7 / 11

screen 3-3 R18

   夏休みも終わりに近づいた頃、部活を休部している出雲に、試合の連絡が回って来た。  最後の週に、数校が集まり練習試合が行われるので、新学期を前に顔を出さないかという顧問とキャプテン静樹からの誘いだった。  初めてのヒートが来てから一ヶ月が過ぎ、少しずつ抑制剤を試すようになっていた。  二学期を万全に迎えられるよう貴文が作成した投薬計画の元、少量から始めているのでまだどの抑制剤が体に合うのかはっきりしていない。  これからは自分で自分を守らないといけない、このオメガ性と一生付き合っていくのだから。  貴文に相談すると、新学期を前に同級生達に会って慣れておくのも必要だねと、緊急用の抑制剤をもらい、試合に参加する事になった。選手としてではなく、マネージャーとしてだ。 「少しでもおかしいと思ったら直ぐに連絡な? 近くの図書館にいるし、帰りも迎えに来るから」  公式戦ではないため、関係者以外観覧禁止の練習試合だ。八雲は会場近くの最寄り駅で、出雲に何度も念を押す。 「もう落ち着いてるし、緊急用の抑制剤も持った。心配いらねーよ」 「駄目。油断するな、A高校とY学園にはアルファがいるんだから近寄るなよ」 「んな事言ったってウチには静樹もいんだからさ」 「あいつには絶対に近寄んな」  有無を言わさない圧。 「無茶言うな。じゃ、集合時間だから行ってくる」  まだ何か言いたげな八雲を制して交差点を渡る。信号を渡り切って振り返ると八雲はまだ見ていた。  行き交う自動車の合間を縫って、帰れと駅を指差してジェスチャーを送ると、八雲が大きく手を振る。背が高く手足の長い、均整の取れたスタイル。人の多い駅前でも彼は特別に見えた。多分、今なら八雲がどこにいたって見つけ出せる。髪の先から香る八雲の匂いも、吐き出される息の熱さも全部知っている。  ──自分達は、混ざり合ってずっと一つになっていたのだから。  小さい頃眞知に見せられた、妊娠中期のエコー写真には、狭い子宮内でぎゅうぎゅうにくっついている二人が写っていた。  こんなにも離れがたいのは、記憶のない胎児の時からずっと一緒にいたせいだ。身体も繋げたから、精神もより深く混じってしまったのかもしれない。  たかが数時間八雲と離れるだけだ。早く日常に戻らないと、本当に自分は八雲から離れられなくなってしまう。  離れがたい思いを断ち切って背を向ける。  きっと八雲は見えなくなるまで自分を見ている。確認しなくてもその姿は容易く脳裏に映っていた。  集合場所の区営体育館では、三面に仕切ったコートで各校の対戦相手と時間が設定され、ボードに貼られていた。  出雲はマネージャーとしてベンチにつく。リハビリ終了後にオメガへ覚醒したため、選手としての練習は事故から全く出来ていない。体力面の低下も覚醒以降激しく、体重は三キロ落ちたままだ。ただでさえ痩せ型なのに三キロは大きく、今の出雲では(いち)クオーター十分(じゅっぷん)すら走っていられない。 「出雲ぉ~、おまえ一回り小さくなってね? 大丈夫かよ~こんなに痩せて、心配でたまんねーよ」  チームと合流すると、頼人が出雲の手首を持って嘆く。夏休みの間、何度も頼人が遊びに誘ってくれたが、対応する気力もなくスタンプを返すのみだった。  心配してくれていたチームメイト達もわらわらと寄って来て出雲を取り囲む。 「悪りい、もう体調も落ち着いて来たからさ、二学期からは部活に復活するよ」 「マジか、やったー! 出雲いっぱい肉食ってくれ、今日終わったら皆で焼肉食べホ行こうぜ!」 「おう、いいね、行く行く、行こうぜ」  賛同して声を上げると、頼人に肩を組まれてぐいぐい頭を寄せられる。近くにいたチームメイト達も「よっしゃー焼肉!」と張り切り出す。  久々すぎるバスケ部皆の対応に、自然出雲の気持ちも向上して行く。だがその向こうで後輩が複雑な顔をしているのがわかった。ろくに練習すら出ていない先輩が来たのだ、真面目に部活をやってる後輩からしたら、何しに来たと冷めるのは当然だ。 「出雲! 来てくれてサンキューな、これスコア表。今日一日よろしくな」  静樹がスコア表の挟まれたボードを渡す。 「静樹。連絡ありがとな」  部活に顔を出す機会を作ってくれたことを感謝して礼を述べると、静樹はぷはっと破顔した。 「おう、二学期からはちゃんと出ろよ」  いつものように出雲の髪をぐちゃぐちゃと掻き混ぜようとした手が、宙でピタリと止まった。 「今日は一段とアイツの匂いすんなぁ……」  神妙な顔で見られて顔が引きつる。まさか八雲にヒートを鎮めてもらっているのがバレたのか、動揺してしまう。伯父の貴文には一発でバレたのだ。  ──いや、大丈夫だ。静樹は出雲がオメガだとは知らない。ベータだと言ってあるのだから。 「あー……もしかしたら朝あいつの使ったタオルで顔拭いたからかも」 「ドンマイ、俺んちも家族でタオル使いまわしてるわ」  頼人がケラケラ笑うと、静樹は出雲の細くなった身体をまじまじと見て大きくため息をついた。 「マジで出雲休みの間に痩せすぎ、もっと太ってくれ。それじゃあ試合に出ても当たり負けして吹っ飛ばされる」 「わかってるって、これから毎日プロテイン飲んで米一日五合食うわ」  適当に言うと静樹が真面目な顔をして「野球部は一日七合が最低ラインらしいぞ」と器用に口端を上げた。 「身体の中全部米になるわ、それ」  ぷっと吹き出しながら突っ込むと、静樹も笑って肩を寄せて来た。  ふわりと感じた静樹の匂い。アルファなのに八雲とは違う、脳の奥底を刺激してこない、ごく普通の体臭。同じアルファなのに、この違いは何なのだろう。  この日出雲は、チームの試合中はスコアをつけ、他校試合ではテーブルオフィシャルを担当し、マネージャーとして役割を淡々とこなして行った。  春の終わりにあった公式戦は怪我で出られず、練習試合の多く組まれた夏休みはオメガへの覚醒と不安定なヒートで休部を余儀なくされ、合宿も行けなかった。