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「ワンチャン、あの二人あるかもね」 「あるね。俺もそう思う」  出雲が思い出したように口にすると、八雲も頷く。  入院して五日経った。  怪我は外科の専門医師に引き継がれており、裕作は合間を見てふらりと訪れるようになった。  身体のダメージはだいぶ減ったが、相変わらず腕はギプスと点滴に繋がれており不自由だ。  唯一自由になれるのはリハビリだが、筋肉隆々の理学療法士は、笑顔で過酷なトレーニングを課すのでドエス先生と呼んでいる。 「あの二人、徐々に余所余所しさがなくなってるよなー。案外俺キューピッドになってんのかも」  学校の終わった放課後、八雲は毎日病室に顔を出している。学校から三十分もかからないし、と何でもないように言い、付き添いを当然の事のようにしている。  病院まで一時間半かかる眞知は、一日おきに仕事を早上がりしてここまで来ている。 「元々嫌いで別れた訳じゃないしね」  祐作は、開業医で町医者をする実父の病院には勤めず、医療センターの救急に勤務し、家には殆ど帰らないほど激務の人だった。  薬剤師の眞知は処方箋薬局に短時間勤務し、ほぼワンオペで子育てをしてきた。  離婚の原因は、医師の道に進ませたい両親に逆らえない優柔不断な裕作と、自由にのびのびと育て将来は自分で決めさせたい眞知と、教育方針の違いから始まり、コミュニケーション不足の夫婦が離婚するのに時間は掛からなかった。  そんな二人を、双子は意識して会わせようとしている。  今日も仕事終わりの祐作が顔を出した時、眞知と院内のカフェで夕食を取る予定だった八雲は、機転を利かせ、出雲と今後の話をしたいからと断り、代わりに裕作と食事をと勧めた。  まだ二人だけに抵抗がある元夫婦は、間に八雲を挟みたいのが見え見えだったが、これから二人が住む裕作のマンションの事もあり、二人で行ってもらった。 「お前鬼だな」  ぷっと出雲は吹き出す。リクライニングさせたベッドで身体を起こしているが、両手はギプスと点滴で塞がれたままだ。 「間に挟まれるのも地獄じゃん」  つられて八雲も笑う。  八雲が笑うと自分も嬉しくなる、これも双子ゆえのシンクロだろうか。 「確かにキツイよな。でもさ、俺子供の頃お父さん苦手でさ、自分の父親なのに親戚のおじさんみたいな感覚だったんだよな。甘えた記憶もないし」 「お父さん自身も子供の頃そうだったから、俺達への接し方がわからなかったんだろ」  父方の祖父母は、昭和気質で厳格だった。  今は亡き祖母の路子(みちこ)は教育に熱心で、ベータの祐作とその姉の鞠子(まりこ)をアルファに負けない優秀な人間に育てる事に固執していたという。  医者である祖父の仁史(ひとし)はアルファだったが、路子はベータだった。  看護師として働いていた路子は献身的に仁史を支え、いつしか結婚した。  医者一族でもアルファ一族でもない仁史は、性別に固執せず彼女を選んだが、路子自身は性別や医者に囚われ、アルファの子を産めなかった自分自身を正当化するために、ベータの我が子達をアルファのように育て、医学への道を強いた。  祐作は敷かれたレールのまま医者になったが、路子が子供たちの自我を取り上げて育ててきたため、意思が弱く自己主張のない、親の言いなりになる人間に育ってしまった。  医学部の学生だった祐作は、薬学部だった眞知と大学在籍時に出会い、二人は数年後偶然の再会の後、結婚した。  十年経っても子供には恵まれなかったが、二人共仕事に遣り甲斐を持っていたので、すれ違った生活でも上手くやっていた。  だがそこに亀裂を入れたのは祐作の母、路子だった。  孫を望む圧力に負け、眞知は不妊治療を始め、徐々に自分のリズムを崩し始めていた。  治療の末五年後に妊娠し、出雲と八雲を出産した。  子供が生まれても激務の祐作は家庭を顧みない、義母は口出しする。眞知の両親は隣県に住むが、実父が運悪く事故で車椅子となり、実母はその介護で眞知を助ける事ができなかった。  そうして二人の子をワンオペで育てる眞知の精神は、次第追い詰められていった。 「あの祖母さんじゃあな……人の話を聞かないし、自分の意見を押し通すし。目がいつも血走ってて怖かったわ。