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   screen3  ゴールデンウィークも過ぎ、季節は初夏らしく過ごしやすい季節に変わった。  出雲の骨折は順調にくっつき、不自由だったギプスも外れ、アームホルダーで吊るスタイルとようやくお別れとなった。ただ骨がくっついても腕の機能はまだまだ回復とはほど遠く、自由に右手は使えない。本格的に始まったリハビリで、一日でも早い機能回復のために、スパルタ理学療法士の元で頑張っている。  学校では、週一回の通院以外は放課後の部活に顔を出せるようになった。痛みがまだある為ボールをつく事はできないが、体幹トレーニング等の別メニューを行っている。  六月から始まった夏の大会は出場叶わず、下級生達と応援に回ったが、自校は予選三回戦で敗退し、高三の先輩は引退した。  七月、腕は着々と回復し、期末テスト前にはリハビリも無事卒業を迎えドS先生とお別れをした。  全治三ヶ月、まだ十代と若いので、回復も早く予定通りの完治となった。  出雲の完治と同時に八雲の送迎も終わりを迎え、日常に戻っていく。  出雲が駅の階段で転落した春から、季節はもう夏を迎えていた。  八雲は付き添った三ヶ月間、出雲以外には目もくれず、声すら掛けさせない、遮断のオーラを振りまく徹底っぷりだった。そのせいで女子達は、正面から見られない、後ろ姿しか見せてもらえないと嘆き、これ、どこかで全く同じことを聞いたなと、デジャブを感じた。  今八雲は、放課後の部活に復活した出雲に合わせて、学校で自習をしている。お互いシンクロなのか勘が働くせいなのか、密に連絡を取り合わなくても大体同じ電車、同じ車両に乗っているので、ほぼ毎日一緒に帰ってきている。  今年の酷暑を予想させる暑さの中、夏休みまでのカウントダウンが始まると同時にやってくるのは双子の誕生日だ。  今年はいつもとは違う、そんな期待感で出雲は毎日が浮足立っていた。  それは八雲も同じなのか、期末の結果がマックスに良すぎて、点数と順位を見せてもらった出雲は「つよ……え、いや、つよ」と一瞬言葉を失ってからも語彙崩壊するほどだった。  出雲も腕の怪我と入院で、一学期はスタートから遅れをとったが、中間が見込み点数だった分期末で取り戻さなければならず、八雲にヤマをはってもらったせいか結果は上々、ホッと一安心した。  常に頭の片隅にある、元夫婦の眞知と祐作は、出雲の退院以降、お互い歩み寄るようになり、食事を共にしているようだ。  聞いた所によると、有泉内科小児科クリニックで院長をしている祖父の体調がよくないらしい。最近は、眞知も裕作の実家に顔を出しており、そこで伯母の鞠子に話を聞いてもらっているそうだ。  折り合いの悪かった祖母のいない義実家は、もう眞知にとって居心地の悪い家ではなくなったようだ。  祐作は便利だからと言って、病院の目と鼻の先にあるマンスリーマンションに滞在し、実家には顔を出していない。  祐作の持っていたマンションは、怪我以降双子が住んだままだ。  兄弟なんだからこのまま一緒に住みたい、親の都合で離すのは理不尽だと両親の負い目をつつき、八雲が言いくるめてしまった。  離れ離れだった兄弟が協力し合って生活する姿は反対しようがなく、両親は二人の我儘に甘いジャッジを下した。  あんなに口うるさかった眞知は毎週末の来訪を止め、食事の作り置きがてら抜き打ち検査に来る程度になり、監視も緩やかになった。  今年の誕生日は兄弟だけで好き勝手に祝いたいと告げたら、眞知は出雲の快気祝いも兼ねてるのだから家族四人でお祝いをとしつこかったが、祐作が年頃の男の子はそういうものだから、と息子の意思をくみ取り間を取り持ってくれた。  