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第40話 冬、白い息、あの日の約束

  十二月中旬、窓の外では粉雪がちらついていた。 うっすら白くなった校庭を眺めて帰り支度を始める。  最後の模試が終わって、答案が返ってきたばかりだった。答案用紙に赤ペンで書かれた点数を見つめたまま、紫季はペンを持つ手を止める。 「紫季」  背後から低い声がして、ふと振り返る。凛太朗だった。 制服のポケットに手を突っ込んだまま、彼は静かにこちらを見ていた。 「今いい?」  少し緊張感のある声で凛太朗が言う。 「いいけど、何?」 「ちょい、来て」  そう言われて、ほいほいと凛太朗の後をついて行くと、校舎裏の職員駐車場に辿り着いた。 「え、何?めっちゃ寒いんだけど」  そこは校舎の陰になっていて、陽の光も入ってこない。  紫季の言葉をスルーして、凛太朗は空いている車止めに座った。  目線で「横に座れ」と言われているみたいで、そのまま対になる車止めに大人しく座った。 「紫季、模試どうだった?第一志望は?」 「あぁ……まぁ一応全部A判定。まだ気は抜けないけど」  凛太朗から模試の事を聞かれるとは思ってなかったので、鼓動が一気に跳ね上がった。 「紫季は、〇〇国際外国語大だっけ?」 「うん、そうだけど。一応関西の外大も視野に入れてるし、滑り止めの外大も一つ受けるよ」 「外大一択だ」 「まぁ、今のところそうだね。全落ちしたら、一般後期はちょっと考えるけど」 「大丈夫だよ、紫季なら。絶対大丈夫」 「だと、いいな」  しばらく会話が途切れ、沈黙がじわじわと駐車場に満ちていく。 (やめてよ、こんな間。なんなの、怖いんだけど)  紫季の心臓が、音を立てて跳ね上がる。問いかけようとして、でも声が出なかった。  やがて、凛太朗がぽつりと呟いた。 「俺……薬学部受ける」  その一言が、耳の奥に焼きついた。  紫季は、瞬きを忘れたまま凛太朗の横顔を見つめる。 「言うの、迷ってた。ずっと」 「うん」 「父さんがさ、入院してたあのとき、病院で処方された薬がすごく効いてたことがあって…… なんていうか、あの瞬間が、印象に残っててさ。  薬って、ただの錠剤なのに、人の命を支えるんだなって思ったら、やってみたくなった」  それを言う凛太朗の声は、まっすぐで、ちょっと照れくさくて、でも確かな決意がにじんでいた。 「……なにそれ。ちゃんと考えてんじゃん」  紫季はふふっと笑った。緊張が解けたように、肩がふっと軽くなる。   「でさ、大学なんだけど、K大の薬学部行くことにした」  一瞬、時間が止まった気がした。 「……え?」 (K大薬学部ってめっちゃくちゃエリートじゃん!場所も、結構近い?よな?) 「偏差値だけじゃない。おまえが〇〇外大行くって聞いたときから、俺、ずっと……一緒に暮らせたらいいなって思ってた。だからー、えっと。受かったら同棲したいって思ってる……んだけど……」  紫季は言葉を失って、目を見開いた。  まさかそんなことを凛太朗の口から聞けるなんて、想像もしていなかった。 「は? ちょ、同棲って……!」 「だってさ、まず家賃半分になるし。 今めっちゃ会いたいの我慢してるのに、大学入ってまですれ違いたくない。 バイトもするだろうし、絶対時間合わなくなる。 これ以上会う時間減るの無理。 それに、絶対紫季モテるもん。 大学の外の紫季は俺が独り占めしたい」  凛太朗は少し冗談めかして笑いながら話した。 けれど、その声はどこまでもまっすぐだった。 「……なんで今、そんな……」    紫季の心は、嬉しいのか、恥ずかしいのか、悔しいのか、恐らくそのすべての感情が入り混じる。 「今じゃなきゃ、言えなかった。かなり遅くなったけど……  やっと成績も安定してきて、K大にも手が届くようになってきた。何より、やりたい事が見つかった。  