言いなりのお父さんにいつもお母さんブチ切れてたもんな」  まだ一日六パックの点滴を夜まで続ける出雲は、規則的に落ちる雫を眺めたまま呟く。 「お母さんのが精神的に強いからな。俺達よりお父さんの方が叱られてて気の毒だったけど」  病室に置かれていた椅子に腰掛けて、八雲はずっと出雲を見ている。あまりにもずっと見ているものだから、目を合わせられず、意味もなく点滴を見続けているしかなかった。 「八雲だって祖母さんに反抗して口聞いてなかったんだろ?」  アルファであろう八雲を路子は手塩に育てようとした。が、八雲はそんな路子の手を振り払い、まるで存在しないかのように無視をした。 「俺達を離した元凶だから。あいつが口出しさえしなければ、二人は離婚なんかしなかった」 「まてよ、違う。離婚は全部がそれじゃない──イッ痛ぅ」  苛立ちを滲ませる八雲に、咄嗟出雲は力を入れてしまい、ダメージを負った身体に痛みが走る。  顔を顰める出雲に、八雲が立ち上がった。 「ごめんっ……出雲、大丈夫? 腕? 脚? どこが痛む? 看護師さん呼んだ方が」 「平気、平気。まだくしゃみしても痛てーんだよ。座れって」  心配の目を向ける八雲を見上げる。  八雲はきゅっと口元を引き結ぶと、ゆっくりとまた椅子に座った。 「けどさあ、庇うわけじゃねーけど、全部祖母さんのせいじゃねーって」 「わかってる、でも影響してたのは確かだ」 「じゃあ何でそんなに嫌ってた祖母さん家に行ったんだよ。医者ならお父さんの所に行かなくたって八雲の頭ならなれるだろ」  出雲の問いに、八雲は少し言い難そうに視線を落とした。 「俺だって出雲と一緒にいたかった。出雲と離れるのは本当に辛かった。でもお母さんに負担掛けられないだろ……医者になるまで莫大な教育費がかかるんだ」  顔を繕う八雲に、出雲は目を見開きハッとする。 「お前あの時にもうそんな事考えてたのかよ」  アルファゆえ、進学校を強いられていた八雲は、かかる教育費が違った。  中学受験の塾代、私立中高一貫校の学費。医学部受験用の予備校代。そして莫大にかかる大学医学部の学費。  小四から大学卒業までそれはずっと続く。  医学部の学費は、国立ならば約三百五十万だが、私立だと二千万から四千万だ。どう考えても有泉家の援助がなければ進学できない。 「考えるだろ、じゃなきゃ出雲と離れようとは思わない」 「お前それで……」 「約束しただろ? 医者になるって」  たった十歳の子供が自分の自我を抑え込み、将来の為にどちらに行くべきなのか親の経済力を見極め選択したのだ。 「──すげえな、八雲。俺にはできない、お前のそういう所さすがだわ……」  甘ったれの自分には決して選べなかった選択。この世の中に、自我を捨て選択できる子供がどれ程いるだろう。出雲も、将来よりも、今、目の前にある現状しか考えられなかった。 「高校を卒業したら迎えに行くつもりだった。それまで待てば、親の目から外れるだろ」 「ナニソレ、俺が嫌って言ったらどーすんの」  あの頃よりも成長し凛々しくなった顔立ち。  真っすぐ出雲を見る八雲のまなざしは、昔とは変わらないはずなのに、どこか違う。庇護でも擁護でもない、どこか真剣で逆らえない。 「出雲は絶対に言わないでしょ。それに俺が医者になるための原動力はさ、全部出雲なんだ」  自信たっぷりな瞳に熱が灯る。八雲は一つでも取りこぼさないつもりなのか、いつまでも視線を外さず出雲だけを見ている。  あの頃と変わらない八雲に、今、自分は安心感を覚え、雪が解けるような気分を味わっている。  ──八雲が難関校に合格し、中学に上がってから、連絡も取らず会いに行かなかった。  出雲と離れ、医者になる道を突き進む八雲を、徐々に受け入れられなくなっていく自分がいた。  アルファであろう八雲と、ベータであろう出雲とは、元々備わっているポテンシャルが違う。  何でも器用にこなし、頭の回転も速かった八雲に対し、おっとりし丁寧に時間をかけて作業を行う出雲とは、一卵性の双子で外面は似ていても、気質は全く違った。  祖母が勝手に決めた中学受験塾でその差はすぐに出た。  受験用の学習内容は小学校で学ぶものとは違い、学校のテストで百点を取っていても、塾のテストでは五十点も取れない。特殊な学習内容に、復習に次ぐ復習、そして暗記。基礎から発展、応用まで問題数をこなし、理解力を上げ、ようやく力がつく世界だ。  