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6章 選択と決意

 「彼」に会いにいくと決めてから、おとなしく自らの意思で「虫籠」に通うトワを見て、周囲の大人たちは完全に上機嫌だった。訪問希望を出せばすぐに了承され、定期訪問まであちらから提示してきたくらいだ。  トワが彼らの望むような行動を取っているにも関わらず、望む結果が延々と得られない……  そんな大人たちの胸の内を想像するとどこか心の中がスカッとする。  その一方で、トワの方はそこそこ順調だ。  「彼」と会う度に、お互いの知らない相手のことをひとつ、またひとつと知っていく。  彼の誕生日は八月、空の蒼が一番深い季節。  彼の好きな食べ物はメープルシロップのたくさんかかったパンケーキ。  彼の宝物は引き出しの奧にしまってある、宝石みたいな化石。  トワが訊ねる度に、彼は次から次へと答えてくれる。しかし、いつも肝心なことは上手くはぐらかされてしまう。 「前に言った通り、『タテハ』って呼ばれてるよ」 「そうじゃなくて……」  またその呼び名。ここの人間が与えた便宜上の識別ラベルのような呼び名。  まるで自分と彼の間に一線を引くようなその名前で呼ぶことはもちろん、口にすることすらしたくない。  呼び名を知っているのに呼べない。それなのに彼は「トワ、トワ」とあんなにも自然にこちらの名前を呼んで、一気に心の奥底へと踏み込んでくる。  歯痒さと、もどかしさでどうにかなりそうだ。  そんな、こちらの悩みなどお構いなしのように彼が明るい声で切り出した。 「じゃあ、僕からも質問!」 「?」 「君の名前は?」 「お前っ」 「えへへ、トワの真似〜」  ふざけているようでいて、どこか寂しげな色が彼の眼差しに影を落とす。 「タテハって呼ぶのが嫌なら、トワが好きに呼んでいいよ。友達のぬいぐるみに名前付けるみたいにさ」 「…………」  そうじゃない…… 「トワになら、なんて呼ばれても嬉しいよ。だってトワは僕の友達だから」  自分が彼となりたいのは、そういう「友達」じゃない……  勝手に依存し、一方的に自分の感情を向ける「友達」じゃない……  しかし、記憶の奥底をくすぐるような、彼の温かく甘やかな声にキュッと引き結ばれた唇が自然と緩んでしまう。 「っ……」  喉元まで出かかった名前――あの子の名前を、咄嗟に飲み込んだ。    ――ハヅキ  無意識のうちに、彼をあの子の代役に据えようとしていた自身の身勝手さに虫唾が走る。 「どうしたの?」 「なんでもない」    外の蟬の声が部屋の中に雪崩れ込む。  困ったような笑みをフッと浮かべた彼は、頭の中を掻き回すようなその音を断ち切るように口を開いた。 「にしても、だいぶ暑くなったね。トワの学校も夏休み?ってやつがそろそろくるの?」 「……あぁ」  「そっかそっか」と言いながら、彼は長めの髪に埋もれたうなじをパタパタと仰ぐ。軽く汗の浮かんだ彼の首筋は微かに紅く色づいていた。  あと数週間で夏休みだ。  長いようで短いこの一ヶ月が終わる頃、自分たちはどうなっているのだろうか―― ◇ 「一ヶ月、あの個体と寝食を共にするのなんて如何でしょう?だいぶトワ様に懐いているようですし……」 「?」  まるで聞き間違えたかのようにトワは一瞬彼女がなんと言ったのか理解できなかった。  夏休み直前のある日、彼の元に通い始めて数ヶ月経った頃だった。  面談を終えたトワは件の女性職員に呼び止められ応接室へと通された。いつも以上に作りものめいた笑みを浮かべた彼女はトワがソファに腰掛けるやいなやこう切りだしたのだ。    誰と……何をしろって……?  彼女は、弧を描く真っ赤な唇の隙間からヤニで黄ばんだ歯を覗かせ、さらに口角を釣り上げた。まるで、トワの返事を待つかのように不気味な笑みを顔面に貼り付け、じっとこちらを見つめてくる。  遂に痺れを切らしたんだ……  彼らの考えそうなことなどたかが知れてる。  彼女、いや、この施設全体の意図を悟ったトワの背筋がヒヤリと冷えた。寒いくらい冷房が効いているにも関わらず、嫌な汗がつうと背中を滑り落ちていった。  悪い想像ばかりがトワの頭の中を埋めつくしていく。  あいつらは一刻も早く彼の時間を止めようとしている……  望む結果をなかなかもたらさない自分たちに無理やりにでも結果を出させるつもりなんだ……  だとしたら、俺たちに残された時間は……    外で響く蝉の声なのか、次から次へと浮かぶ不吉な予感を否定したい自分の心の叫びなのか……頭の中で煩く鳴り響く正体の分からないざわめきがジリジリとトワの思考を塗りつぶす。  酷く頭が痛む……  今にも割れてしまいそうなほどに……  怒り、不安、焦燥、憎悪……次から次へと言語化することすらできない、漠然とした感情が溢れ出す。そんな蝉の声のような、意味をなさない有象無象の言葉たち――それらが幾重にも重なり、膨張し、思考を圧迫していく。  耳を塞いでも遮ることのできない騒々しさに次第に気が遠くなってくる。  視界の端からトワの世界が黒く塗りつぶされ、膝から力が抜けそうになったその時――  「……っ!」  全ての音がピタリと止んだ。  そうだ……  煩く頭の中を掻き回していた無数の雑音の代わりに、トワの頭の中にある言葉が思い浮かんだ。 「新しい関係のカタチ」 「共に生きる」  あの晩、藁にもすがる思いで慣れない足掻きをした――その時、ふと目にした三文記事のような安っぽい言葉。眉唾物だ、馬鹿馬鹿しい、そう思って忘れようとした。しかし、何故か手放しきれず、心の奥底でずっとしがみついていたそれらが、全てを断ち切った。  何を怖がる必要があるんだ?  自分たちがどうありたいかなんて、他人がどうこうできるものではないのに。  身も心も溺れ、相手と一つになる……これが彼らの望む「パートナー契約」という関係だというなら、自分たちはきっとそうはならない。  周りの大人たちが望むような、ドロドロとした欲望に飲まれ依存したり、世間の決めた第二の性を持つ人間の在り方や制度の枠組みに押し込まれたりするような関係ではなく――彼と「友達」になりたい。  短く、限られた時間の中でしか言葉を交わすことができなかった彼と心ゆくまで同じ時間を過ごすことができるなんて……かえって好都合じゃないか。  トワは乾いた喉を湿らせるように唾を飲み込むと、ゆっくり口を開いた。

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