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第4話③
僕は後ろをゆっくりと振り返った。
思った通り、そこにいたのは千里くんだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、日の陰り始めた砂浜をこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
千里くんは僕の横まで歩いてくると、ちらりとこちらに視線をよこした。でも何も言わず、視線を水着姿のカップルの方へ向ける。
「遊泳時間、終わりなんだけど」
そう言った千里くんの声は特別大きいものではなかった。それなのにやっぱり砂浜によく響いた。
きんと鋭く、同時に妙な圧を持った声と彼自身の存在に、男の人が目に見えて怯んだのが分かった。
「な、なんだよ、お前……」
男の人は千里くんを睨みつけてきたが、声にさっきまでの勢いはない。明らかに突然現れた千里くんの存在に怯えているようだった。
「聞こえなかった? 遊泳時間は終わり。今は泳いじゃいけない時間。守れないなら帰って」
千里くんが、もう一段声を低めた。その声には驚くほどに圧倒的な迫力があった。空気がピンと張り詰め、息をすることすら許されないような緊張感が漂う。
女の人が男の人の顔を見上げ、腕を引いた。小声で「ねえ、帰ろうよ」と言っているのも聞こえる。
男の人はじっと千里くんを睨みつけていたが、やがて千里くんの迫力に押し負けたようだ。視線を逸らし舌打ちをひとつだけ残すと、女の人の手を引いて足早に海から上がる。そのまま駐車場の方へと消えていった。
「……良かった……」
ほっと安心した瞬間、かくんと膝が折れ砂浜に座り込んでしまった。
「天ケ瀬っ」
千里くんが仰天したように僕の側に駆け寄ってくる。僕は半泣き半笑いで彼の顔を見あげた。
「ごめん。怖くて腰、抜けたみたい」
情けないことこの上ない。だけど完全に腰が抜けてしまった僕は、その場から一歩も動けなくなってしまった。
千里くんは困ったように後頭部をさすっていたが、突然俺の横にどすんと座り込んだ。
「動けるようになるまで付き合う」
「え……」
僕は驚いて千里くんの横顔を見た。彼の顔には呆れも馬鹿にするような表情もない。
夕暮れ色にそまっていく海は穏やかで、心地よい海風が吹いてくる。静寂が僕たちを優しく包んでいる。こんな気持ちで千里くんのそばにいたのは初めてのことだった。
「……あの、聞いてもいいかな」
うん、と千里くんが頷く。
「どうしてここに千里くんがいるの?」
千里くんは一瞬息を止め、そして小さく吐き出した。
「……謝りに来た」
「謝りに?」
驚いて声が裏返りそうになった。だってあの千里くんがわざわざ謝りに戻ってきただなんて。しかも未だかつてないくらいに神妙な面持ちの彼は、知らない人みたいだ。
「今日、俺がミスしたときフォローしようとしてくれたのに、キツイこと言っちまったから」
「ああ」と僕は小さく頷いた。
キツイこととはあの言葉だろう。
『言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ』という彼の言葉は、確かに僕の胸に突き刺さったけど、それは本当のことだったからだ。彼に腹を立てる気持ちはちっともない。
「もうそれはいいよ。怒ってないし」
「でも怒られた、蒼佑に」
「蒼佑さんに?」
「ああ、蓮にも怒られた。態度が悪い、言い過ぎだって」
二人に挟まれて説教を受けている千里くんの姿が目に浮かんだ。思わず吹き出しそうになって、なんとか耐える。ここは笑っていい場面じゃない。
千里くんは真剣な顔で先を続けた。
「でも俺、お前が変わりすぎててびっくりして、どうしていいかわかんなくなって……」
「僕が変わりすぎてて?」
よくわからない言葉に、僕は首を捻った。
僕と千里くんは初対面のはずだ。変わりすぎて……ということは、千里くんは僕のことを知っていたということ?