このままでは秋の公式戦も出られない。心のどこかで諦めが出始めている。  小学五年生から肺を強くするために始めたバスケットボールは、いつからか夢中になって、中学の部活動では勉強よりも力の入れようだった。  朝練で校庭を走り、放課後の部活でも練習中はノンストップで走り続けた。訪れた挫折も乗り越え、いつしか喘息の発作は起きなくなっていた。  身体や関節の柔らかさから作られる美しいフォームは、出雲のシュート成功率を上げた。一つ一つの努力が実を結び、自分に自信もつけて部活動が盛んなこの高校に入学したのだ。  試合前の高揚感、シュートが決まった時の喜び、チームの団結力、勝った時の達成感。何度経験しても足りない、大切な青春の一つだ。  ──諦めたくない。  最後の試合は高三の夏季大会だ。負けたらそこで引退となる。早ければ六月。もう一年もないのだ。まだチャンスがあるならば最後までやり遂げたい。  努力すればきっと打破できる、中学のあの時のように。  まずは体力作りとヒートのコントロール。オメガの大多数は、自己管理してベータと変わらない生活を送っている。  自分も早くそうなればいいんだ。    ──けれど現実はそう甘くはなかった。  午後、試合の合間に昼食を済ませ、飲み物を買いに会場内の自動販売機を探していた。  ロビーの向こうに三機並んでいるのが見えて駆け寄ると、その奥にあるトイレへ自校Tシャツを着た二人が入って行くのが見えた。後輩だ。 「今日なんで有泉先輩きてんの? もうとっくに辞めたと思ってたわ。まさか復活する気じゃねーよな?」 「ほんそれ。辞めてねーなら復帰かねえ」 「まさか秋季大会出る気? 合宿も来てねークセに都合よすぎねぇ?」 「まあそこは先輩だし、一年の俺らにゃナンも言えねーよ」  トイレの中から会話が聞こえ、自販機の前に立っていた出雲は一瞬にして身体がフリーズした。  後輩に歓迎されていないのはわかっていた。ベンチに入れるのは十五人、その中からスタメンに選ばれるのは五人。一人抜ければ一人上がれる、実力の世界だ。ろくに練習のきていない先輩がベンチ入りすれば、後輩から不満の声が上がるのは当然だ。  ──勝負の世界なんだからそう簡単じゃないことはわかってる。真面目に練習に出て、努力した者じゃないと誰も認めない。だから自分も後輩達と一緒になって泥臭く練習するしかないんだ。 「身体めっちゃ細くなってたよな? あんな急激に痩せて雰囲気出ちゃってさ、オメガだったりしねーのかな」  ドクンと頭の芯が揺れた。心臓が激しく動き出し、ドリンクのボタンを押そうとしていた指先までも震える。 「そしたらラッキーじゃん、復帰はぜってー無理だし」 「怪我してくれたお陰でレギュラーになれたんだからさ、このままお願いしたいわー」 「お前先輩とポジション被ってるもんなあ。先輩の旨味はスリーだけだし、おまえの方がタッパもあるし、リバウンド取れるのは認める」 「だろ? 頼人先輩とのコンビネーションさえなければ、フィジカルは断然俺のが上なんだからさ」 「わはは、強気やん。じゃあおまえのために先輩がオメガになるよう毎晩祈ったるわ」 「よろ」  声が近づいてきて、咄嗟自販機の反対側へ身を隠した。  歩いて行く足音が遠ざかり、ずるずると背が壁を滑り落ちていく。ペタンと尻が床に付き、立てた膝に顔を伏せた。歪む世界に彼等の軽快な笑い声がぐるぐる回っていた。  ──そうだよ、俺はオメガだよ。  オメガにプレイする資格はないのか? オメガになった自分には部活での居場所もないのかよ。じゃあバスケのしたいオメガはどうしたらいいんだ。人に迷惑をかけないように、一人公園でドリブルしてればいいのか。  体が弱く受験に耐えられないと塾を辞めさせられた時、そして両親が離婚した時。喘息という爆弾を抱える自分に、父の実家での居場所はないのだと子供心にわかっていた。だから、八雲と一緒に居たいと言えなかった。  一緒に医者を目指したいと言えなかった。  ──ずっとずっと諦めてばかりだった。  オメガはオメガとして、レギュラーなんて望まないで、大人しく退部すればいいのか。オメガでなくたって諦めて来たのに、オメガになったら今度はバスケも諦めないといけないのか。  なんだか呼吸が苦しい。まるで気道が狭まってしまったような。息がうまく吸い込めなくて大きく深呼吸するとひゅうっと音がした。  ──出雲君が覚醒したのは、八雲のアルファフェロモンを浴び続けていた結果、急激にオメガ性が発達したせいだ。  伯父の言葉が思い出される。  違う、その言葉だけを都合良く切り取るな。  あの日──階段を落ちる少し前から苦しさがあった。身体が作り替えられていく違和をずっと感じていた。  自分は何時かは覚醒していた。それがこのタイミングだっただけ、責任転嫁するな、オメガなのは生まれた時から、自分の運命なのだから受け入れろ、恨むのなら自分を恨め。  自分がオメガとしてできることを模索するしかないんだ。  なのに何でだろう、黒く濁った感情がドロドロに押し寄せて受け入れてくれない。胸が苦しい。ばくばくと動悸がする。違う、違う、いつかは発情していた。それが十七の誕生日だっただけだ。  八雲と再会しなければなんてたらればと秤にかけるな。オメガである以上、自分は発情を繰り返す生き物なんだ。  肩で大きく息を吸う。  久々につかえる重い呼吸だった。深く深く呼吸しないと酸素が肺に入っていかない。一度大きく深呼吸して、目の前の自販機で水を買う。身体の奥深くにまで浸透するように、冷たい水を一気に流し込んだ。スーッと器官を通る冷たい感触に、次第呼吸が落ち着いていき、一度自分にリセットをかける。  ──オメガの自分を受け入れろ。  体育館の中からは、どっと大きな歓声が湧き、試合終了のブザーの音が聴こえた。  白熱した試合が終わったのだろう、体育館の扉が開き、選手たちがドカドカと出てくる。  自分達のチームもそろそろ準備をしなければいけない。