そんな裕作は、双子の誕生日の三日前、突然マンションを訪れプレゼントとケーキ代と言って資金を懐から出し、二人を大きく驚かせた。そして部屋に上がることもなく、さっさと職場に戻って行った。 「誕プレ欲しいもの自分らで買えってさ、高校生に十万渡すのすげえよな」 「お父さん子育てしてないからその辺の加減が分からないんだよ」  帰宅後、チンするだけの夕飯を温めてローテーブルに並べる。一万円札が十枚入った封筒も横に置いて、二人は向かい合って手を合わせた。 「この際だからさ、全額使い切ろうぜ」 「賛成」  眞知が作り置いていた照り焼きチキンを出雲が切り分けて八雲の皿に乗せる。八雲は一リットルタッパー満タンに作り置かれたボテトサラダを山盛りすくうと、出雲の皿にどっさりと乗せた。ほとんど趣味になってきている眞知の作り置きは、どんどん消費して行かないと減らないので大変だ。 「新しいバッシュ買っちゃおうかなー、シグネチャーモデルのヤツ。八雲は? 誕プレ何すんの?」  これ何キロあんだよ、と突っ込むレベルのチキンをひたすら米と一緒に食べる。 「んー、俺はAプルウォッチ欲しい」 「あ、いいな、俺も欲しい」  便乗すると八雲はサッと自分のスマホを取り、スイスイと何かを調べ始めた。  実際時計の機能以外何が使えるのかよく分かっていないのだが、学校でもつけている奴をチラホラ見かけ、カッコいいなと思っていたのだ。 「二つ買ったら予算超えるかな。あーモデルによってだいぶバラつきあるわ。見比べた方がいいかもだから、今度見に行くか」 「オッケー、行く行く」  八雲は左手で箸を持ちご飯を食べながら、右手は参考書を読むかのようにスマホを操作する。眞知がいたらご飯中にやめなさいと怒られる案件だが、八雲は効率を重視するタイプなので、二つの事を同時に行う器用なヤツだ。一つの事を集中してやらなければパフォーマンスの落ちる出雲とは大きく違う。 「出雲は何か重視したい機能あった?」  右手で画面をスイスイと動かしながら、左手では食事がちゃんと進んでいるのだからすごい。山盛りによそったご飯の減りは出雲より断然進んでいる。 「全然ないから八雲と一緒のでいいよ、任せる」 「任された」  ふふ、と含み笑う。こうなると八雲の情報収集能力は本領発揮され、あっという間にどこでどれを買うか決まるんだろう。八雲には全信頼を置いてるので、出雲はそれに従うだけだ。  八雲といると頼りになるが、その分自分の頭を使わなくなるのが怖い。  八雲は知識が豊富だし頭の回転も速い。問題解決への機転も効く。テレビに向かってつぶやいた何気ない疑問も答えてくれるし、わからないことは自分が調べるより先に八雲が調べてしまう。  出雲のブレインが八雲になっている。このままいくと知能がどんどん低下するんじゃないかと怖くなる。  この生ぬるい甘やかしの中で、ぷかぷかと浮いていないで頭くらいは使わないと、自分は馬鹿になってその辺に置かれている観葉植物と変わらなくなってしまうんじゃないかとすら思う。 「八雲がいないと何もできないダメ人間になって、一生離れられなくなったらどうしよう」  唐突に口にした出雲に、八雲は顔を上げるとだから? とでも言いたげに、真顔で口の中のご飯をもぐもぐと嚥下し、ゆっくりと水を飲んだ。 「いいんじゃない? 別に。何も問題ないだろ。兄弟仲良く暮らしていこうよ」  至極当たり前のように返されて、自分がおかしな事を言ってしまったかのように錯覚する。 「え、そんな感じ?」 「そんな感じ」  曖昧な問いに曖昧に返して八雲はチキンをぱくりと口に入れる。  ──兄弟なんだし離れる理由はないのか。もう親の都合で振り回される歳でもないのだし、無理して離れる必要もない。  一緒にいたいならこのままずっと居てもいい、だって兄弟なんだから。  将来、仲の良い兄弟ですね、と親や周りから微笑まれ、結婚もせずにいるんだろうか。