入塾後、即トップのクラスで一位の席についた八雲と、喘息の発作で塾も休みがち、家庭学習時間も少ない出雲は、下のクラスで順位も振るわない。  体の弱い出雲は、過酷な中学受験に耐える体力がないという理由で、眞知は出雲に塾を辞めようと何度も言った。  自分の頭が悪いから辞めさせられるのだと思った出雲は、次の塾内テストで成績を上げようと勉強を頑張ると、それが仇となりいつもより重い喘息の発作が起きた。深夜救急へ駆け込む事態となり、テストすら受けられなかった。  出雲は八雲との差を埋めるためだけの塾通いになっており、受験という目的から逸脱していた。  塾でのプレッシャーが心因となって発作が起きると判断した眞知は、出雲の退塾を決めた。  その時自室で寝ていた出雲は、リビングで母と弟が言い合っているのを聞いた。  はっきりとは聞き取れなかったが、出雲が原因なのだけはわかった。  その夜八雲は、自身を無理矢理納得させるかのように出雲に抱き付いて来た。  祖母に入塾テストを受けるよう勧められた時、出雲と一緒でないと嫌だと言った自分に、責任を感じていたようだった。  だから出雲はできるだけ明るく振る舞って、抱き付く弟に声を掛けた。 「一緒に通いたかったけど俺……受験に向いてないみたい。八雲は頭が良いから、きっと難関校に合格できるよ。だから続けて、一番でいてよ。八雲が一番だと俺も嬉しいんだ。合格したら将来医者になって俺の喘息治して、な? 八雲?」  意気消沈しているその顔に額と額をくっつけると、八雲は小さく、とても小さく首をこくりと振った。  その日も発作が起きた後で熱っぽかった。  発作で体力を使い、力もなく、指先は震えていたけれど、頷いてくれた八雲の鼻先に、ちゅっとキスをした。  八雲も「約束する」と言葉にして、出雲の鼻先にキスを返した。  離婚後、離れ離れになってからは、眞知からの条件で月に一度八雲と面会が設けられていたため、月初めの日曜日、眞知と双子で一日を過ごした。  どこかに遊びに行く日もあれば、出雲達の住む埼玉の自宅で過ごす日もあった。  それは中学に上がるまで続いた。  出雲は身体を強くするため、地元のミニバスケットボールチームに入団し、中学に上がるとバスケ部へ入った。  中学では格差も大きく、小学生以上に出来る、出来ないの差が出てくるようになった。  双子なのにアルファになれなかった自分は、身体も弱く成長も遅い。同級生にも遅れを取り、次第、なぜ自分は八雲のようになれなかったんだろうと自己否定に陥るようになった。  そのため、八雲と離れているのを理由に、友人達には兄弟がいると言えず隠すようになった。  アルファが家族にいるだけでステイタスになる田舎だ。八雲と兄弟である自分を恥じ、皆と会話を合わせ、目を背けるようになっていた。  夏が始まる前には、土日も部活があるからと理由を作り、出雲は面会に行かなくなった。  有名私立難関校に合格し、エリートの道を進み始めた八雲はもう出雲の手の届かない所に行ってしまう、そんな卑下した気持ちが離れるきっかけだった。  それからは眞知と八雲だけで、都合の合う月に会っていたようだった。 「ごめん……八雲、中学の時、面会にも行かないで、連絡も無視して」  罪悪感に出雲は俯く。  ない物を持つ八雲を強烈に焦がれる気持ち。  憧れなのか劣等感なのかも分からない、ただ心を掻きむしる焦燥感。  兄弟なのに嫉妬していた。  将来の目標のために、意志とは違う選択を強いてきた八雲なのに、彼との違いがどんどん大きくなっていくのが耐えられなかった。 「俺の事嫌いだった? 顔も見たくないほど俺が嫌いだった?」  確かめるように八雲は繰り返す。嫌いと言う言葉がグサグサと出雲の胸を刺す。  嫌いになるわけなんてない、たった一人の兄弟を。  自分の尊厳のため殻に閉じこもっていた。性別に振り回されて、本来の姿を見られなくなっていた。  だから駅でも声を掛けず、すれ違うだけの日々だったのだ。  真っ直ぐ向けてくる瞳を罪悪感で見られず首を振る。 「違う、そんなんじゃない……俺、お前に、劣等感持ってた。双子なのに、何で俺はアルファになれなかったんだろうって……」  情けなくて言葉が小さく消える。腕が自由だったら顔を隠してしまえるのに今はそれが出来ない。  