復帰のきっかけを作ってくれた静樹や顧問の為にも、しっかりと自分の役割を果たそう。落ち込むのは今じゃない。  萎えかけた自分を奮い立たせると、ポケットの中で携帯がふるえ、見てみると八雲からのラインだった。 《どうした?》  やっぱり隠せないんだなと思った。出雲の些細な動揺を感じ取っている。 《帰り皆んなで焼肉行くかも》  心配をかけないためにそう送ると、一秒もしないで返信が来る。 《は?》《止めろよ》  ポンポンと連続してくる。 《もう約束したし》 《断れよ》 《無理っしょ》 《なら俺も行く》 《静樹もいるけど》 《絶対に行く》 《喧嘩すんなよ》 《努力はする》  嫌な予感しかしないが、駄目と言っても聞いてくれないことは想像がつく。静樹とできるだけ接触させないようにするしかない。  ポケットにしまい体育館に向かうと、開け放たれた扉からひと際身体の大きなチームが出てきた。今しがた試合が終わったのだろう、A高校だった。偏差値の高い進学校なのでアルファもいる学校だ。  先頭を歩く三人は、いかにもアルファと言う風貌で、道を譲りたくなるほどの威圧感だった。他校のチームもその圧倒的な存在感に、つい道を空け、立ち止まって彼らを眺めてしまう。  出雲は彼らが通り過ぎるのを、息を止めて待つ。  アルファ三人は、流れる汗をタオルで拭きながら通り過ぎたが、残った風に乗ってきたのは、汗臭い男の匂いしかしない。  ──大丈夫。アルファがいても今までと変わらない。発情期でなければヒートは起こらない。抑制剤を忘れずに飲めば、ベータと変わらない生活を送れる。アルファを怖がることはないんだ。  ホッと胸を撫でおろし、体育館に入ろうとした──その時。 「ねえ、あの子大丈夫? 具合悪そうじゃない?」 「ちょ、あれ、もしかしてオメガのヒートじゃない? なんか匂うよ」  ドキっとした。まさか自分からかと声のする方を見ると、誰かを取り囲んで辺りが騒然としていた。 「救急車、誰か早く電話して! 早く!」  叫ぶ声が響き渡った。ひとりの女子が、一緒にいる子に抱え込まれ苦しそうに呻いている。その傍らでさっき出雲とすれ違って行ったA高校の三人が、口を押さえ身体をよろめかせていた。 「アルファを離して! フェロモンを吸い込ませるな!」 「早く顧問の先生を呼んでください!」 「オメガを隔離して!」  場は一気に騒然とし、駆け付けた各校の先生達の怒号が響き渡る。  何だなんだと騒めく生徒達。ヒートを起こした女子を取り囲み、見えないよう守る友人達。フェロモンにあてられたアルファが、発情したオメガに向かわないよう、身体を張って抑えるチームメイト達。 「先生! こっちでもう一人ヒートを起こしてます!」  またひと際大きな声が届く。アルファ三人の放つフェロモンを吸ったオメガが発情し、また一人と増える。  どよめく場内。好奇に集まる生徒達。騒ぎ立てる生徒を注意し戻れと指示する先生達。  混じり合った濃いフェロモンに敏感なベータが反応し、次々と気分の悪さを訴える。ロビーでは養護の大人がオメガ二人と、アルファ三人をそれぞれ隔離用の部屋へ連れて行く。  少し離れた位置から見ていた出雲の足は震え、そのフェロモンを吸い込まないようTシャツの裾で口と鼻を塞ぐので精一杯だった。  この場から去らなければ、そう頭の中は命令しているのに足が動かない。  たった一人オメガが発情しただけで、ガタイのいいアルファの男三人をあっという間に発情させ、そのフェロモンで他のオメガまでも発情させるというループ。その衝撃の大きさに打ちのめされそうになる。オメガのヒートはこんなにも影響力があるのだ── 「誰か緊急抑制剤を持っている人はいませんか?!」  オメガが隔離された部屋のドアが開くと、処置についていた女性が出て来て呼びかける。出雲は振り向き手をポケットに突っ込んだ。  オメガとして自分ができることは──  忍ばせていた緊急抑制剤をポケットの中でぎゅっと握った。これを渡せばヒートは落ち着く。これ以上の連鎖は起きない。大丈夫、自分は朝抑制剤を飲んでいる。  出雲は医務室に駆け込み、自分の緊急抑制剤を渡した。 「ありがとう、一つしかなかったから助かったわ。君も顔が赤いから気をつけて」 「はい、僕は抑制剤を飲んでるので大丈夫です」  養護の中年女性に渡し、チラと奥のベッドを見る。  ぐったりと横たわる、制服の女子とユニフォームを着た男子。苦し気なオメガ二人の姿。顔を真っ赤にさせ荒い息を吐き、濡れた瞳をうつろに見開いている。  苦しい、身体が疼くと呻く声。わかる、その苦しさが。アルファを求める渇望感。あの放たれる豪奢で芳醇な香り、発情した身体に圧倒的な力で穿たれる悦び──  身体中の血液がドクドクと急激に沸騰したかのように滾り出す。  思い出すな、こんな時に。鼓動が激しく皮膚を突き破りそうだ。本能がうるさい、餓える。どんなに求めても求めても終わりのない性欲。アルファの種を取り込むまで続く渇欲。  ──引きずられる。  早くこの場から去らなければ、自分もこのオメガと同じようにヒートを起こしてしまう。アルファはまだ他校にもいる。これ以上の騒ぎを自分が起こすわけにはいかない。  医務室から出て会場出口に向かって駆けだすも、人の流れに乗ったアルファのフェロモンが鼻につき吸い込んでしまった。  ──ヤバい、ここはもうアルファフェロモンが充満しているじゃないか。  大量の汗が吹き出し、出雲の顔を流れ落ちて行く。呼吸を浅く繰り返したまま、誰もいないのを確認して、自販機の横に蹲り床に手をつく。  背がぶるりと震え、身体の奥に覚えのある疼きが湧いて来る。  大丈夫、大丈夫、自分は抑制剤を飲んでいる。口の中で何度もおまじないのように唱える。  ガクリと肘が折れ、体勢を崩し、横に置かれたゴミ箱が音を立てて倒れた。その衝撃音に頭で満タンになっていた言葉が決壊した。  ──先輩がオメガになるように毎晩祈ったるわ。  クソ、祈らなくてもオメガになったよ。