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第13話③

***    怠惰な日々を過ごしているせいで家の中は荒れ放題だったので室内は勘弁してもらい、庭に面した縁側に並んで腰を下ろした。 「――それで、千里と何かあったんでしょ、あの夜」  座って早々、蓮さんが話を切り出してくる。  僕は、こくんと頷いた。心配してここまで来てくれた蓮さんに、いまさら隠し事はできない。それに、煮詰まっている思考を聞いて欲しかった。 「千里くんに……キスされました」  蓮さんが息を呑む。 「キス……マジか」 「わけがわからなくて。おまけに、千里くんが『蓮さんのことが好きなのか』なんて意味不明のことも言ってくるし」  僕がそう言うと、蓮さんは「あっ」と言って自分の口を押えた。 「それって……もしかしたら俺のせいかも……」 「どういうことですか?」 「あのー……俺さ、千里のことめちゃめちゃ煽っんだよね。『千里が凪のこと好きじゃないなら、俺が凪のこともらってもいいよね?』って言った……」 「ええっ!」  僕は思わず大声をあげてしまった。 「なんでそんなこと言ったんですか! 蓮さんが好きなのは蒼佑さんじゃないですか!」 「そうなんだけど、千里がはっきりしないからイライラしちゃって、つい……」 「つい、じゃないですよ……」  だけどあの意味のわからない言葉の意味はようやく分かった。千里くんは僕が蓮さんに好意があると思い込んでいるのだ。 「でも千里くん、なんで僕にキスなんてしたんだろう。僕が蓮さんのことを好きなのが気に食わなかったのかな……」 「そりゃ千里が凪のこと好きだからに決まってるじゃん」 「えっ!?」  僕は驚いて蓮さんの顔を見たが、蓮さんはいたって真面目な顔だ。 「それ以外にキスする理由がある? 凪のことが好きで、俺に嫉妬してキスしちゃったんじゃないの?」 「千里くんには好きな女の子がいるんですよ?」 「でもそれって、本当のことかわかんないよね。本人の口から聞いたわけじゃないし、友達が言ってた『好きな子』っていうのも、凪のことを言ってる可能性もあるわけだし」  それは今まで全然考えてなかった。蓮さんが呆れたような顔をする。 「二人でちゃんと話をしなよ。それで解決するんじゃないの?」  僕はうつむき、頭を振った。 「いや、です」 「なんで」 「怖いから……。千里くんにキスされたとき、すごく驚いて頭が真っ白になったんですけど、その後にすごく怖くなって。僕、怖いんです。男の千里くんを好きになるのが怖い。だって、僕男なのに、男の千里くんを好きなるって普通じゃないじゃないですか」  普通じゃない、と口にしてしまってから、はっと口を押えた。  蓮さんも男の蒼佑さんのことが好きなのだ。僕が普通じゃないというなら、蓮さんも同じになってしまう。 「ごめんなさい……」 「ん、いいよ」  気まずさに僕は黙り込んだ。蓮さんもなにも言わず、沈黙が流れる。 「……前に……凪に聞かれたことがあったよね。蒼佑を好きになったとき、怖くなかったかって」 「はい」 「あのときはちゃんと言わなかったけど、すごく怖かったよ。それで、今も怖い」  庭先の地面を見つめながら蓮さんが言う。膝の上で固く握られた彼の拳の色が、どんどん白くなっていくのが見えた。 「俺たちの恋愛は、男女の普通の恋愛よりもずっとずっとハードルが高いよ。男が男を好きになるなんて、凪が言うように普通じゃない。家族とか友達とか、大事な人に理解してもらえないかもしれない。なにより第一、相手を失望させたりするかもしれない。そう考えたら怖いよ。普通から外れたくない。でもその普通って、心を殺してまで本当に守らなくちゃいけないものなの?」  膝の上の拳がぐっと握られ、緩み、何かを掴み直すようにまた握られる。 「俺はそう思いたくない。自分の心は殺したくない。だって人間って、心がないと生きていけないだろ」  蓮さんは言葉を切ると、僕の方を見た。 「俺、蒼佑に告ろうと思う。凪も千里に告白しなよ」  こちらを見る蓮さんの目は底まで透き通るような色をしていた。覚悟を持った強い眼差しだ。  蓮さんはとても強い。眩しすぎるほどに。  僕は蓮さんの視線から目をそらし、首を振った。 「無理ですよ。どうして振られるのがわかっててわざわざ傷つきにいかないといけないんですか」 「振られるかどうかわかんないだろ?」 「わかりますよ……。それに僕は蓮さんみたいに強くないです。僕は怖い」 「でもその怖さを乗り越えないと、掴めるものも掴めないよ」 「そう言われても怖いものは怖いんです……」  情けないと言われても、どれだけ発破をかけられても、無理なものは無理なのだ。  黙り込む僕に、蓮さんはいら立ったように「あ~もう!」と叫んだ。  そして手を伸ばし僕の頬を両方の掌で挟み込むと、そのまま鼻の先の距離まで顔を近づけ、ぐっと僕の目を覗き込んでくる。 「それでもだよ! 凪は千里に気持ちを伝えなくちゃだめだ! 俺たちは明後日には帰るんだ。ペンションのバイトも終わるし、そうなったらもう千里には会えなくなるんだぞ。本当にこのままでいいのか?」 『もう会えない』  蓮さんの声で聞いたその現実にはっとした。  数日後に必ずやってくる未来が、急に実感を持って僕の胸に迫ってくる。  千里くんがいなくなる。もう会えなくなる。  ――嫌だ、とどこかで小さな声が聞こえた気がした。  動揺する僕に、蓮さんが畳みかけてくる。 「ここで繋いでおかないと、千里との関係は終わるぞ?」  ――絶対に嫌だ、と今度ははっきりと心から声が聞こえた。  もう千里くんに会えないと思うと胸が軋む。痛くて痛くてたまらない。 「……嫌だ」  言葉にした途端、どっと涙が溢れてきた。両頬をとめどない涙が伝う。 「……もう会えないなんて絶対に嫌だ。終わりにしたくない……!」 「そうだろ? だったらどうすればいいかわかるよな?」  僕はしゃくりを上げながら頷いた。 「よし、いい子だ」  蓮さんが目を細め、指が優しく僕の涙を拭う。その優しい感触に目を閉じかけたとき――。

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