別にアルファに憧れているわけじゃない、八雲と同じになれなかった自分に劣等感を抱えていた。  自分もアルファだったら、眞知は勇作の実家に振り回されず、離婚しなかったかもしれない。身体も強く育ち、一緒に医者を目指して勉強していたかもしれない。 「俺は出雲にアルファのフィルターを介して見て欲しくない。ちゃんと俺を見ろよ、小さい頃は俺を見てくれてたじゃんか」 「ごめん……」 「アルファで良かった事なんて一つもねーよ。跡継ぎに期待されるし祖母さんはアルファに執着するし、出雲には避けられるし……」  八雲は端正な顔を歪め、苦々しく継ぐ。 「避けたのは本当にごめん。八雲のせいじゃないのに、何にもない自分が……惨めで……あー馬鹿だ俺」  情けなくて天を仰ぐ。  八雲を傷つけてしまっていたことを今更後悔しても遅い。 「出雲は俺がいないとダメだっただろ……発作が起きるとお母さんじゃないって俺を呼んで縋りついてた。俺じゃないと嫌だって離れなかった。それって俺だから必要としてくれてたんだろ?」 「俺は、そう、俺は……八雲がいてくれるだけで安心できた。お前じゃないとダメだった」 「俺はずっと出雲の苦しさを和らげてあげたかった。代わってあげられないなら、二度と発作が起きないよう俺が治してあげようって。だから勉強を頑張って、高校を卒業したら出雲を迎えに行って、また一緒になろうって目標を持てた。俺の全部は出雲なんだよ、出雲がいないと自分の価値が見出せねーよ。お願いだからちゃんと俺だけを見ろよ」 「ごめん、八雲、本当にごめん。何かお前に会って、こうやって話してたらまじアルファとか関係ねーし、ずっと一緒にいた八雲なんだよな……ごめん、俺まで祖母さんみたいに……もうそんな気持ち吹っ飛んだ」 「性別のせいで出雲に劣等感持たれるなんて理不尽すぎ……出雲は俺に医者になるって夢と目標をくれたんだよ、自分が何にもないなんて言わないで。 「うん……離れてたからかなぁ、勝手に俺の中で八雲がすげー遠い人になってた。手の届かない人になっちゃうんだって」  八雲と離れ環境が変わり、取り巻く人々も変わる中で、彼の気持ちが自分から離れてしまうような不安をいつしか持っていた。  田舎でアルファやオメガは珍しい。  相手にされるわけがない、皆口を揃える環境で、いつの間にそれに感化されていた。 「だから俺達は離れたらいけないんだ。離れるから誤解が生まれるんだ。俺はもうこれ以上出雲と離れたくない。いい機会だし、お父さんとお母さんにこの先もずっと一緒に住めるよう言ってみる。いいよね?」  ギプスをはめた出雲の右腕に八雲はそうっと両手で触れ、祈るように頭を伏せた。グラスファイバーでできたギプスは分厚く固定されており、触られても感覚などないのに、なぜかじわじわと温かさが滲んで来るようだった。 「もちろん、俺も八雲とまた一緒に住みたい。俺のこと、一番理解してくれてたのは八雲なんだよな……何で忘れてたんだろ」  伏せられた八雲のつむじが見える。子供の頃と変わらない左回りの生え際に、点滴に繋がれた手を乗せ撫でると、八雲は頭を傾けチラリと出雲を見上げた。 「もう二度と忘れんなよ。言っとくけど出雲の喘息を診るのは俺だからな、誰にも譲らない」  そう言うと、八雲は出雲の額に額を付けると鼻先にちゅっとキスをした。 「おま、それ、」 「ほら、約束なんだから出雲もやれよ」  額をつけられて鼻先が触れる。  子供の頃二人だけでやっていた、約束の誓い。 「あーもう、ハイ」  ちゅっと鼻先にキスを返すと、八雲は満足気に目を細め、微笑するので顔が熱くなってしまう。 「さすがにこの歳でやるのは恥ずいって」 「はは、出雲かわい」  目元を赤く染める出雲の髪を、くしゃりと八雲が掻き上げる。 「言っとくけど、喘息の発作なんか中学から出てねーからな」 「強くなったんだ。えらいえらい」  まるで恋人にするように優しい目をして頭を撫でる八雲に、フト疑問が浮かんだ。  出雲は真顔になってチラと八雲を横目で見る。 「おまえもしかして彼女いたりする? 態度に余裕を感じんだけど」 「は? いないし、いた事もないけど?」 「マジで?! 昔からモテてたのに?」 「モテてたのはアルファだからだろ。言ってるじゃん、誰も俺を見てないんだって」 「じゃあドーテーって事?」 「うん。同じで安心した?」  まるで全てを知ってるかのように八雲は出雲の頬をぷにっと摘まんだ。 