖いんだよ」  「……え?」  紫季は肩をすくめた。  「今のお前、無意識に誘ってる」  「誘ってるよ。誘ってるに決まってんじゃん」  「……バカ」  凛太朗がそっと抱きしめる。  抱きしめるだけ。でもその腕の強さが、たまらなく苦しかった。  「お前のその顔、俺が我慢できてると思ってるのか」  「……してるじゃん」  「めっちゃめっちゃ頑張ってるの!」  紫季はぎゅっと凛太朗のスエットを握った。  「ねぇ……キスして」  凛太朗の眉がぴくりと動いた。 答えを待たずに、紫季は自分から唇を重ねた。  優しく触れただけのキス。 けれどそのまま、唇が離れる寸前、紫季は舌を差し入れた。  ぴちゃ、と湿った音が立つ。 凛太朗の喉が、びくっと震えた。  「……しき」  押しとどめるように囁いた声は、紫季の口の中で溶けた。  唇を吸って、舌を絡めて、もっともっとと求めていく。  凛太朗の背に腕を回して、逃がさないように引き寄せる。  唾液の甘い音が、静かな部屋にいやらしく響いた。  「ん、ぅ……っ、ふ……」  「……だめだって」  「じゃあ……ちゃんと拒否しろよ……」  紫季の目が潤んでいた。  甘えるような、でも挑発するような……  「……だから、やめろって」  「ほんとに?やめてほしい?」  「……紫季!」  次の瞬間、凛太朗は息を荒くしながら、立ち上がった。  「……限界」  それだけ言って、凛太朗はバッと部屋を飛び出した。  部屋の中に静寂が戻る。  「……ふふ。逃げた」   紫季は、ふかふかの布団に体を滑り込ませると、そっと顔を埋めた。  「……ん、凛太朗の匂い……」  金木犀の香りと微かに混じる体温のような安心する匂い。それだけで、胸の奥がじわっと熱くなる。 「……ちょっとやりすぎたかな……」  紫季は布団の中で、もそもそと顔を隠すように丸くなった。 「でも……ぎゅーってされたいだけだったのに……ちょっとだけ……ほんのちょっと……」 そう呟きながら、唇の熱を指先でなぞってみる。  凛太朗がいない部屋なのに、そこにいるような気がして、紫季は思わず目を閉じた。  「……好き……」  聞こえない独り言。  その口元は、どうしようもなくにやけてしまっていた。  

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