こんな身体じゃあもう部活なんて戻れねーよ。アルファがいる、発情もコントロールできない、体力も落ちてる、結局自分に居場所なんてないんだ。クソ、おめでとう、俺のポジションはもうお前らのもんだ。もういい、謹んでお渡しいたします──  自虐的になってぐったりと横たわる。  帰りたい、八雲の所に──…  流れて来たアルファフェロモンが微かに鼻をつき、ゾクゾクと全身が震えた。  ああ、来る、来る、発情する。 「出雲! どうした? 大丈夫か?!」  倒れる出雲に静樹が気づき、肩を引かれ顔を上げた。  自分からフェロモンが出ているのがわかる。静樹もアルファだ、このままじゃあ彼までもオメガフェロモンにあてられてしまう。 「駄目だ、俺に、近づくなッ──」  喉を振り絞って声を上げる。荒い息を吐き、真っ赤な顔をして訴える出雲に静樹の表情が止まった。 「おまえ、それ──」  ──あいつは発情したオメガに理性飛ばして襲った過去があるんだ。アルファである以上信用なんかできない。  中学時代静樹を襲った事故。  自分のせいで彼を巻き込ませたくない。 「早く、離れろっ」  駆け出そうと身体を起こす寸前、静樹に腕を掴まれ身体を抱え込まれた。 「よせ、お前まであてられる」 「俺には効かない、だから安心しろ。裏に回るぞ」  非常口から外に出て、体育館の裏に回る。途中静樹は、足がもつれて動かせない出雲を背負うとダッシュした。  走る振動に身体ががくがくと揺さぶられて、下半身が固く反応しているのに気づかされる。その背中に触れ、静樹も気づいているはずだ。  彼の背に顔を付けて出雲は目を閉じた。アルファの香りを深く取り込もうとする、それは本能から来ているものだ。  なのに──彼からはフェロモンの匂いがしない、ただただ汗臭い、男の体臭。違う、自分が欲しいのはこの匂いじゃない、この匂いじゃ身体を満たしてくれないんだ── 「八雲、やくもぉ……」  無意識に零れた泣き言に、駆けていたスピードが落ちる。  体育館の裏は勤務者専用の駐車場が広がっていて、ぽつりぽつりと自動車が停められていた。 「クソ、お前ら何なんだよ双子で、あの時とおんなじじゃねーか!」  静樹は人目を避けて自動車との間に出雲を下すと声を荒げた。出雲は身体を捩らせ、這うように地べたを進む。 「八雲じゃないと、俺、だめ……」 「ああ、わかった、わかったから、よこせ!」  うなりながら静樹が出雲の履いているハーフパンツのポケットから携帯を奪う。 「着信着まくってんじゃねーか」  呟きと同時にまた着信で振動し、静樹が即座に携帯を耳に当てた。 「何してんだ、早く来い! そっちじゃねーよ、裏だ、駐車場にいる、早くしろ!」  静樹はそれだけを怒鳴りつけると、今度は自分の携帯を取り出し、また電話をかけ始めた。頼人に指示を出しているようだった。 「出雲、あと少しの辛抱だ、緊急抑制剤は? 荷物の中か?」 「……さっき、の、オメガに、渡した……」 「チッ、オメーもそんなんなのに何で渡しちまうんだよ」  イライラと静樹が舌打ちする。出雲は自分で自分を抱きしめて、コンクリートの上に丸まった。断続的に湧き上がる熱で身体が疼いて止まらない。  近い場所で救急車が二台、サイレンを鳴らして停止した。さっきの発情したオメガとアルファのために呼ばれたものだ。  試合は中断されたのだろう、体育館の中からボールをつく音や笛の音は聞こえない。  無音の意識の中、自分の荒い呼吸だけが頭に響いている。  俺はここだ──ここに居る。 「……ハァっ、キツイ……むり……」  心配そうに覗き込む、目の前のアルファに手を伸ばす。身体が本能のまま動いている。自分で自分がコントロールできない。がっしりとした肩に掴まり顔を摺り寄せた。 「馬鹿、よせっ、やめろっ、俺は違うっ!」  静樹が大きな声を出す。強い力で引き剥がされ、ドスンと尻もちをついた。  貼り付いた静樹の顔。拒絶が見て取れ、涙が浮かび、その場に崩れ落ちた。 「──ッうぅ……う」 「あ……悪い。出雲、大丈夫だ、もうすぐあいつ迎えに来るから、耐えろ、耐えてくれ」  一体どうしてしまったんだ、これは誰だ? アルファなのに匂いがしない。自分を抱いていた匂いとも違う。分からない、頭が混乱する。なぜ自分は手を伸ばしている? アルファが欲しい。アルファが欲しい。アルファが欲しいだけなのに── 「ん、う、ぅ……」  ボロボロと涙を流し、荒い呼吸で丸まる出雲の髪を、静樹は詫びるかのようにそっと撫でた。 「ごめん、苦しいよな。何もしてやれなくてごめん。だけどここで出雲を守ることだけはできるから安心しろ」  大きな手のひら。優しさが伝わり、余計に涙があふれて来る。  まるで八雲になでられているみたいだ。小さい頃、喘息の発作で苦しい時、汗で貼り付く髪を掻き上げ何度も何度もなでていてくれた八雲の手──その温かさに、出雲はその手を取ると張りつめる性器へ導こうとした。 「出雲ッ! 止めろっ。近江、退けっ、出雲に触るな!!」  声が聞こえる。怒気と焦燥が混じる声。伸びて来た腕が出雲をさらい、強く抱きしめた。加減のない強い力。ドクドクと心臓の音が聞こえる。  深く吸い込んだ香りは、いつも出雲を取り囲んでいる八雲の匂い。とめどなく、自分でも制御できないフェロモンがあふれ出す。 「──あ……や、くも……」 「近江、お前、出雲に何した?! なんでヒート起こしてんだよ、答えろっ!」  出雲のフェロモンを浴び呼吸を荒げながら、八雲は静樹を威嚇する。その激しさに空気がぱりぱりとひび割れ落下していくかのような衝撃が走った。 「ああ? 出雲のことになると随分と余裕なくなんのな? おまえ、ソレ、発情してねえ? 顔に血管……ラット起こすぞ、ヤバイんじゃねーの」 「黙れ、近江、仕返しのつもりか? いつまでも根に持ちやがって、出雲を発情させて、俺に仕返ししてるつもりかよ」  短く呼吸を繰り返す、八雲の体温がどんどん上がっていく。違う、そう叫びたいのに言葉が出ない。 