今時結婚せずとも両親と暮らしている人もいるんだし、兄弟で力を合わせて事業を起こしている人だっている。八雲が医者になって病院を継ぐのなら、自分はそれを支える仕事に就けばいい。 「あ、なんか自分のビジョンが見えたかも」 「へえ? どんな?」 「内緒」  ふ~んと頷く八雲の頭の中は高速で情報処理がされているんだろう、出雲が何を考えていたのか推察している。  きっとバレるのは時間の問題だ。将来のことだからいいのだけど。  そうして七月二十二日、誕生日当日。  朝、学校へ登校すると、机の上には大量のお菓子が盛られていて、クラスメイトからおたおめ攻撃を受けた。写メって八雲に送ると、男子校は至って通常運行で「そんな風習はない」と返されて温度差に吹いた。  今日は随分と暑い。冷房のきいた教室にいても常に薄らと汗をかいていて、頼人に「熱があんじゃね?」と不思議がられた。熱はないのだが火照りが酷く顔も赤い。せっかくの誕生日なんだし部活は休めとキャプテン静樹に言われ、従うことにした。  ──なんだろう、具合は悪くないのにな。  馬鹿正直に伝えると八雲は面倒なので、今日は部活なしだった、とだけ伝えて、先に予約していたケーキを受け取って帰った。  そうして八雲が帰宅してから二人で食べたいものを選び、デリバリーした。  アメリカンスタイルのどデカいハンバーガーに大量のフライドポテト。バッファローチキンにガーリックシュリンプ、山盛りあるバジルのパスタ。  あれも食べたい、これも食べたいとパーティーメニューをチョイスしたら、どれもこれもがアメリカンサイズで、小さなローテーブルにあふれるほどだった。 「男二人で誕生日ケーキ食うのって違和感半端なくね」  冷房をガンガンにきかせた部屋でソファを背に寄りかかり、二人で床に並んで座る。  中央に置いたバースデーケーキは、丸くしぼられた生クリームがポンポンと縁を囲い、鮮やかなイチゴが真ん中にぎゅっと敷き詰められている。しかもわざわざ名前のプレート入りだ。つい調子に乗って頼んだのは出雲なのだが。 「そう? これはこれで記憶に残るけどね。とりあえず写真撮ってお母さんに送っとこ」  八雲が携帯を二人の前にかざし、出雲の肩を組んで寄せたので、ケーキを持って写真を撮った。ついでにお揃いになったAプルウォッチをはめて、二人でウェーイと動画も送った。お金をもらっている手前、証拠写真だ。  ケーキの真中に置かれたクッキーのプレートには、チョコで双子の名前とハッピーバースデーの文字。可愛らしくデコられたクッキーを見て出雲は笑いが零れてしまった。 「いずもくんやくもくんだって」  二人の名前が書かれたケーキを見るのは何年ぶりだろう。離れてすぐは誕生日も会い、ケーキを食べていたけれど、出雲が行かなくなってからは、見る事はなくなった。離れて六年、意地を張って面会に行かなかった四年間。もっと長かったように思えるのは何故だろう。 「「十七歳、おめ」」  同時にハモって、ジンジャーエールを注いだグラスをカチンと当てて乾杯する。  ざっくりと半分に切っただけの、五号サイズのケーキを口にして、八雲が「あ、うまい」と出雲を見る。食べてみ? と生クリームをたっぷり乗せたケーキを刺して、出雲の口にフォークを持ってくるので、ぱくりと一口でかぶりついた。 「うまっ」  思わず出た声に、二人で目を合わせて食べ合う。八雲は二人の名前が書かれたクッキーを摘むと、いずもくんの部分を食べた。 「コレもうまいよ」  そう言って残ったやくもくんの部分を出雲の口に持ってくる。 「うん、うまい」  一口で食べてもぐもぐと飲み込む。  八雲は頬杖をつくと、満足そうに出雲の食べている顔を眺めた。 「俺、自分の名前も出雲の名前も好きなんだ。八雲の意味は出雲の地にかかってるだろ? 