「何でわかんだよ、ムカツク」 「そりゃねえ……」  顔を振って八雲の指から逃れると、喉の奥で小さく笑われる。  共学でも女の子からしたら出雲は世話を焼きたくなる弟キャラで、恋愛対象にはされない。好きになったと同時に失恋はよくある事で、女の子とラブラブなおつき合い、なんて恋愛の経験すらない。  そんな事よりも。  この将来有望な、医者の卵はどうだろう。  男子校とは言え、アルファばかりのエリート校だ。女の子からのアピールも浴びるほど受けてるだろうに。 「八雲は俺のこと好きすぎ。そんなんじゃ脱ドーテーできねーぞ」 「出雲だって俺のこと好きじゃん。麻酔から目覚めた時、俺の名前呼んだクセに」 「うざ」 「うざ」  お互いそっぽを向いて一瞬の沈黙。 「出雲君、今日からお夕食全粥から常食ねー」  ひょこっと看護師が顔を出し「了解ッス」と答える。忙しそうな看護師はチラと八雲を見てから、直ぐに速足で他の部屋に向かった。 「やっとお粥から解放される。もうお粥は見るのも嫌」 「トラウマってんなー。退院したら好きなのいっぱい食えよ」 「八雲の手料理だろ、なんかちょっと……期待してるわ」  出雲が含み笑うと、八雲はふっと瞳を流す。さっきまでの子供じみた面は失せ、どこか大人びて目を惹く。  出雲とは違ってシャープなフェイスライン、知性ある瞳。  点滴に繋がれた出雲の左手を取ると、八雲は両手で握り自分の頬につけた。 「アルファの本気を見くびるなよ。料理なんかすぐできる」 「それアルファの無駄遣いじゃね?」 「出雲にだけだけどね」  覚えている、この温かさを。 「告るなって」 「ふふふ、出雲とまた一緒に住めるのが嬉しい……やっと、やっと出雲を独り占めできる」  嬉しさを隠さないうっとりとした呟き。  まるでこの日をずっと待ちわびていたみたいに。  子供の頃は──  喘息持ちだった出雲が深夜ひゅーひゅーと呼吸を荒げると、八雲はすぐに気づき出雲のベッドに移って来た。  眞知を呼ぶより早いからと直ぐに吸入器で薬を吸わせ、出雲が落ち着くまで背中や胸を撫でていてくれた。そうしているうちに呼吸は落ち着き、また眠りの中へ落ちて行く。  隣に並んだベッドへ八雲が戻って行くところを見たことはない。眠りにつくまで彼はいつも手を握り、傍にいてくれた。  外で遊んでいても、走り回ったりはしゃぐと発作が起きやすいのを気にして、適度にストップをかけてくれた。  眞知がいなくても、いつも八雲が発作を見極めていてくれたから、酷くならずに済んでいた。  彼に手を握ってもらっていると、自分自身が落ち着いていくのがわかった。八雲の手は温かく、一人じゃない安心感があった。もっと辛い時は、八雲の腕の中に包まれていないと発作の波を乗り越えられなかった。  両親の離婚が決まり、別れの日、出雲は緊張して八雲に向き合う事が出来なかった。  兄弟なのに離れ離れになってしまう理不尽さ。  八雲はアルファで優秀だから、将来祖父の病院を継ぐのに適任だ。八雲自身も医者になりたいと言っている。  アルファじゃない出雲は喘息持ちで身体も弱く手が掛かる。中学受験の体力もない自分はスタートから外れ、期待には応えられない。だから八雲と一緒に祖父の家に行きたいとは言えなかった。 「俺は将来医者になって出雲の喘息を治すんだ。だからお祖父ちゃん家に行く」  そう言って言葉も出ない出雲を八雲は抱きしめた。 「出雲は空気の綺麗な所に住んで、体を強くしないと」  頭ごと抱え込まれ、八雲の心臓に耳を当て、どくどくと動いている心音を聞いていた。 「埼玉と東京は隣同士で近いんだからいつだって会えるよ」  自分の方が兄なのに、離れるのを惜しんで言葉も出ず、慰められている。  頭が良くて体も強い、しっかりした弟。  仕方がない、こればかりは仕方がない。  大粒の涙をボロボロとこぼしながら自分を納得させていた。  自分は医者にはなれない、必要とされないのだから。  心がシンクロしていると明確に知ったのは、二人が離れ離れになった夜からだった。  眞知が子供の頃使っていた二階の角部屋が、出雲の部屋になった。  日当たりがよく、窓からはたくさんの畑が見えた。幹線道路が近くになく、空気も綺麗だった。  けれど、いつも一緒にいた八雲がいない。不安から胸はずっと動悸で息苦しかった。  