千里くんはまた一瞬息を止め、ゆっくりと吐き出す。何かを言い淀んでいるような感じだ。僕はじっと彼の言葉を待つ。
「昔……俺、親に連れられてここに来たことがあるんだよ」
「入浜に? そうなの?」
「小学校低学年のころ。うち親が忙しい人だったら、どっかに遊びに連れてきてもらえるのって珍しかったんだよ。んで、テンション上がって調子乗ったら海で溺れかけて……そんで同じくらいの年のやつに助けてもらった」
言葉を切った千里くんは、じっと僕のことを見た。綺麗な形の二重瞼が細められる。
「たぶんお前だったと思うんだけど……」
「えっ、嘘」
「ここの海の家の子だって言ってたから、間違いないと思う。覚えてないか?」
う~んと頭を捻ってみたが、記憶には残っていない。ごめんね、と言うと、いや、と千里くんが首を振る。
「そんでその後、なぜか仲良くなって一緒に遊んだんだよ。それ覚えてたから、蓮たちがここにバイトに行くって聞いて、お前のことを思い出して俺も便乗して来た。でも最初その子がほんとにお前かわかんなかったんだ。だってそんときお前、ずげえわがままだったから」
「僕わがままだった!?」
「ああ、かなりな。女王様みたいに俺にいろいろ命令してきてすごかった」
「じょ、女王様……」
気が遠くなってきた。確かに入浜にやってきた当初ばあちゃんに反抗して困らせていた覚えはあったけど、まさか女王様と言われるほどだったとは……。
「反対に俺は昔、今とは考えられないくらいに大人しかったんだよ。もっといじいじしてたしな」
あっ、と思った。今日の昼間に蒼佑さんにされた話を思い出す。千里くんはまっすぐ海を見つめたまま「それで」と話を続けた。
「なんかの話のときに、『僕なんてどうせ駄目だ』的なことを言ったら、めちゃめちゃお前に叱られた。それがあったから、お前にもう一回会ったとき、変わりすぎててびっくりした。あんなにわがままだったのに、大人しくにこにこしてるだろ。猫かぶってんのかとも思ったけど、なんか違うし。『意味わかんね』ってイライラした。それであんなことまで言っちまって……悪かった」
千里くんがこちらを向きなおり、小さく頭を下げた。僕は慌てて首を振る。
「気にしないで! 僕ももう気にしてないし!」
とりあえずは千里くんの不可解な態度の理由も分かった。それに、初対面じゃなかったという驚きの事実も。
千里くんのことを覚えてはいないけど、そういえば昔、同じくらいの年の男の子が浮き輪ごと流されて泣いていたので、引っ張って浜まで連れてきたことはあった。たぶんその子が千里くんなのかもしれない。
「でもそんな昔のこと、よく覚えてたね? もう十年くらい前のことなのに」
「そりゃ……可愛かったから」
「……え?」
「あ……いや、なんでもねえ!」
千里くんがはっと我に返ったように言う。慌てているその横顔がほんのり赤いように見えて、僕は心の底から驚いた。
(なんか千里くんって、可愛い人だな……?)
あんなに怖いと思っていた人なのに、今となってはそのかけらもない。それどころか可愛らしいとさえ思えてくる。
それに、僕のことを覚えていて再び会いに来てくれたというのがなんとも健気じゃないか。
僕はすっかり温かい気持ちになって、千里くんの顔を覗き込んだ。
「ねえ千里くん。僕と友達になってくれない?」
千里くんが目を見開く。
「前に会ったときのことは覚えてなくてごめんね。またこうして会えたのは何かの縁だと思うから、良かったら千里くんと友達になりたい。……駄目かな?」
首をかしげて頼むと、千里くんはぎこちなく頷いた。
「……お、おう」
「本当? いいの? すごく嬉しい」
「お、おう……」
海に向かって沈む夕日の影が伸びてきて、千里くんの顔を真っ赤に染めている。潮風に吹かれながら、僕たちはとりあえず手始めに、「よろしくね」と握手を交わしたのだった。
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