二人あってこその名前だからさ」  眞知が出産した日、祐作は学会で出雲市に来ていた。学会終了後にその知らせを受け、祐作は外に出て出産後の眞知に電話をかけたそうだ。  声を聴きながら、感謝の気持ちと共に空を見上げた時、出雲の地は傾いた陽射しで金色に輝いていた。  空には幾重にも重なった雲が広がっており、祐作は「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と、古事記の歌を口にしていた。  その時雲の間に間から、傾いた陽の光が一筋指しているのを見て、胸が震えるままに、この素晴らしい光景をあなたに見せたい、この出雲の地の神が双子を祝福していると、眞知にその景色を画像越しに見せたんだそうだ。  目の前に広がる壮大なショーに感銘を受けた夫婦は、どちらからともなく二人に出雲と八雲と名を付けた。この時を忘れないために。 「はは、昔はどっちがどっちってよく間違えられてたよな。いつの間にかデカい方が八雲って言われてさ、八雲の方が俺より一分後に生まれただけなのに」  八雲はアルファで、出雲はベータと言われていて。  優位種と平凡。  恵まれた容姿と体格に、優秀な頭脳の八雲。喘息持ちで身体が弱く、背は伸びても肉はつかず未熟さの残る出雲。  出雲の地の神は、双子の第二性をなぜ一緒にしてくれなかったんだろう。  子供の時は、二次性別が違うことの意味がわからず、何に対しても強い八雲に劣等感を持っていた。自分がどんなに頑張っても八雲には追いつけない。常に自分の前にいて手を差し伸べて来た八雲を頼ることしか出来ず、自分を諦めるばかりだった。  けれど成長してわかる。  自分達は頼って与える、そんなバランスを二人で築いてきた。  無意識のうちに引き寄せ合い、まあるく満たす。 「出雲は身体が弱かったから、俺だけがどんどん成長しちゃったんだよな」 「八雲は小学校上がってからめっちゃ強くなったよなー。俺だけ弱いまんまでさあ、不公平だー、おんなじモン食ってたはずなのにさー」  高さ二十センチはあるハンバーガーにかぶりつくと、出雲の頬にソースがベッタリとつき、八雲が指で拭って舐める。 「まーまー拗ねない拗ねない。だから俺は医者になるって目標を持てたんだし、離れてても頑張れたんだ。俺は出雲に精神的に支えられてんだからさ……これからもずっと一緒に誕生日祝っていこうよ」  甘えるように八雲は出雲の肩に顔を摺り寄せる。NBAはまだつけず、静かな室内で二人寄り添う。効きすぎる冷房に身体を寄せあい暖を取るさまは、まるで恋人同士だ。親すら排除して二人きりでいようとする自分達は疑似恋愛をしているみたいで。  兄弟で恋人のようなまねごとをして、二人だけの世界の中にいて。  お互い恋人がいないのだから、兄弟でそんなごっこ遊びをしたっていいよな? 抜き合って性欲を処理するのも、兄弟遊びの延長なんだから。 「うん、おまえが医者になるまできっと大変だろうし、なってからもそれどころじゃねーかもだから、俺だけはずっと祝っててやるよ。お兄ちゃんだし」  瞬間八雲は顔を上げると出雲にじっとりと非難の目を向けた。 「なにそれ、嫌な感じ。俺は出雲をお兄ちゃんなんて思ってない」  恋人ごっこの雰囲気が妙に気恥ずかしくて、取ってつけたようにお兄ちゃんというワードを使ったのがいけなかった。八雲が機嫌を損ねてしまったのが空気でわかり、つい目を泳がせてしまう。 「たかが一分先に生まれただけじゃん。子宮の中で、出雲の方が子宮口に近かっただけで位置だけのことだろ。お兄ちゃんだからとか弟だからって決めつけや認識は俺達二人の間に必要ない」  びしっと言い切って出雲の口を封じる。人前で兄弟という言葉を使っても、八雲は出雲を絶対に兄とは認めない。八雲の中でそこだけは譲れないものがあるようだった。 「ハイ、もう二度と言いません。