「はっ、何で俺がそんなクソみてーなことするよ。あいつはもうお前の事なんかきれいさっぱり忘れてるわ!」 「綾織(あやおり)が発情したのは俺のせいじゃない、いつまでもくだらねープライド持ちやがってさっさと捨てろ!」  言葉が無数の矢となってビリビリと肌を突き刺す。息苦しい重圧感。アルファ二人が出すむき出しの激情。  ゆらりと上がる怒りの炎が二人から見える。 「うるせえ、黙れ! おまえを見て発情した、それが証拠だろっ。俺はあいつを一生離さない、綾織には近づかせねーからな!」 「俺は綾織の運命なんかじゃない! いい加減目を覚ませ! 俺の運命の相手は出雲だ!」 「馬鹿野郎、兄弟で運命とかふざけてんじゃねーよ!」 「ふざけてんのはおまえだ! 俺は出雲だけだ、ほかは誰もいらない、おまえが俺の運命を決めるな!」  迷いのない怒声に、静樹は、顔を真っ赤にし発情を忍耐で抑え込む八雲をみて両眼を見開いた。 「おまえ、出雲のフェロモンで発情──マジで兄弟で、おまえら」  守るように出雲を強く抱く八雲を見て、静樹がそれ以上の言葉を飲み込んだ。 「好きなだけ軽蔑しろクソ野郎、お前のくだらない嫉妬で俺らを巻き込むな。近江、もう二度と出雲に関わるなよ、俺のに触れたら容赦しねーからな」 「──ッ!」  静樹が激高し八雲の袖を掴み上げる。  運命──八雲の運命は誰だって? 朦朧とした意識の中で問う。  アヤオリ──自分は二人の過去をなにも知らない。  ボタボタと八雲から汗が落ちてくる。燃えるように熱い身体。激しく繰り返される呼吸。心臓が早鐘のように打っている。  身体が疼く、八雲から放たれる惑いのフェロモンに頭がもう回らない。 「止めろ止めろ! こんな所で喧嘩なんかすんじゃねーよ、おまえらいい加減にしろ!」  出雲の鞄を持って駆け付けた頼人が、二人を遮って八雲を掴む静樹の身体を押し留める。 「出雲、顧問には具合が悪いから早退させるって言ってある。めっちゃ辛そうじゃんかよ、早く帰れ、な?」  持っていたバッグを八雲に押し付ける。  大量の汗で髪を貼りつかせ、疼く身体を持て余しながら、出雲は八雲の腕の中でゆっくりと目を開けた。心配そうに見つめる頼人と、眉を吊り上げ静樹と睨み合っている八雲が映る。人前で感情は剥きださないのに、どうして静樹と相対すると乱暴になるのか。 「頼人、ありがと、迷惑かけて、……」  言葉は最後まで出て来ず途切れて落ちた。八雲の腕の中にいるせいで、身体が期待しゾクゾクとした震えが止まらない。友達の前なのに、こんな時ですらオメガの身体は浅ましくアルファを求めている。 「気にすんな、そこの裏門から出れる。新学期ちゃんと来いよ!」  頼人は意識して明るく、静樹の首に腕を回して手を振る。  八雲が無言で出雲の腰と膝裏に手を回し抱き上げた。 「有泉、出雲のそれはヒートを起こしたオメガに共鳴しただけだ、誤解すんじゃねーよ」  まだ刺々しさの残る静樹を、頼人がどうどうと宥める。  八雲は出雲を軽々と抱き上げたまま、何も言わず背を向けて裏門へ歩いて行く。  八雲が放つ怒気が、フェロモンに交じって重く出雲の心に訴えかける。胸に感じるこの鈍痛は八雲のものだ。怒りと悔しさと心の痛み。  あの時心は八雲を求めながら、アルファの静樹に手を伸ばしていた。八雲を想っていても、本能に屈してしまう自分の性はこんなにも見境ない。八雲が怒るのも当然だ。  もし静樹が正気でなかったら──  自身をコントロール出来ない事がこんなにも怖いだなんて、思いもしなかった。    オメガ用の緊急タクシーに乗せられて着いたのは、朝出て来た家ではなかった。小さい頃に連れられて来ていた、大きな門構え。八雲が住まう祖父の家だ。 「何でここに、」  慣れた手つきで暗証ロックを外し、電子ドアを開けると、八雲は出雲を抱えたまま玄関に引き入れた。懐かしい匂いにノスタルジックな気分が込み上げる。  子供の頃来た時のまま、玄関ホールには一枚の大きな絵画が飾られ、祖父が趣味にしていたゴルフバッグが無数に置かれていた。  靴を脱ぐのも惜しんで、腕を引っ張られるままバスルームに連れて来られる。家の中には誰もいないのか人の気配はなかった。 「出雲っ、脱げ、全部脱げ。クソッ、あいつに触らせたところ、今すぐ全部洗え!」 「やめっ、止めろ、八雲、おまえの方がヤバイだろっ」  荒い息を継ぎながら、服を引き裂く勢いで剥ぎ取られる。八雲の中心は激しく猛っているのに、怒りの方が強いのか、手つきは酷く乱暴で力の加減ができていない。  車内でもらい飲んだ抑制剤は、徐々に効力を出し、出雲のヒートは楽になっていた。けれどラットを起こしている八雲には効かず、興奮し獰猛なまでに激しく荒々しい。 「何であいつといた? ヒートまで起こしてんのになんで近江といたんだよ! アルファには近寄るなって言っただろ?!」 「違うっ、そうじゃないっ、待て、待てよ!」  下着一枚に剥いた出雲の下肢を見て八雲の手が止まった。先走りの液と孔からあふれた体液で下着はぐっしょりと濡れていて、八雲は言葉を失う。 「な、んでこんなに──」  下着を引き下げると一筋の体液が太腿を伝って落ちて行く。その一点を睨みつけた八雲の瞳がみるみると怒気に赤く染まった。  瞬時に怒りのボルテージが最高潮に達した八雲は、シャワーヘッドを掴むと、まだ湯になっていない冷たいままの水を出雲の全身に浴びせた。 「クソっ、あいつにどこ触らせた? こんなに濡れるほど、どこを触らせたんだよ!」 「触られてないっ、静樹は俺を隔離しただけで何もしてないっ」  冷たい水が肌を突き刺し、悲鳴にも似た甲高い声が響く。 「だったらなんでこんなに濡らしてんだよ! 俺以外のアルファで、こんなになるまでっ」 「知らねーよ、勝手に濡れてんだよ! 俺の身体なんてお前が一番わかってんだろっ」 「そうだっ、出雲の身体は俺が一番わかってる! だから俺以外のフェロモンでヒートを起こすなんて許せないんだよ!」  