やっと紫季の隣にいれるスタートラインに立った気がしたんだよ……だから、今、伝えなきゃって思った」  紫季の心臓は、胸の奥で暴れるように脈打っている。 それと同時に、目の奥から熱いものが込み上げてきた。 「バカじゃないの……遅いし、急だし、自己中かよ!」  そう言いながらも、紫季の口元は自然に緩んでいた。    二人に降り注ぐ雪が、少しだけ強くなっていた。  暦の上では春だが、まだ朝の風は頬に冷たくて、吐く息がうっすら白い。  凛太朗の本命、K大薬学部を残し、全ての合否が揃っていた。  紫季も第一志望の合格が昨日発表され、やっと肩の荷が降りた。    「凛太朗、生きてる?」  紫季は、ニヤニヤしながら凛太朗の部屋に入っていく。  ほんのり赤みが差した頬は、外の冷たい風に吹かれていた証拠。 だけどその目はきらきらと嬉しそうに輝いている。  「なにそのテンション……」  「え?何って、そりゃ春だから?」  そう言って、紫季は凛太朗の横にピッタリくっついて座る。  凛太朗は、黙ってパソコンの電源を入れた。  その指がわずかに震えていることを、紫季は気づいていないふりをした。  「あと一分だね。緊張してる?」 「そりゃするだろ…お前みたいに余裕持って受験できたわけじゃないんだから……」  凛太朗は紫季をジィッと睨みつけた。 「まぁまぁ、大丈夫っしょ。凛太朗くん。 君の後半の追い上げはすざまじかったよ。 とりあえず滑り止めは受かってるし、気楽にいきましょうよ」  そう言って、凛太朗の肩をポンポン叩く。 「ほら、十時ピッタリだ。見て」  凛太朗はK大のサイトに入り、自分の情報を入力する。  昨日一通り経験した紫季も、何故かもう一度緊張感が戻ってきた。  あと一クリックで合否がわかるのに、なかなか押せない凛太朗の手をギュッと握った。 「大丈夫」    紫季のその声に迷いはなかった。 ———————ポチッ…… 「え……合格……合格!!!!!!!!受かった!!受かったーーー!!」 「りんたろー!!」  紫季は勢いよく凛太朗に飛びついた。 勢いで凛太朗は床に頭を打ったが、お構いなしで二人は抱き合い、その体温を確かめ合うように、何度も何度も「やった」「受かった」と繰り返した。  「やば……俺、ちょっと泣きそう……」  仰向けの凛太朗が、スエットの袖で目元を隠す。 が、瞳からこぼれた涙がこめかみまで流れて全然隠せていない。 「泣きそうじゃなくて、もう泣いてるじゃん」  そう言う紫季の目にもしっかり涙が浮かんでいる。 「俺たち情緒不安定だな。最近泣いてばっかじゃん」 「いいんですよ、凛太朗くん。僕たち青春してるんだから」  紫季の言葉に、「はははっ」と凛太朗は笑った。 「やっと、やっと……やっと終わったーーー!! 長かったー!!もう一生勉強したくない!!」 「間違いない。でも、水を刺すようで悪いが、うちの父の名言を君に授けよう」  紫季は、起き上がって正座した。 「え……紫季の父さん?」    釣られて、凛太朗も正座する。 「そう。それはズバリ。『学校を出てからが本当の勉強。大抵の人は学校を出ると本を読むのをやめてしまうが、絶えず本を読み学び続けることが大切。一生勉強。学びは自分を裏切らない』だって。 まぁ、父さんも誰かの受け売りみたいだけど」 「うわぁー紫季のお父さん、めっちゃ言いそう……」 「だろ?でも、ちょっとぐらい息抜きしたっていいじゃんね。ほらっ……」  紫季は満遍の笑みで両手を広げて凛太朗を見る。  一瞬ためらいながらも、紫季の胸に思い切り飛び込んだ凛太朗は力強く紫季の腰を抱きしめた。  「もういいんじゃない?あの約束……」  大きな凛太朗の背中に手を回して、耳元で囁く。  「ね、凛太朗……触って?」  

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