夜は母と同じ部屋で眠ったが、夜中に発作が出たらどうしよう、手を握ってくれる八雲はいない、怖い、怖い、心の中で弟を呼んでいた。  ──大丈夫一緒にいる。  それは耳から聞こえた声ではなかった。直接脳内に語りかける音。聞こえたんじゃない、感じたのだ。  布団の中は一人なのに、まるで八雲がいるみたいに体が温かくなり、心が穏やかに安心できる不思議な感覚に包まれた。  それは出雲がこの環境に慣れるまで続いた。  自分の胸には自分のものとは違う、もう一つの感情の場所がある。  それが八雲のものだと分かっていた。  出雲を思う優しさや寂しさに満ちた感情、怪我をしたり熱を出した時の身体の重苦しい感覚。祖母に対する反抗と苛つき。それらは出雲の心に流れ込んで来ていた。  小六の一月から八雲の受験が始まり、シンクロしていた出雲も心中はずっと穏やかではなかった。  二月、八雲が第一志望の最難関と言われる開誠学園へ合格した時も、眞知から聞かなくても分かっていた。  珍しく八雲が緊張しているのを朝から感じていた出雲は、ずっと彼の心に寄り添っていた。  心配するな、自分を信じて、努力は裏切らない。そう何度もエールを送り続けていたからだ。  八雲の合格発表の時間、出雲は授業中だったが、突然感情が爆発し涙が勝手に溢れて来た。制御しようのない涙は止めどもなく流れ、ノートにぼたぼたと落ちる。  八雲の嬉しさが心の中に湧き上がる。クラスメイトと先生が驚く中、ああ合格したんだおめでとうと泣き笑って心の中で呟いた。  中学受験を始めた三年の間、親の離婚があって双子は離れ離れになり引越しもしたけれど、それを乗り越えて頑張ったのだ。  一番最初に教えてくれたのがとても嬉しかった。  心は遠く離れていても繋がっている──特別な存在。  自分達はそんな双子だった。  二週間の入院生活を経て、退院を控えた日の朝、眞知より歳が上だろうベテラン師長が検温に来た。 「君が退院したらもう弟さんが見れないってナースステーションは阿鼻叫喚の渦よ」 「マジっすか」  八雲がモテるのは子供時代からなので大して驚きもない。師長は手際よく出雲の腕を取ると血圧を測る。 「結局彼、視線一ミリも寄せ付けなかったわ。何て言うか見るなオーラが凄くて、若いナースは後姿しか拝めないって毎度残念がって。これも今日で終わりかと思うと寂しいわ」 「あはは、お騒がせしました」  ナースステーションではそんな事が起きていたとはつゆ知らず、いつでもナース達には兄弟仲がいいのねとにこやかに声を掛けられていた。 「君と話している時だけ雰囲気が柔らかくなるのよね。彼、病室に入るまではガードが固くて話し掛ける事すらできないもの。だから、ついつい弟さんが来てるとみんな君の病室に出入りしちゃうのよ、許してね」  師長は手早く血圧を測り終えるとハイ、と体温計を出雲に渡す。病室の外では朝食の配膳が始まっていて賑やかだ。 「ドクターにアルファって多そうだし、病院じゃカッコいい先生たくさんいるじゃないすか」  アラームの鳴った体温計を渡すと、三十五度八分と師長はカルテに書き込み、脈拍を計る。 「あれよ、アイドルを推すのと同じ。カッコいい男の子を目の保養にしてるのよ」  師長はそう笑って次のベッドに向かった。  出雲といる時の八雲はよく話すしよく笑う。瞳は常に出雲にあり、動くさまをよく見ている。それは喘息持ちだった子供時代の名残だ。出雲の異変に敏感ですぐ対応できるよう、身についたもの。  アルファ特有の威圧感は確かにあるが、それが八雲なんだと思えば大した事でもなかった。  母の眞知は、出雲のことになると過保護であれこれと口煩く世話を焼くが、入院中は八雲が制する圧によく負けている。出雲としては、母のお節介を封じてくれて助かっているのだが、眞知は不満気だった。  その日も夕方、八雲はいつもの時間にやって来た。  この入院期間中、離れていた間の溝を埋めるにはいい機会だった。  元々生まれる前から一緒だったのだ、あっという間に双子の息はぴたりと合い、二人の時間は心地のいいものとなった。 「俺、階段から落ちた後の記憶はないんだけど、八雲が凄げぇ顔して飛び込んで来たのだけは覚えてるぜ」  いつものようにリクライニングさせたベッドで身体を起こし、八雲もベッドの横に置かれた椅子に座る。