獰猛な目の色に変わった八雲の口の中で尖った犬歯が見える。  違う、今まで見てきた八雲と違う。発情してもこんなに荒々しくなった事なんてなかった。  小刻みに荒い息を継ぎ、鬼気迫る八雲に気圧され、ブルブルと足が震える。こんな激情を向ける八雲は知らない。怒りのエネルギーで燃やし尽くされてしまいそうで、怖い。  無意識に足が一歩後退る。 「逃げるな!」  腕を掴まれバスルームの壁に身体を押し付けられた。  コントロールの効かなくなった容赦ない力。首を掴まれ、腰だけを引き上げられる。  八雲が興奮に猛る自身を掴む。ビキビキと大きくそそり勃つ肉棒に目が張り付き唾を飲み込んだ。ヒートの大きな波が引いても、一度疼いてしまった身体の熱は治まっていない。あれが欲しいと本能が喚く。 「やめっ、やめ──八雲っ!」  小さな孔からはしたなくあふれた体液が、どろりと滴たり落ちた。  嫌がる声を上げても、自分を支配しようとするアルファを欲しがり、身体は艶めかしく腰を揺らし誘う。バラバラだ、どこもかしこも。 「クソっ、俺以外のアルファなんか出雲にはいらない! 俺だけがいればいい!」 「──あっ、ぁぁぁっ……!」  背後から猛ったもので一気に貫かれ、喉を反らし嬌声を放つ。息が止まるほどの快感に、目の奥で閃光が走り、衝撃に足をガクガクと震わせながらその精を放った。  よろめく腰を引き上げられ、息をつく間もなく次の律動が始まる。自制の切れた動きは激しいまま何度も出雲を揺さぶり続け、絶頂する。八雲も何度精を放っても衰えることはなかった。 「俺だけって言えよ、俺だけって」 「……ふぁっ、あ、あ、おまえ、だけっ」  ドクリ、ドクリと最奥で放たれる。そのほとばしる脈動だけでまた出雲も達し、胎内で彼を締め付けたまま身体をのけ反らす。  力尽きて崩れ落ちるその腰を八雲が掴むと、浴槽の縁に座った彼の上に落とされる。 「はぁぁっ、ふ、か……いっ……」  八雲を背にし、ビクビクと痙攣する身体を容赦なく下から突き刺される。 「もう、やだ……あ、ぁぁ、むりぃ……」 「中、ドロドロにして何言ってんだよ、突くたびにイってるだろ」  何度放っても全く衰えない肉棒にガクガクと揺さぶられ、身体の奥まで犯される快感に本能が歓喜で震えている。もっと、もっと欲しがる欲が出雲を動かし、八雲の上で無心に彼を受け入れ続けている。 「ほら、ぴったりくっついて離れない。わかる? 俺達は生まれる前から運命なんだよ。出雲、本能でわかるだろ?」  熱く囁く八雲の舌が首を這う。耳元から首筋を辿り、何度もうなじを口に含む。そこを舐められると身体がおかしくなる。敏感になった皮膚から、身体を突き動かすいやらしい熱が湧き上がって、我を忘れそうになる。  駄目だ、絶対に駄目だ。そこを差し出してしまったら、自分達はどうなってしまうんだ。 「うっ……ン、やめ……そこ、……やめ」  いつからかお湯に変わったシャワーが降り注ぐ中、二人の荒い息が木霊する。どんなに言葉を発しても、深く入り込む熱棒が出雲を翻弄させて喘ぎにかき消されてしまう。 「おかしくなる……からぁ……やくもぉ」 「理性なんか邪魔なだけなんだから早く手放せよ」  止めさせたいのに、出雲のイイところを熟知した動きに甘えた声しか出せない。  八雲の舌は首を這い回り、噛まれそうな恐怖と絶え間ない快感が出雲を翻弄し、乱れに乱れた。  ズクズクと最奥だけを狙い撃ちされて無意識に八雲を締め付ける。貪欲になった内壁はペニスを逃さないよう奥へ奥へと扇動する──その動きの違和に出雲はようやく気づく。  ──形が違う。  いつもとは違う圧迫感。出て行きそうで出て行けない、ストッパーが八雲の根についている。 「ああ、出た──これ、ノット。もう出雲の中から出らんないよ?」 「ン、あぁあ……なに、これっ、いやっ」 「ほら、ノットまで全部入ってる」  ぐっぽりとのみ込み、届かないところにまであたる。ぐりぐりとそこで内壁を圧迫され、のけ反ってよがる出雲を八雲はがっちり支えて逃がさない。  それがアルファによってオメガにどんな影響があるのか出雲にはわからなかった。ただただ翻弄され、八雲の上で打ち込まれる熱を受け止め、身体をくねらせているしかできない。  腹に入った大量の精液と、溢れる体液が合わされて、卑猥な水音を響かせている。  もわもわとたち込める湯気と湿度が息苦しく、半開きの口からはだらだらと唾液がこぼれ、八雲が舐めとる。動きの激しさに脳内が揺さぶられ、麻薬に侵されたかのように何もかもが垂れ流しだ。 「気持ちいいね、出雲……そんなにぎゅうぎゅう締めんなよ。俺の、コレ、離したくないほどイイ?」 「ああ……イイ、イイ──やくも、またイく、イっちゃう」  歯が皮膚に触れる。噛まれる緊張と快感が最高潮に達した時、出雲は腰を震わせて絶頂する。先端から出るものはなく、ドライで達する快感に気が飛んでしまう。死ぬほど気持ちがいい。  断続的な体内の痙攣に八雲が息を詰めると、最奥で熱い飛沫が弾けたのを知り、それにすら喘いでしまう。  あまりの強い快感の余韻に、頭を垂れ肩で息をする出雲を、背後から八雲が抱きしめた。 「噛むな──噛まないでくれ」  掠れた声の懇願に、今にも歯を立てようとしていた八雲の動きが止まる。尻の奥に入ったままのペニスがぴくりと動き「ンッ」と声を殺す。八雲はまだ猛ったままだった。 「どうして? どうして駄目なんだよ?!」 「取り返しがつかなくなるだろ!」 「出雲が他のアルファに手を伸ばすのを黙って見てろって言うのか? そうしたら殺すよ、俺。出雲が手ぇ出したアルファを葬る」  頬は紅潮し身体の興奮も冷めていないのに、その声音と目の奥だけは冷静で、内なる怖さが潜んでいる。 「脅しでもそんなこと言うな!」 「現実味がない? なら出雲を閉じ込めて、世界は俺だけにしてあげる。内側からじゃ開けられないドアの中で、外界との繋がりは全部絶って。俺がいないと生きて行けない出雲は、俺だけを見て俺だけのために生きて、そうして一生涯俺だけのものになるんだ」  ちらちらと瞳の奥で不気味な炎が揺らいでいる。