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5章 渇望と迷走
「トワにフラれた〜」
わざとらしい泣き声と共に遠ざかる木元を見送ったトワは、ふと窓の外に視線を向けた。
どこまでも続く夏の深い蒼。雲ひとつなく、吸い込まれてしまいそうなその眩い蒼に彼の面影が重なる。
トワ、またね――
鳴り止まない蟬時雨の合間に、そんな彼の甘く滑らかな声が聞こえた気がする。
この「またね」を聞いてからまだ一週間も経過していないというのに、心の奥が微かにザワつく。チラリと黒板の日付を見ると、次彼に会う日まであと数日あり、トワは思わず小さく肩を落としため息をついた。
自分は自分で思っていた以上に我慢がきかない人間だったようだ。
全てを失った日――ハルツへと分化し、「樹トワ」がこの世から消えたあの日以降、誰かに対する執着や欲求も失ってしまったものだと思っていた。
木元みたいに一緒にいて心地良いと感じる「友達」はいる。しかし、木元に対して「こうしてほしい」とか「こうしたい」とかって思ったことはほとんどない。
時々、もう少し大人しくできないものかとは思うが……
アイツに関しては、ベタベタしすぎない、かといって他人行儀でもない、いつもの心地よい距離感で友達でいてくれるだけで充分だ。
しかし、まだ会って間もない名前すら知らないというのに、「彼」のこととなると自分で自分のことが分からなくなってしまいそうになる。
柔らかく耳障りのいいあの声をもっと聞きたい……
もっと彼のことを知りたい……
そして叶うなら、また彼の温もりに触れたい……
彼に会う度に、もっともっとととめどなく欲求が溢れ出る。
他人に奧まで踏み込まれたくない、だから自分も他人に必要以上には踏み込まない。どうやって自分がそう過ごしてきたのか分からなくなってしまいそうだ。
しかし、彼に何度も会うことに抵抗がないわけではなかった。
◇
ゴールデンウィーク直前のあの日、彼と初めて言葉を交わしたものの、トワの中で複雑に絡まりあった感情はいくら整理しても名前を付けることはできなかった。
恋――そう呼ぶには、彼から返ってくる愛情を期待しているわけではない。
友情――そう呼ぶには、あまりにも強く、一方的で重すぎる。
彼に近付きたい。彼のことを知りたい。
けれどそれは、単なる「好奇心」という言葉では到底収まりきらない。
そんな渇望じみた感情が何なのか、トワにはまだ言葉にできなかったのだ。
その上、外側からただ眺めていた時の彼と、実際に言葉を交わし触れ合った時の彼との間には想像以上に大きな隔たりがあった。
初めて会った日のガラス越しの彼は、標本箱のような教室に入れられ、無垢な顔で笑っていた。しかし、実際に触れてみると、時折その瞳が、まるで全てを見透かしたような翳りを帯びることに気がついた。
見た目は変わらないものの、その相反する彼の側面がトワの中でまだ散らかっている名前のない感情に引っかかり、更なる深みへと嵌ってしまっていた。
その深みから這い上がろうともがき、手を伸ばす度に「一条トワ」として構築してきた理性が音を立てて崩れ、抑え込んできた渇望が堰を切ったように溢れ出す。
他者に特別な感情を持ち、依存する。そして、その特別な誰かを喪った時に襲われる空虚感や痛みを恐れ、常に周囲の人間とは距離を置いてきた。それしか自分を守る方法を知らないから。
しかし、「彼」のこととなると、無関心でいようとすることも、自ら近付かないようにすることもできなかった。
もう、あんな思いをするのは嫌なのに……
十年以上前、この世の中のことをまだ何も知らなかった頃……
またあした――あの日、そうやって別れたきり、「あの子」は忽然と自分の前から姿を消した。まるで最初から、そんな子なんて存在しなかったみたいに。
あんなに小さくて弱虫な、ぐずりながら自分の後をずっとくっついてくるようなあの子――ハヅキがたった一人で……そんなことできるはずがない……
理由もわからず、ただ引き離されて、それっきり。周囲の大人たちにあの子の行方を訊ねたところで、誰も何も教えてくれなかった。
あの時の痛みと喪失感をもう一度味わうくらいなら初めから何もなければいいんだ。
「パートナー契約」という終着点が最初から決まっている彼との関係を今以上に強く持ってしまうこと……それは、長年そうやって生きてきたトワにとって彼を知ることができるという魅力よりも、彼を失ってしまう恐怖の方が勝っていた。
心の中も、今まで作ってきた自分の輪郭もぐちゃぐちゃだ……
今にも崩れ落ちそうな自分自身を守るように、トワはベッドに潜り込み丸くなった。
わからない。
自分が今どうしたいのか、どうしたらいいのか……
なにもわからない。
はじめは、答えを求めて自分だけで闇雲に思考の海をもがいた。どこに向かって行けばいいのか、どこに手を伸ばせばいいのか、何も分からないままただただ考え続けた。
しかし、陸地が全く見えない中でそうしていられるのにもいつか限界は訪れる。