背の高い八雲に簡素な椅子は随分と足が余り、窮屈そうだった。 「出雲があの駅を使ってるの知ってたからね」 「ああ……だから路線変えたんだ?」  八雲の通う学校ならば地下鉄の駅が最寄りだが、高校からは乗り変える駅を変えて、出雲と同じターミナル駅を使うようになっていた。 「そう、お母さんに聞いて。出雲は俺がいるの知ってた?」 「あー知ってた……お前が近くにいるのは何となく感じてた」  曖昧で表現の難しい感覚。  離れてから今まで八雲とシンクロしている事や、気配を察する不思議な感覚をどう思っているのだろう。  双子なのだから心が繋がっていると、眞知に子供の頃から言われていたので、疑問に思う事もなく受け入れていたが。  胸がドクドクと大きく弾むのが分かった。まるで胃の底から地響きのように盛り上がる振動に苦しさすら覚え、眉根を寄せた。 「どうした?」  八雲が覗き込む。 「時々身体の奥が苦しくなる時があってさ」  そういえば階段から落ちる直前、あの時も身体の苦しさを感じ、力を入れることが出来なかった。 「怪我の後遺症が出てる?」 「いや、違う。事故る前から感じてたから後遺症じゃない」 「ちょっと待ってて、ナースステーションに伝えて来る」  今にも病室を出て行こうとする八雲の手を掴もうとしたが、不自由な手では空振りに終わる。 「八雲、いい。お父さんが来た時に言うから!」  声を張ると、既に背を向けていた八雲の動きがピタリと止まる。 「どの辺?」  椅子に座り直すと、出雲の顔色を伺うように覗き込む。長い睫が心配気に揺れる。 「何が」 「苦しさを感じてる場所。ここ?」  心臓の上に八雲の手のひらが置かれる。  綺麗に切り揃えられた爪先、節ばった長い指。さっき感じていた鼓動が体の奥にある。 「どんどん速くなってる、出雲の心臓。今も苦しい?」  苦しさを散らすように、もう片方の手が背を撫でる。  意識なんかしていないのに、鼓動はどんどん速くなる。触れられた皮膚の奥から、じわじわと熱が上がって落ち着かない。 「もう大丈夫。ちょっと緊張してるだけ」  もごもごと口ごもる出雲に、「何で緊張すんだよ」と八雲は顔をほころばせた。精悍な瞳が柔らかくなり、幼い頃の面影が浮かぶ。さらさらな髪が額から揺れて音が聴こえそうだった。  ──君と話している時だけ雰囲気が柔らかくなるのよね。  今朝師長が話していたのを思い出す。  自分にしか見せない表情なのかと思うと、ドキとまた心臓が跳ね、動揺する。  久々に会った弟だから。見違えるように背も伸びて、自分とは比べようもないほどカッコよく成長していたから。  たった六年離れていただけなのに。 「昔さ、出雲は喘息の発作が出ると、涙ぽろぽろ流して苦しい苦しい言っててさ、ココ、心臓が飛び出そうなくらいばくばくさせて、死んじゃうんじゃないかって必死におまえ抱いて身体さすってたんだ」  八雲は昔やっていたように出雲を自分に寄りかからせると、呼吸を即すよう回した手でまた何度も背をさすった。  この体温に包まれる感覚を、身体は覚えている。まるで条件反射のように全身の力が抜けていく。 「八雲の体温がさ、すっげえ丁度良くて安心すんの。お前暑がりで温かいからさ……ホント八雲に甘えてたなあ」 「はは、知ってる? いつも俺とお母さんで出雲の取り合いしてたんだぜ? 出雲がいつも俺を呼ぶから、双子には勝てないってお母さんプリプリしてた」 「親子で何やってたんだよ」  傷に響かないよう薄く笑って、八雲の肩に顔を乗せ目を閉じた。  子供の頃、いつもこの態勢で発作を乗り越えていた。胸を大きく上下させ、身体全体で苦しい呼吸を繰り返していた。  懐かしい八雲の匂い。高い体温。これだけは高校生になっても変わらない。 「出雲はさ、吸入薬吸って楽になると、発作の疲れでくたーって寝るんだよ。でも俺にしがみついて離れないから、いっつも抱いて寝てた」  優しい声が出雲の身体に染み込んでいく。  自分の知らない自分を知っている八雲。  どこかくすぐったい、二人だけの世界だったあの頃に戻って行くようだった。 「記憶ないわー。でもしょうがねーよ、俺には八雲しかいなかったから」  八雲のように健康だったら両親は喧嘩なんてしなかったかもしれない。  祐作と眞知の言い合いには必ず出雲の名が出ていた。それが引き金になって発作が起こり、不安が誘引していた事を夫婦は知らない。