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第13話①

 豊叔父さんのペンションから――千里くんから逃げるように自分の家に帰ってから、三日が過ぎた。  海の家の仕事もペンションの仕事もなく、だからと言って学校の友達に連絡をする気にもならず、僕は一日の大半を家の中でぼうっとして過ごしていた。唯一外出するのは、ばあちゃんの病院だけ。 「おや、また来たのかい」  六人部屋の一番窓際のベットの上で、ばあちゃんが驚いたように入り口に立つ僕を見た。 「来ちゃ悪かった?」 「別に悪くないけどねえ」  ばあちゃんがそう言うと、斜め向かいのベッドにいた優しそうなおばあさんがけらけらと笑う。 「お孫さんが来てくれて嬉しいくせに、美千代さんは素直じゃないねえ」 「そうだよそうだよ、可愛い孫が毎日来てくれるなんて、贅沢じゃないか」  お向いのくりくりパーマのおばさんにまでそう言われ、ばあちゃんは口をつぐんだ。 「別に……そんなことはないけど」   入院して二週間も経つので、ばあちゃんは同室の患者さんとすっかり打ち解けたみたいだ。  良かったなあと僕は微笑み、まわりの患者さんに「お邪魔します」と頭をさげた。 「凪くんはいつも礼儀正しいね。飴をあげようか」 「チョコレートも食べるかい?」 「わ、こんなに……! いいんですか?」  あっという間に一杯になった両方の手のひらを見つめ、僕は目を瞬いた。  二人はいいのいいの、というと満面の笑みで頷く。もう一度ありがとうございます、と頭を下げ、僕はようやくばあちゃんのベッドに辿り着いた。  いつものように、家で洗ってきた洗濯ものをばあちゃんに渡し、汚れた下着を受け取ってバックに詰める。 「何か家から持ってきてほしいものとかある?」 「別にないよ」 「売店で何か買ってこようか?」 「もう十分だよ。あのさ、凪……」  ばあちゃんは何か言いたげな顔をしている。どうしたのだろう。はっきりものを言うばあちゃんにしては、珍しい態度だ。  僕はとりあえずベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろした。 「どうしたの? あ、豊叔父さんに伝言?」 「そうじゃなくて……お前、もしかして具合でも悪いのかい?」 「え、どうして?」  どきりとしながら僕はばあちゃんの顔を見た。 「豊に聞いたけど、ペンションの仕事も休ませてもらってるんだろう。どこか具合が悪いんじゃないのかと思って」  ペンションの仕事を休んでいることについて、『心配させるからばあちゃんには言わないで』と念を押しておいたのに、おしゃべりな豊叔父さんはばあちゃんに話してしまったらしい。 「具合が悪いとかじゃないよ。たまには学校の友達と遊んだりしようかなって思って、休みもらっただけ」 「そんなに浮かない顔をしてるのに?」 「え?」 「顔色も良くないよ。ちゃんとご飯は食べてるのかい?」 「それは――」  淡々とした声で指摘され、僕は口ごもってしまった。冷静な眼差しでまっすぐにばあちゃんに見つめられると、嘘をつく罪悪感がちくりと胸を刺す。  僕はちいさく息をついた。 「お休みさせてもらってるのは……なんていうか、ちょっと疲れちゃって」 「……そうか」 「ごめんなさい、ばあちゃんが大変な時なのに、さぼるようなことして」 「何言ってるんだい、疲れたら休みのは当たり前のことだよ」  僕はばあちゃんの言葉に顔を上げた。 「なんだその顔。もしかしてあたしに怒られるとでも思ったのか?」 「え、あ、うん。ごめん」  ばあちゃんは呆れた顔で笑う。 「そんなことで怒りはしないよ。凪が決めたことだろう。いちいち口立ちはしないよ」  ばあちゃんの言葉に、僕はなぜだか急に泣きたい気持ちになってきた。唇を噛んでうつむく。滲んだ涙を乾かそうと床を見つめていると、ばあちゃんが静かに言った。 