噛まれる恐怖と紙一重の潜在願望。  噛まれたい、本能が囁く。アルファに噛んでもらってその種を身体の奥に植え付けて欲しい。オメガの本能が何度も出雲に命令する、八雲は運命の相手なのだから噛ませ番になれと── 「番は──ダメだ」  首を振る。振って、振って、甘い誘惑を振り切る。  八雲だけでいい、生涯二人きりでいい。わかってる、八雲が運命の相手だって。  けれど自分達は眞知と祐作の元に生まれた血の繋がる兄弟で、遺伝子も同じ一卵性の双子なのだ。兄弟で発情し合い、セックスしていることすらタブーなのに、自分達はこれ以上のタブーを背負い込まないといけないじゃないか。  耐えられない。今ですらいっぱいいっぱいなのに、これ以上なんて苦しくて耐えられない。  首を振り続ける出雲を、八雲は背中から抱きしめる。髪や耳、そして頬に音を立ててキスを続けながら、唇が首に移る。  ゾクゾクした。舌が肌の上をなぞり、耳の裏からうなじを辿っていく。ああ、嫌だ、うごめく舌にゾクゾクが止まらない。  噛んでと発してしまいそうな自分を叱咤して、落とした腰を引き上げようと力を入れた。 「ダメだよ」 「んぁっ」  腰を掴まれ、八雲と向き合う形で彼の上に座らされる。身体を繋げたまま、当たる所が変わったため、喘ぎは防ぎようがなくこぼれてしまった。  余韻に耐える出雲を見上げる八雲の一途な瞳。  好きだと、ずっと子供の頃から変わらない出雲への想いが胸に伝わって来る。  ──好きだ、好きだ、俺も八雲が好きだ。自分も呼応して心の中で喚いている。  声に出せない、心の中の告白。シャワーの音が聴こえない声をかき消してくれる。  覗きこむ出雲の髪の先から雫が止めどなく落ち、八雲の顔を濡らし涙のように流れていった。額に、頬に、そして目元に、手を這わせて拭う出雲を、八雲は瞬きながら見つめていた。 「八雲──俺達は兄弟なんだから番にはなれない」 「違う、兄弟でも番にはなれる」 「兄弟だから番になっちゃいけないんだ」 「出雲、俺達は兄弟でも番になれるんだ」  言葉の糸をかけ替えても、二人は平行線のまま。  血が繋がってるのになぜ自分達のフェロモンは反応し合うんだろう。なんで本能に背かないといけないんだろう。許されないのなら、なぜ無効化しなかったんだろう。  だったら八雲と兄弟になんて生まれたくなかった。  出雲は八雲の頭ごと自分の胸に抱きしめる。切なくて、悲しくて、あふれそうな想いを押し殺す。 「俺はお前がいないと発作を乗り越えられなかった。離れても独りぼっちが怖かった。だから心の中でいつもおまえを呼んでた。俺が──そうやってお前を縛り付けてたせいだ……ごめん八雲、ごめん」  謝る出雲に八雲は首を振るう。 「縛り付けてたのは俺もだ。発作が出てもお母さんから出雲を奪って独り占めしてた。俺じゃないとダメになればいいって、俺に依存させて離れられないようにすれば出雲は戻ってくるって……。出雲だけじゃないよ、俺達はお互いを縛り合ってきたんだ」  八雲の手が出雲の濡れた髪を掻き上げ、頬を包む。額と額をくっつけ、互いの唇を触れさせながら、鏡のように二人は顔を合わせる。 「俺は出雲と血が繋がってる事が嬉しい、同じ血が流れているのは俺だけ、この世に二人だけなんだ。俺達は離れないようにアルファとオメガに生まれたんだよ」 「そうだよ、同じ血が流れる一卵性の双子なんだよ。なのに兄弟で番うって、番うって──親にもオメガって言えてねーのに、お前と番ったら一生──どうなるんだ」  葛藤で瞳を彷徨わせる出雲の両頬を掴み、八雲は自分だけを見るよう固定させる。 「俺と出雲だけが分かってればいい、他人なんかどうでもいいだろ。出雲は俺以外のアルファに首を噛まれてもいいのか?! 番を持たなきゃ今日みたいなことは何度でも起こる。お願いだ出雲、俺以外にフェロモンを吸わせないで、俺を番にしてよ……」  懇願する瞳が真っすぐ訴える。  結婚のように法で定められていない、兄弟で番っても法には触れない、二人だけが知っていればいい。ただ出雲と八雲だけが──  発情してからもう何度も抱き合った。初めて発情した時、何の疑問も持たず、目の前の八雲に手を伸ばしていた。  本能が出雲に教えていたから、自分を鎮めるのは八雲しかいないと。  自分の全ては八雲だ。そして八雲の全ても出雲なのだ。  自分達は好きと言う感情を超えてしまっている。これは自己愛とどう違うのだろう。二人ともお互いしか選べないなんて。  涙があふれ出し、嗚咽が喉をつく。 「もうやめろ……」 「俺は結婚なんて興味ない、子供もいらない、出雲だけがいればいい、俺がいつだって欲しいのは出雲だけだ」  息を震わせる出雲の胸に八雲の言葉が響く。 「一生一緒にいようよ、俺達の人生は二人で切りひらくんだ。出雲──噛みたい、噛ませてよ、ねえ出雲、いいって言って。もう二度と俺以外のフェロモンに反応しないようにしよう。出雲のフェロモンも俺のためだけに出してよ、ね? 俺と番になりたいって──言えよ」 「まって、まって……あっ、ぁ、ぁ……」  埋め込まれたままだった八雲の肉棒がうごめき、ズクリと奥を穿つ。出雲は背を反らせ、その衝撃に身体をびくびくと震えさせた。 「誰にも取られたくない、出雲は俺だけのものだ!!」  犬歯が剥きだされ、首を手で守る。指に突き刺さった痛みに耐えた。  掴まれている腰にも指が食い込む。揺さぶりは暴力的な律動。快感を求めるのではなく責めるためだけの動き。身も、心も、痛みだけが増す。  駄目だ、八雲はラットで自身のコントロールができていない。うなじを噛むまでこれは続くのだ。  落とした腰を引き上げて、中に留まる八雲を無理矢理抜いた。興奮が覚めていない性器は先端から一本の糸を引いて垂れ、閉じきらない孔から八雲の放った精液がごぷっと音を立てて落ちた。 「出雲っ」 「離せ!」  抱き込む八雲の腕を払い、その体を押し返す。