トワは藁をも掴む思いで、しばらくサイドテーブルの上に放っておいたスマートフォンに手を伸ばした。八割り以上残っていたバッテリーはいつの間にか半分を切っていたが、そんなことには構わずトワはぼんやりとその画面に触れた。
液晶の放つ白い光が暗闇に慣れたトワの瞳に刺さる。
トワはひたすら自分の迷い込んだ深淵の出口を求め、指先を滑らせた。
出口に繋がりそうなキーワードをいくつも入力し、祈るような気持ちで「検索」に指先を落とす。見当違いの結果が出たら、別の言葉で改めて検索……今まで散々聞かされ続けてきた一般論が提示されれば、戻ってまた検索……正しい出口への鍵を時間も忘れて探し続けた。
……いや、今思うと正確には「正しい出口」ではなく「自分の求める正解に繋がっている出口」を探していたのかもしれない。
そんな、自分で自分を宥め、慰めるような行為を延々と繰り返し、遂に深淵に一筋の光が差し込んだ。
【「パートナー契約=究極の愛」は時代遅れ!? インゼクトとハルツ 新しい関係のカタチ】
【愛する人と共に生きる――パートナー契約を避けるための「心のブレーキ術」】
安っぽくて、俗っぽい。
普段なら気に留めることすらしないような、煽り文句ばかりで中身のなさそうな言葉たち。それなのに、今日はどうしようもなくそんな言葉に惹き付けられてしまう。
「どうせ三文記事だろう」そう思いながら、原色の青で書かれた記事のタイトルに恐る恐る指をのばした。
ページを開くと現れたのは、名前も聞いたことのないとある学者の書いた長ったらしいコラムだった。
延々と持論を展開していく長文。読むのも億劫になってしなうほどの細かい文字の羅列をトワの琥珀色の瞳がぼんやりとなぞっていく。
パートナー契約が究極の愛のカタチと呼ばれたのは昔の話である。
双方が愛し合いながら、片方のみが感情もなく、物言わぬ骸となるのは如何なものか。
心を通わせ、同じ時間を共有することこそが「愛」なのではなかろうか。
妙に胡散臭く、読みにくい文章が続いていく。しかし、その文章の断片には、不思議とトワの心の重荷を少しずつ取り払っていく何かがあった。そんな言葉ばかりを拾い、虫食い状に読み進めるうちにいつの間にかページの最下部に辿り着いていた。
そして、そこにはトワの聞いたことのない単語が記されていた。
――共鳴
そして、その単語の簡単な概要と「次のページへ」という文言でこのページは締めくくられていた。
馬鹿みたいな妄想に決まってる。でも……
しかし、身体は正直なもので、そんなトワの気持ちとは裏腹に、その文言に触れようとしていたが……
ピロン
スマートフォンの通知が鳴った。
ここ数日、通知の件数が増えてることには気付いていたが、開く気になれなかったメッセージアプリのものだ。
自分にメッセージを送ってくる相手なんて、彼くらいしかいないだろう……
【木元:トワトワ!】
【木元:おーい】
【木元:生きてるか?】
案の定、木元からだ。狂ったように通知音が鳴り続け、それに合わせて内容を読み切る前に次から次へと画面上にポップアップが現れる。
【木元:そろそろ学校来た方がいいぞ】
【木元:明日数学の小テストがある】
【木元:(泣いてる犬のスタンプ)】
【木元:あとお前の欠席理由がそろそろネタ切れしそうなんだ!】
【木元:今日なんて、何も浮かばなかったから咄嗟に】
突然画面が暗転した。
「あっ……」
咄嗟になんて言ったんだよ!?
画面を連打しても、もう何も映らない。数日間、充電していなかったスマートフォン。久しぶりに叩き起こされたと思ったら、いきなりこき使われて、遂にバッテリーが切れてしまったようだ。
狙っているのか、いないのか、木元のこういうところに不思議と救われる。
暗室のカーテンを一気に開け放ったような木元からのメッセージ。そのいい意味で空気を断ち切ってくれるようなメッセージに、どこか吹っ切れたトワはノロノロとベッドから脱出し、スマートフォンを充電するついでに、通学カバンに課題のノートを放り込んだ。
明日から学校行くか……
信憑性は不確かだが、望む答えは見つかった。
彼と「友達」になれる。
ただ一方的な感情を自分の胸の内で拗らせ、腐らせることなく……
恐怖も後ろめたさも抱くことなく……
そして、もう一つ答えを探す中で興味深い言葉が見つかった。
あの記事の最後に記されていた、ハルツとインゼクトの間で起きる「共鳴」と呼ばれる現象。どうやら、相手の思考や記憶を感じ取れるようになるとか……
彼のことをもっと知りたい。
彼の心に、もっと近付きたい。
そして――自分と似た何かを抱えた彼と、少しずつ、何かを分け合っていけたなら。
次から次へとそんな希望が湧いてくる。そわそわと落ち着かないのを宥めるように意味もなく部屋の中を歩き回る。
また、「彼」に会いに行こう……
誰かの言いなりではなく、自分の意思で。
「彼」とどう付き合っていくかだって、自分たちの意思で決めればいい。
この日の夜は一睡もできなかった。
「明日」が訪れる瞬間を迎えたくてしょうがなかったから。
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