お前マジ怖えからやめて」 「なに、誰かになにか言われた?」  あまりにも八雲の洞察力が鋭すぎて何も言えない。頼人が怖いと言っているのを知ってるかのようだ。 「言われてない。変に勘ぐるなよ」  真横で人の心を読もうとする目を手で遮って、八雲に身体を寄せる。  好奇的な視線を受け付けず、声すらもかけさせない八雲の遮断のオーラ。それは平凡なベータから見ると、触れがたいもののように映る。  八雲と静樹がバッティングした時、アルファの出すプライドのぶつかり合う異質の空気はそれを決定づけ、アルファはやっぱり違うと改めて周りに認識させてしまった。 「頼人? 出雲は頼人にベタベタするからマジ監視したい。あいつもいるし」 「お前なー、頼人も静樹もダチ! チームメイト! それに俺は誰にもベタベタしない!」 「俺にはベッタリじゃん」」  機嫌を取るために八雲の足の間に移動し、椅子代わりにして座った出雲は、指摘され更にもたれ掛かり体重を預けた。 「お前が俺だけにしろって言ったんだろ。それに落ち着くからいーの、精神安定剤だから」  八雲の体温は出雲にちょうどいい心地よさを与える。子供の頃発作で苦しむ出雲に安心感をもたらした、刷り込まれた記憶はそう簡単には消えない。八雲がそばにいる限り、多分一生手放せない。  ぴりっとしていた空気から、八雲の雰囲気が一気に柔らかくなる。甘いスポンジ生地のようにふんわりと出雲の身体に腕を回す。 「俺以外触んないの、ちゃんと守ってるんだ」  嬉しさを含んだくすぐったい声音。 「……だってお前うっせーし」  太々しさを含んでポテトを一本摘まむと「あーん」と後ろから言われて口に入れてやる。囲い込まれたいつものスタイル。八雲の機嫌を戻すにはこうするのが一番手っ取り早い。  密着するとふわりと鼻をつく八雲の匂い。  八雲のフェロモンは出雲が触れていると出てしまう。だから仕方のないことで──  慣れているはずのこの豪奢な香りが今夜は妙に纏わりつく。いつだったかも感じた、欲に色をつけ、脳がとろりと溶けて行く感覚。まるで酒に酔ってしまったかのように。  利き手が不自由だからと始まった抜き合いは、完治した今も続いている。  抜きたいタイミングがお互いよく分かってしまうのがいけない。今では確認する事も言葉もなく、お互いに手を伸ばしている。  このまま八雲の腕の中にいたら自分を見失ってしまいそうだ。いやらしい気持ちが高まっていき、せっかくの誕生日が抜き合いになってしまう。  陶酔感を振り払いたくて、八雲の腕を解くと、目の前にあるケーキに手を伸ばした。 「このケーキ洋酒入ってたっけ」  ペロリと生クリームをすくって舐めてみる。入ってないはず、と八雲も白いクリームをすくう。貼り付いたように八雲が口に運ぶその指先を目で追う。口を開けて舌ですくうその動作を凝視したまま、出雲はごくりと生唾を飲み込んだ。  甘く柔らかなクリームの味。蕩けるように漂う八雲のフェロモン。  ──美味しそう。  香り立つ、この匂いが好きだ。  この匂いをもっと嗅ぎたい。身体の中に取り込みたい。  匂いの濃そうな八雲の首元へ、引き寄せられるように顔を埋めていた。 「出雲?」  八雲の呼ぶ声すら甘く聞こえ、ビリビリと痺れに似た甘い電流が身体に走る。  どうしよう、今、どうしても八雲に触れたい。昨夜も抜き合った筈なのに、触れられたい。 「どうした?」  吐息が首にかかる。カッと喉が焼けつき、胸がどくどくと激しくなった。身体が苦しい、急激な何かに襲われている。この匂いに囚われてしまったみたいだ。おかしい、おかしい、身体の奥からなにかが湧いてくる── 「──ンッ……」  突然心臓に杭が打たれたかのように身体が弾けた。鼓動が激しく動き出し、息苦しい。うまく呼吸ができない。 