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第8話②
最近千里くんの笑顔を見ていると、頻繁に今みたいな感覚になるときがある。心臓がぎゅっとして、喉の奥に何かが引っかかっているかのような不思議な感覚。夕日に染まる海を見ているときみたいに、温かいのに少し苦しくなるような……。
黙り込んだ僕のかわりに、今度は千里くんが口を開く。
「んじゃ眠くなるまで何か話すか。……あ、そうだ。凪、大学のこと考えてみたか?」
寝支度を整えてベッドに入りながら、千里くんが思い出したように言った
。
「え?」
「一緒にオープンキャンパスに行こうって言ってた話だよ。あれってもう明後日だぞ。俺はお前と一緒に行きたいって思ってんだけど」
僕は驚いた。
ばあちゃんが倒れたとき以降、千里くんがオープンキャンパスの話題を出すことはなかった。だからこの話はもう流れてしまったのかと残念に思っていたところだったのだ。
僕は勢いよくベッドから跳ね起きた。
「僕も、千里くんと一緒に行きたい!」
おわ、と千里くんが目を丸くし、それから目を瞬く。
「ほんとか?」
「うん!」
「……そっか」
千里くんはそう言うと、そっと瞼を伏せた。薄い皮膚の下できょろきょろと瞳が動いている。ピアスを外した耳たぶが、絵の具の色が染み込んでいくようにほんのり赤くなる。
「なんていうか……すげえ楽しみ」
その言葉に、また心臓がぎゅっとなった。
「千里くん――」
「そ、そろそろ電気消すぞ」
千里くんが慌てたように言い、照明のリモコンに手を伸ばした。ピピっという音の後、部屋はゆっくりと暗くなってしまった。
(あ~あ……。もっと見ていたかったのに……)
赤く染まった耳たぶが見えなくなってしまったのが残念だ。しかたなく「おやすみ」と挨拶をすれば、照れたような声音の「おやすみ」が返ってくる。
電気が消えた薄暗闇の部屋で、なんとなく後ろ髪を引かれるような思いで、僕は未練がましく千里くんのベッドの方を見た。
カーテンの隙間から青白い月の光が差し込んでいた。その細い光に照らされて、千里くんの形に膨らんだ掛布団が、規則正しく上下している。
その光景を眺めていたら、波が何度も打ち寄せるみたいに、ひたひたと静かに込み上げては引いて、そしてまた込み上げてくるものがあった。
手を伸ばせばすぐそこに、千里くんという存在がいてくれることが、嬉しくて、それなのに泣きそうに切なくて。
「――ねぇ千里くん」
気がつくと千里くんの影に向かって語りかけていた。
千里くんからの返事はなかった。
もう寝てしまったのかもしれない。そっか、と残念に思う一方で、でも同時にそれはそれで都合がいいな、とも思った。
これから話すことは、聞いてほしい気持ちと聞いて欲しくない気持ちが半分ずつ。ただ単に、胸の中に溜まったものを言葉にして体の外に出したいという原始的な欲求に近かった。
「僕ね、昔、ずっと友達が出来なかったんだ」
白っぽい月の光の帯を眺めながら、僕は吐息のような小さな小さな声で話し始めた。
「僕の親が死んだのは7歳のときだって話したことはあったよね。あと東京に住んでたことも。見上げるほどに高いマンションで暮らしてて、欲しいって言えば何でも買ってもらえたんだ。だからこっちに引っ越してきてばあちゃんと暮らし始めたとき、すごく嫌だった。こんなところは僕がいる場所じゃないって思ってた。ずっと悲しくてイライラして、学校に行っても友達にも嫌な態度取ってたの。そしたらある日クラスの子に言われたんだ。『凪くん、みんなに嫌われてるよ』って」
その子は、僕のまわりにいるクラスメイトの名前を次々に上げ始めた。〇〇くんに、××ちゃん、〇×くん。同じクラスのほぼすべての子の名前を挙げ終わって、その後にその子が何を言ったのかは覚えていない。当時の僕にとっては、頭が白くなるくらいのショックだったからだ。すべての人から拒絶されたような気がした。
「でね、そのときにやっとわかったんだ。本当の自分を出したら嫌われるんだって。本当の気持ちを悟られないように、周りに合わすようにして……自分の何かを曲げることでしか、ここでは生きていけないんだなって。本当の僕のことはもう、誰もいらないんだなって」
だけど千里くんは違った。昔のわがままな僕に、もう一度会いに来てくれた。自分の気持ちを押し込めてやせ我慢をしていた今の僕に、『言いたいことは言えよ』と言ってくれた。
「だから僕、千里くんと友達になれて……すごく嬉しいんだ……。だって千里くんは、昔の僕とも、今の僕とも……友達になってくれたから……そんなの千里くんだけだったから……」
だんだん自分の声が間延びして遠くなる。波の音が混じって、僕の声の輪郭がおぼろげになる。ふわ、とあくびが漏れた。瞼が重くて仕方ない。
――『うん』
夢と現実の境界をゆらゆらと揺蕩いながら、千里くんがそう返事したように聞こえたのは、きっと夢だったに違いないけど――。
(……ありがとうね、千里くん……)
僕は心の中でそう呟いて、夢の世界へと続く穏やかな波間に、ゆっくり沈んでいった。
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