それを知るのは八雲だけなのだ。  出雲の不安を全て知り、そうやっていつも一緒に寄り添ってくれていた。 「もっと甘えろよ。甘えていいよ、出雲は俺に甘えてやっと出雲になるんだから」 「俺をダメ人間にする気かよ」  甘やかす声音に、看護師達が聞いたらどんな反応が返って来るんだろう、自分の鼓動の速さを誤魔化すように八雲の肩に顔を伏せていた。  不意に豪奢な香りが出雲の鼻腔を付いた。八雲から漂う嗅いだことのない不思議な匂いを感じて何故か首筋に目がいく。  それが何なのかわからない、なぜ目がそこに吸い寄せられるのか。そしてなぜ鼓動がどんどん激しくなるのか。  頭に熱が集中し眩暈がしそうだった。  突然顔を上げ、瞳を泳がせる出雲を不審がって、八雲は兄の前髪を掻き上げ瞳を覗く。 「どうした? まだ苦しい?」 「お……前、今フェロモンとか出てる? この匂い八雲からだろ?」 「……わかるの?」 「嗅いだことないけど何となく。これってオメガがいたら大変な事になるんだろ、き、気をつけろよ」  今までアルファやオメガのフェロモンを感じた事はない。けれど、本能でこれは八雲から発せられているアルファフェロモンだとわかる。  視覚や聴覚、味覚などの五感全てを支配し、官能を目覚めさせそうなほど強力な誘惑剤。脳の奥を麻痺させる、魅惑的でとろけそうな危険の香り。 「出雲……性別は確定してる?」  八雲が怪訝な顔をして目を合わせて来た。 「いや、高校入学の時も未確定だった。多分このままベータになるんじゃねーの?」 「俺達七月の誕生日で十七になるだろう? オメガが最初に発情期を迎える平均は十五~十八だ。もしかしてその兆候が出てるんじゃないのか?」 「嘘だろ、やめろよ。俺がオメガとかあり得ねーって。第一、うちの家系にオメガなんていねーし、未確定の殆どはベータだって言われてるじゃんか」  オメガならばそれらしい風貌があるはずだ。中性的で人目を惹きつける愛らしい顔立ち。華奢で守りたくなるような体躯。アルファに庇護欲を掻き立たせるオメガの特徴。  自分にはどれも当てはまらない、至って平凡な男子高校生だ。 「未確定である以上、オメガやアルファだってあり得る。俺の学校でも未確定で入学してからオメガに覚醒した奴もいる」 「うっそ、お前の学校なんてアルファじゃねーと合格無理じゃん、そんな奴もいるってホントすげー学校だな」  八雲の通う開誠学園は東大進学率ナンバーワンの進学校だ。アルファのポテンシャルがなければ中学受験には突破できない。  まるで他人事のようにしか捉えない出雲に、八雲の声に圧がかかる。 「俺のフェロモンを少しでも感じたんなら用心しろ。これ以上出雲に何かあったら俺が死ぬ、ホント気にして。絶対にアルファには近寄んなよ」 「ないない、マジんなんなよ。俺からオメガの匂いしねーだろ?」 「しないけど……」 「ほらね、気にしすぎ」  歯切れの悪い八雲はそれでも腑に落ちないのか、言いたげに出雲を見ている。  血の繋がりがあればフェロモンは効かないと聞く。特に血の濃い家族間ならば無効のはずだ。  だからもし出雲がオメガだったとしても、弟のフェロモンに反応するはずがない。  それに出雲にはアルファの友達がいる。同じ学校のバスケ部メンバーで仲もいい。  今まで彼にフェロモンを感じた事は一度もなく、性的に見たことすらない。それが一般的なのだ。  八雲は双子という絆で心のシンクロもしている。  特に出雲の方が八雲を求め、呼ぶ事が多かったのだ。匂いもシンクロの一部なのかもしれない。 「十七になったら再度検査しよう出雲。確定するまでは慎重にしてろよ」 「心配し過ぎだって。おまえって相変わらず心配性だよな」 「違う、心配なのは出雲だからで、出雲以外の心配はしない」  そうきっぱり言って、八雲は出雲の肩に頭を乗せた。点滴に繋がれた手で八雲の背をポンポンと撫でると、彼の匂いに混じってフェロモンも感じた。  八雲のフェロモンが分かる自分に嬉しさを覚えている。  そしてそれを八雲は感じ取り不安を大きくさせている。  何を心配しているんだろう。  不安に感じる事なんてないのに。  双子なんだから、それくらい普通じゃないか。    

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