「な……に、おれ……」  胸が苦しくて苦しくて今にも圧し潰れそうになり、片手で自分の服を掻き毟る。  身体が急激に燃えるように熱くなり、毛穴と言う毛穴からどっと汗が吹き出した。 「……ぅっ──出雲、これ、」  八雲が咄嗟自分の口と鼻を覆う。 「ぁぁ、ぁ、あ……くる、し──」  熱く干上がった喉だった。カラカラに乾いた口じゃあ声が発せなくて、何度も無い唾を飲み込んで喉を引き絞る。  ドクドクと血の流れが耳鳴りのように聞こえる。下半身が痛く張り詰め、足がガクガクと震え始めた。 「この、匂い……っ、発情──」  呻き漏れた八雲の声。まるで短距離を走り切ったランナーのように、荒く呼吸した八雲の息遣いが耳に届く。  熱い、身体が煮えたぎったように熱い。なのに皮膚だけが一枚めくれてしまったみたいに過敏になっていて、触られたら弾けてしまいそうだ。 「出雲っ!」  間近に八雲の顔が迫る。何を言っているのかわからない、理解できずうずくまろうとすると、強い力で腕を取られ顔を上げる。八雲は頬を上気させ、双眸を大きく見開き、出雲を見下ろしていた。血走った眼球が赤く染まっていき、八雲の理性がギリギリと煮詰まっていくのが見えた。 「「──ハァっ、ハァっ、ハァッ……」」  呼吸に声が混じり、お互いの呼吸が合わされてどんどん大きくなっていく。口を開け、呼気が部屋に響く中、出雲は耐えきれず八雲に手を伸ばした。 「はぁ……やくも、身体が……ヘンだっ」  意思と言う意思が乗っ取られてしまったみたいに考えられない。この匂いが自分を狂わせている、八雲のフェロモンが──八雲が──目の前のアルファが欲しい。欲しい、欲しい。 「出雲、覚醒したんだ、オメガに。これはヒートだ」 「──ヒート? ……おれが……オメガ?」  嘘だ、オメガだなんて。じゃあこの体中を支配する性欲はなんだ? どうしてこんなに欲情しているんだ? 自分の意志とは違う所でアルファを欲しがっている、これが本能──? 「出雲はオメガだ──」  心の中を代弁したかのように八雲が言葉にした。  俺が、オメガ──… 「ああ、キツイ、無理だ。出雲のフェロモン、堪んない……」  小刻みに呼吸を繰り返す八雲が、額から汗を流して呻く。なんとか理性を保とうと両目を見開き、ギリギリの所で耐える八雲の首を無意識に引き寄せていた。 「やくも……、」  どうしてそんな顔をしているんだ、いつもとは違う八雲の目の色。アルファ独特の艶のある瞳。吸い込まれそうなブラックホール──荒い息を八雲の首筋に擦り付け、火照ってたまらない身体を押し付けた。  ──欲しい。 「八雲、俺を……はやく、どうにかして──」 「────ッ!」  赤く紅潮した八雲の顏が迫る。両手首を掴まれあっという間に床に縫い止められた。  獣のように荒い呼吸、血走った眼球、ねじ伏せる容赦ない力、身体から発せられる熱量。  これが発情したアルファ── 「あ、ぁ、ぁ……」  強く抱きしめられると身体の底からゾクゾクとした震えが湧き上がり、よがった声が勝手に出ていた。  嬉しいと身体が歓喜している。力強い腕に抱き込まれて、身体の中から底知れない欲望がどんどん生まれてくる。 「出雲、楽にしてあげられるのは俺だけだ。だから本能に任せて俺を欲しがっていい」  ハァーハァーッと荒く呼吸を繰り返しながら、真っ赤に充血した獣が訴える。 「や……もぉ……ぁ、ぁぁ……」  目の前の雄を誘惑する艶めく声が、自分の口から出ているなんて信じられない。自分が自分じゃない、八雲から発せられるフェロモンが脳内を麻痺させ、何も考えられなくなる。 「もっと俺を欲しがれ」  八雲に頭ごと抱え込まれた状態で声を聞くと、自分でもどうしようもない制御できない性欲が溢れ出した。  八雲の声に下半身が疼いて止まらない。いつの間にか張り詰めていた性器をたまらずに八雲の身体に擦りつけると、今まで感じた事もない快感が腰に直撃し、意思もなく射精していた。 