その反動で八雲の体が出しっ放しのシャワーヘッドにぶつかり、大きな音を立てて落ちた。同時に抑えのなくなったヘッドは床でのた打ち、八雲の動きを阻んだ。  四方八方に湯がばら撒かれ噴水のように飛沫が舞う。開けっ放しだった脱衣所に湯が飛ぶのを見て、出雲はバスルームを出て戸を閉めた。  水浸しになった脱衣所に構わず、ふらつく腰のまま根性で廊下を駆ける。そのまま目についた階段を駆け上がった。 「出雲、逃げるなっ」  階下から八雲の声が追いかけて来る。今はダメだ、今、自分達は正常じゃない。 「来るなっ。八雲、やめてくれ、俺、拒めない……お前拒めないよ……もう頭おかしくなるから止めてくれ」 「おかしくなれよ! 俺達兄弟だろ、一生一緒にいられる、それの何がいけないんだ!」  血の繋がらない他人ではない、家族だからこそ一緒に生きて行ける理由がある。  ああ、頭が混乱する、何が良くて駄目なのか分からない。  二階に上がってすぐにあったドアを開け鍵を閉めた。そしてそのまま気力の糸が切れたようにへたり込んだ。瞬間、鼻をつく八雲の匂いにはっと顔上げて振り返る。  照明のついていないセピア色の室内は、時間が止まったかのように何もかもが、ただただそこにあった。浮遊している粒子がゆらりと揺れるのすら見えるようで、眩しくもないのに目を眇め、数回瞬く。  部屋の奥にある、窓に向かって置かれたシステムデスク、壁沿いに置かれたベッド。反対側には書籍で埋め尽くされた壁一面の本棚。天井まで続くそれは図書館の一角のようにそびえ、圧倒的な存在感を放つ。まるでこの部屋の心臓のようだ。  ──ここは八雲の部屋だ。  机の上やベッド、本棚には出雲の写真が無造作に置かれていた。どれも離れてからのもので、眞知が撮ったものだ。  小学校の運動会、展示会、初めて出たミニバスの試合、卒業式、中学入学式──二人が離れていた間、数多くの写真や画像を眞知は八雲に送っていた。だから眞知は出雲の写真をいつもたくさん撮っていたのだ。  壁には出雲が着ていたミニバス時代のユニフォームが飾られていた。いつの間に八雲の手に渡っていたんだろう。  本棚には喘息についての概念から病態、治療の事など最新の知見も記した教書や実践書が並んでいた。  呼吸器内科専門医になるには──その一冊が目にとまる。刹那ぐしゃりと視界が崩れ、両手で顔を覆った。  自分達はアルファとオメガだから惹かれ合っているんじゃない、自分がベータのままでもきっとこうなっていた。  十歳だった八雲が──あの時自分と離れる道を選択した事がショックだった。自分達は双子なのだから、離れ離れになるなんて選択はないんだと疑ってもいなかった。  僅か十歳で医者になると決めた八雲は、眞知に学費の負担を負わせないために出雲と離れる選択をした。  理由も言わず、親を責めもせず、アルファだからと自分を押し殺して。それは全て出雲との将来のためだったのに──  瞳からあふれた涙がぼたぼたと頬から滑り落ちた。止めどなく流れる熱い涙は、八雲が過ごした部屋を濡らす。  厳格な祖母に反抗し、父も帰らない家の中で、八雲はどう過ごしていたんだろう。  部屋の奥に置かれたシステムデスクで、小学生だった八雲が身を丸め、勉強する残像が映り、嗚咽で喉をしゃくり上げた。  置いて行かれたのだと心の何処かで思っていた。追っても追いつけない所へ行こうとしている彼を、何の力もない自分はただ諦めることで自分を守っていた。  親が離婚しなければ、喘息さえなければ、自分もアルファだったら。そんな言い訳をして、八雲がどんな気持ちで医者になる道を決めたのか知ろうとしなかった。八雲と同じになれなかった自分を諦めて、諦めて、何度も諦めて、会うことを避けていた四年間はもう戻っては来ない。  歩みの遅い出雲の先を進んでいた八雲の人生は、出雲に繋がっていたのに──  兄弟でなければ好きだと叫んでいた。けれど兄弟でなければ好きにはならなかった。  離れてもシンクロさせ、求め続ける自分達は──  生まれる前から決まってたんだ。  その時ドアの向こうで階段を登って来る足音が聴こえた。八雲のではない、ずしりと重みのある足音だった。息を殺していると、控えめにドアがノックされた。 「出雲君、下の浴室から廊下が水浸しなんだが、一体どうしたんだ」  伯父の貴文の声だった。出雲は息を詰めて頭を振る。  帰って来たのだ。今日は休診日で病院は休みで、もしかしたら祖父と伯母もいるかもしれない。こんな状況、なんて言えばいいのだ。 「何があったのかは知らないが、八雲はラットを起こしていたね。君は大丈夫なのか?」 「──はい……」 「そうか。君がそう言うのなら信じよう。だが私もアルファだからこのドアを開けるのはやめておく」  フェロモンの匂いがまだ残っているのだ。今更ながら裸のままなのに気づいて、誰が見ているわけでもないのに自分で自分を隠した。 「下で眞知さんと妻が八雲に事情を聞いている。彼は喧嘩だと──それ以外は口を閉ざしている。両親に知られたくないと言ってたね。だったらこんな喧嘩は感心しない」  母親もいるなんて──絶望的になって目の前がくらくらした。  兄弟が裸で言い合い、しかも八雲はラットを起こしていたなんてどう説明したらいいんだ。 「出雲君」  息を詰めて言葉を待つ。ドア一枚隔てた向こうから、緊張の圧を感じて身体が固まった。 「隠したいのなら完璧に隠し通しなさい」  瞬間肌をビリビリと振動させる、威圧的な声だった。相手を屈させるアルファの声音にひゅうっと息が止まる。 「アフターピルと着替えをここに置いておくよ。頭が冷えたらいつもの君になって降りておいで」  よく通る、けれど厳しさしかない低音。優しかった伯父の絶対的な強さを知る──彼もアルファなのだ。八雲を裕作に代わって育ててきた。  階段を降りて行く足音が聴こえやっと息が吸えた。  けれど余韻が身体中を支配し、重くて重くて──しばらく動く事が出来なかった。

ともだちにシェアしよう!