「何かあったのかい? お前が弱音を吐くなんて、なかなかないことだからさ」  優しく問いかけられ、一度は引っ込んだ涙がもう一度込み上げてきた。  ずっと一緒に長い間暮らしてきたばあちゃんには、きっと僕のおかしな様子など最初から分かっていたに違いない。隠すことなど出来ない。  僕は喉が震えないように慎重に息を吸って吐いてから、小さな声で答えた。 「本当に、たいしたことじゃなくて」  「うん」とばあちゃんが優しく相槌を打ってくれる。 「すごく楽しくていいことがあったんだけど、自分のせいで台無しにしちゃったんだ……だから少し落ち込んでいるだけ。でももう終わった話だし、少ししたら大丈夫になるから。だから心配しないで」 「そうかい」  励ますような優しいばあちゃんの声に、言葉が止まらなくなった。 「でもね、自分で台無しにしちゃったけど……正直ほっとしてるんだ。だって僕、間違わなかった……正しい道を選べたから……それだけは良かったんだなって思って……」 「正しい道、か」  ばあちゃんがぽつりと言った。どこか遠い目をしていた。 「お前の父さんに言われたことがあるよ」 「……僕の父さん?」 「ああ、お前の父さん――|登《のぼる》がこの町を出て東京に行くって言い出したときだよ。あたしとお父ちゃんは反対したんだよ。お前にとって、この町にいるのが幸せなことだって言ったんだ」  あ、お父ちゃんっていうのはあんたのじいちゃんのことだよ、とばあちゃんは説明を加えた。 「お前の父さんは、お前よりももっと何倍ものんびりしてたからね。東京なんかに行ったら悪い人に喰い物にされるに決まってる。都会でなんかやっていけない。騙されてボロボロになって終わりだって。お父ちゃんはそう言った。私もその通りだと思った。|登《のぼる》にとってそれが正しい道だって、私も言ったの。そしたらあんたの父さんはなんて言ったと思う?」  ふっと思い出し笑いをしながら、ばあちゃんは僕を見た。  僕の父さんが、ばあちゃんたちの反対を押し切って東京に出たことは、酔っぱらった豊叔父さんから話を聞いて知っていたけど、直接ばあちゃんから話を聞くのは初めてのことだった。  ばあちゃんにとっては胸が痛む過去なのだと思っていた。だけどそうじゃないかもしれない、とばあちゃんの目尻に出来た幾つもの深い皺を見て思った。だってばあちゃんは、今まで見たことがないほどに優しい顔をしている。 「……僕にはわからない」  僕が答えると、そうだろうね、とばあちゃんの目が動く。 「あんたの父さんはね、『正しい道は、俺が決める』って言ったんだよ。『みんなにとって正しい道でも、俺が自分の心の声を聞いて決める道じゃなくちゃ意味がない』って。あたしゃ、びっくりしたよ。今までろくに反抗もしたことのない優しい子だったからね。ああ、これは本気なんだなと思って、見送ることにしたんだ。まあ……お父ちゃんは怒ってたけどね」  ははは、と笑って、ばあちゃんは僕の方に視線を戻した。  どきりとした。ばあちゃんの目はこんなに灰色掛かっていただろうか。こんなにぼやけた輪郭の瞳だっただろうか。 「ばあちゃん……」 「うん?」 「父さんが選んだ道は正しかったのかな」  ばあちゃんがはっと息を止めた。 「正しかったって、ばあちゃんはそう思う?」  止めていた息をゆっくりと再開し、ばあちゃんは震える声で言った。 「当たり前じゃないか。その道を選んだからこそ、お前がいるんだもの」  その言葉に、ずっと胸につっかえていた大きな大きな昏い感情が、ゆっくりと変わっていくのが分かった。すべてを吸い込む闇の色だったものに、深い紺碧が、明るい蒼色が、底が透けるような水色が、金と銀の輝かしい色彩が戻り、静かに光を帯びていく。  涙が出そうになり何度も瞬きを繰り返す僕に、ばあちゃんは静かに言う。 「自分の心の声を聞くっていうのは、大事なことだからね。大切なことを決めるときは、あんたもしっかり自分の心の声をお聞き」

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