「ん、……あ、ぁぁぁ……」  おかしい、身体の五感全てが性欲に支配されてしまってる。もう、この身体は快感しか感じ取れない。  怖い、怖い──自分はおかしくなってしまったんだ。 「出雲、怖がるな。ヒートなんだ、理性なんか捨てて、もっと俺を求めろ──」  心を感じ取った八雲が服を脱ぐ。ゆらりと霞む視界の中で、八雲の残像が揺れる。  出雲が感じている怖さも全て八雲は受け止めようとしている。  ああ欲しい、目の前にいるアルファが欲しい。  自由になった両手首を掴まれて床の上に押さえつけられる。  自分の上に乗り上げる八雲の、その加減のない力に頭がクラクラした。  この重みすら嬉しいと、本能が悦んでいる──圧倒的な強い力で支配し、この身体をアルファで満たしてぐちゃぐちゃにして欲しい。 「出雲……出雲、」  うわ言と共に荒い息を繰り返し、見下ろす八雲の目の奥が光る。欲情し艶めいた瞳には、優しさの影もなく、強い雄の輝きだけが放たれている。  ゾクリと全身が震えた。  ──食われたい。  八雲になら、食われてもいい。  悪寒にも似た震えが肌の上を走り、自分からフェロモンが大量に放出したのがわかった。 「ああいい香り……俺を誘惑する出雲のフェロモン、たまんない……」  甘い果実を食むように肌に痕をつけながら八雲がうっとりと呟く。二人のフェロモンが混ざり合い、むせかえるほど濃い。クラクラする。 「や……くも……」  思考が奪われ何も考えられない。  もがくように呼吸を繰り返す半開きの口に八雲の唇が重なった。  欲していたものが与えられて、必死になって受け入れる。何度も角度を変える八雲の唇を追って自分も唇で食んでいた。唾液が混じり、熱い吐息と共に水音が響く。いつの間にか二人の舌は絡まっていて、荒い息をつきながら夢中になって吸っていた。  下肢から何かが垂れている。今の出雲にはそれが何なのか分からず、射精してもなお衰えない自身を八雲の体に擦りつけていた。  ──これだけじゃ足りない。  自分が欲しいのは、身体の奥底にある欲望の塊を──破壊するもの。 「んあ、あぁぁ……」  八雲の指がしたたる孔に差し込まれ、あまりの快感にのけ反って喉を晒す。 「ぬるぬるだ……俺を欲しがってこんなに濡れてる。かわい、かわい、出雲」  興奮した八雲の声が脳を痺れさせ、下肢に響く。何本かもわからない指が何度も出入りする。ぐちゅぐちゅと響く音がずっと聴こえていて、気持ち良さに思考が麻痺する。喘ぐ出雲の口すらも八雲がキスで塞ぎ意識が飛びそうだ。奥深くにまで指が届きビクビクと体が震えて、本能のまま大きく足を開く。  ヒート、これがオメガのヒート。本当に、自分はオメガだったのか。 「──あっ、あっ、やくも……もっと、もっと、して……」  明るいライトを逆光にした八雲を見上げて乞う。  指じゃない、もっと熱く滾るものを本能が欲している。どうされればいいのかこの身体は知っている。もっと自分を制する圧倒的な力が欲しい── 「──嬉しい。俺が満たしてやれるなんて──アルファに生まれてよかった。嬉しくて嬉しくてたまんない……」  恍惚と八雲がキスをしながら呟く。いつも精悍な瞳は熱に浮かされて壮絶な色を孕んでいる。目元を紅く斜に染めて、小刻みに荒い息をつき、煙るようなフェロモンを振り撒いて。  心臓が飛び出そうだ。八雲を自分だけのものにしたくて堪らない。その身体から吐き出されるもの全て。自分だけのものに──  額から落ちた汗が一粒、二粒と出雲の顔に落ちる。獣のように呼吸を繰り返しながら、八雲は反り返る自身を手にした。落ちた水滴が口元に流れ、出雲は赤く熱した舌でねっとりと舐め取った。 「はやく、はやく、おまえで満たして──」  乞うと、八雲は唸るように喉を鳴らした。 「入れてあげる、そうしたら出雲はもう、俺のものだ──」 「──ぁぁっ、んっ……」  ズシリと質量を持ったものが身体の中心を貫いた。その瞬間、脳内の全てが弾け飛んでまた吐精していた。  ああ、なにこれ、視界が浮遊している。身体はガクガクと震え、こんな感覚初めてだ。脳や身体全てがぶっ飛ぶ、これが快感なのか。  射精の余韻を感じる間もなく、熱く脈打つものがどろどろになった孔路を何度も行き来する。八雲が自分の中にいる、ただそれだけで出雲のフェロモンが放出され、八雲のフェロモンと混ざり合う。唇を重ね、どこもかしこも一緒になって溶け合っていく。 「気持ちいいね、出雲」  口元で八雲が問う。体重を乗せて突き込まれるたびに快感の泉が沸き、どんどん大きくなっていく。初めてなのに、どうしてこんなに気持ちがいいんだろう。 「あぁぁ、キモチい……やくも、キモチい。もっと、俺に、入れて……」  乾いた口で呼べば、八雲はフェロモンに煙たそうに目を細めた。壮絶な色香。しっとりと唇を重ね、出雲は餓えていたかのように口腔内を貪る。  八雲の唾液すら惜しくて何度も飲み込んだ。自分を抱く弟があまりにも魅惑的すぎて欲するのを止められない。  八雲のものを締め付けながら腰を蠢かすと、うっとりするくらいのいやらしい瞳で笑う。 「いいよ、いくらでも俺をあげる。出雲を鎮めてあげられるのは俺しかいないんだから」  ゾクゾクする甘い声。自分を見下ろす熱のこもった瞳。汗で濡れる肌から放たれるとろける催眠の香り。八雲はこんなにも自分を惑わせる。 「イク、またイク……あぁっ、八雲」 「いいよ、何度でもイこう、一緒に、これからもずっと、ずっと、俺達は一緒なんだから」  しなやかな腕が強く抱きしめる。子守歌のように八雲が紡ぐ言葉を、訳がわからないまま必死に聞いて首を上下に振っていた。  連続した動きからひと際大きく突かれて、その精を吐き出す。開放感に意識が飛びそうな中、出雲の胸に顔を埋めた八雲を抱きしめる。ぎゅうと強く抱きしめ返されると、身体の奥で八雲が吐精したのが分かった。 「出雲……好きだ」  初めて聞く切ない声音だった。八雲は数回腰を打ち付けて全てを出雲に注ぎ込む。胸が締め付けられてもう止まれない。 「……ンっ、まだ、抜くなっ」  八雲が動けば動くほど気持ちがいい。何度射精しても衰えない、すぐ勃ち上がるペニス。目の前の身体をただただひたすらに欲するしかない浅ましい性。  ああ、どうしてこんなにも八雲を求めてしまうんだろう。  すれ違う駅のホームで、姿を現さない八雲にずっと焦れていた。だからあの日階段から落ちた時、やっと見つけた八雲を捕まえられて嬉しかった。  友達でもない、恋人でもない、兄弟なのに。発作で苦しい夜も、離れて寂しい日々も、自分はいつも八雲を求めていた。  まるで魂に書き込まれているかのように八雲しか選べない。想えば想うほど涙があふれそうになって苦しくなる。  他に入り込む余地のないこの感情を何と言うのだろう。  ああ、嫌だな、嫌だな──自覚したくない、自覚したくないんだ、まだ。 「──離れ、たく……ない……」  それが声に出ていたのかはわからない。  これは恋に似ているけど恋じゃないんだ。自分達にそんな道理は通用しない。  何時までも終わらない波がまた襲って来る。もうダメだ、ダメかもしれない。もう何を言ってしまうか自分がわからない──    十七歳の誕生日、確定していなかった二次性が発現した夜。  兄弟でアルファとオメガになった。 「出雲……」  骨が軋むほど強く、強く、抱きしめられる。  ああ、もうどうなってもいい。八雲といられるなら。  襲ってきた大きな波に飲み込まれ、思考が飛び散ってしまった。

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