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四月の怪我で休部した部活には、腕の完治と共に復帰したが、すぐにオメガに覚醒してしまいまた休部、今も喘息で休んだままだ。
足が遠のくのはもう歓迎されない身である事と、体力低下が著しく、皆に付いて行くのがもうできないとわかっているからだ。
もしかしたら、オメガに身体が変わったせいで、筋肉量もどんどん落ちていくのかもしれない。オメガの男性は小柄で細身が多く、中性的で綺麗な容姿を持つ者が多く、スポーツ男子のイメージがない。
もし復帰したとしても、筋肉量の低下でシュート勘も落ち、前のように打てなくなっているかもしれない。シューターだった出雲からそれがなくなったら、もう自分に価値を見出せない。そう思うともう退部した方がスッキリするのかもしれないとネチネチ考える。
今までやって来た経験が全部無駄になってしまうのか──その喪失感に耐えられるだろうか。
土曜日、八雲に連絡をしないまま家族で食事の日を迎えてしまった。どうせ会うんだし、会ってしまえば自分達はすぐ元通りになる、とどこか楽観視していた。
半日の授業が終わり、約束の時間までどうつぶそうか考えながら教室を出ると、ポンと後ろから肩を叩かれた。静樹だった。
「出雲、時間あんならメシ食うのつき合わね?」
ポケットに手を突っ込んで立つ静樹は隠し切れないアルファのオーラがあって、やはり目を惹き、女子達がアイドルを見るような視線を向けている。
「あれ? 部活は?」
「女バスがS女呼んで練習試合やるから俺ら体育館使えねーの。だから男バスは休み」
「へーえ、ラッキーじゃん。男子は練習試合組んでくんなかったんだ?」
「呼んでくれる学校が上手い具合にいなかったらしい」
「珍し。いいよ、つき合う。俺も時間持て余してたからさ」
「学食は混んでるから売店で買って部室で食わねえ?」
そう言って静樹はポケットから鍵を取り出す。
「出た、なぜかあるスペアキー」
先輩から受け継がれる伝統のスペアキー。部室の鍵は職員室で管理されており、部活外で持ち出しはできない。いつぞやのOBが顧問に内緒で作ったもので、絶対にバレないようキャプテンに受け継がれていた。
売店で余っていた弁当やおにぎりを買って部室に入ると、スポーツ男子の汗と体臭の入り混じった臭いが充満していて、二人は「クセェ」と声を揃えた。
「何でバスケ部は女子マネ入れてくんねーんだろうな。サッカー部とか野球部とかずりぃよなぁ」
窓を開けながら静樹がボヤく。
顧問の主義なのか、男子バスケットボール部は女子マネを取らない。部員がマネと主務を兼任しているのだ。
ユニフォームの管理やドリンクとプロテイン飲用の準備など、きめ細やかな対応のできる女子がいれば万事オッケーなのに、男子がやるから部室は散らかっているし、プロテインの粉はばら撒かれたままだし、備品はすぐ行方不明になる。服も誰が誰のだかすぐ分からなくなるし、ネクタイや靴下の紛失も日常茶飯事だ。
それでも頑なに顧問が女子マネを取らないのは、男子校出身で自分達で管理していた経験上、妬んで取らないのだと面白おかしく囁かれている。
でも今は一番の理由がある。
「取ったら取ったでおまえ目当ての女子ばっか来るじゃん」
「あーそれはメンドイわ。この環境を改善できる綺麗好きで働き者の野郎いねーのかよ」
ぶつぶつ言って壁沿いに置かれている長ベンチに並んで座り、ボコボコに穴のあく年季の入った机に買って来た弁当を広げる。
静樹と二人きりで会うのはあの日以来だ。夏休みの終わり、出雲がヒートを起こしたあの駐車場から。
二学期に入り、学校もオンラインで授業を受ける日が続き、部活はもう幽霊部員と化した。
校舎の違う特進クラスの静樹と会うことはほとんどなかったし、ラインも密に送り合う仲でもなかったので触れないままでいた。
「出雲と一緒にメシ食うの久しぶりだな。二学期になってからも休みがちだったろ? ヒート不安定なのか?」
「違う、喘息の方。子供の時のぶり返しちまった」
ははは、とから笑うと静樹は真顔になって出雲を見ていた。
「おまえオメガだったんだな。何でベータって隠してた?」
「隠してたわけじゃねえよ、ずっと未確定だったの。んで誕生日に初ヒート来たってワケ」
重くならないよう努めて軽く言ったのに、静樹は身構え探るような目で出雲を見ていた。
「体調不良はそれか……だから終業式も合宿も来れなかったのか」
「そそ、あれ以降ヒートは落ち着いたんだけど、今度は喘息でさあ、たまらんわ。静樹、ちゃんとお礼言えてなかったけど、あの時はありがとうな。おまえが隔離してくれなかったら、ヒートの連鎖で大変なことになってた」
ずっと直接お礼が言いたかった。けれど言えず今日まで来てしまった。
「そんなの当然のことだからいいよ。俺こそおまえらにひでーこと言っちまって……ごめん。俺もずっと謝りたかった」
「え? ひでーことなんか言われたっけ、俺」
「無神経だった……おまえら兄弟のこと知らなかったから……マジごめん」
「あー、あの時俺朦朧としてたから……そっか、キモい思いさせて悪い」
「違う、そんなんじゃねえ。兄弟間でフェロモンが有効になるって知らなかった俺が無知だったせいだ。稀にある症例なんだってな、あの後すげえ調べた」
静樹に蔑みや拒絶の気配はなく、心のどこかでホッとした。
「何でお前は平気だった?」
あの時、俺は効かない安心しろと言っていた。アルファなのにフェロモンの匂いがしなかった。今までも静樹から感じたことは一度もなかった。
「あー……そうだよな、俺も教えなきゃフェアじゃねーよな」
すでに一つ目の弁当を食べ終えた静樹は、二つ目を手に取りつつも、箸を動かさなかった。
「俺、番持ちなの……だから番のフェロモンしかわかんねーし反応しねーんだよ」
どこか重苦しく、静樹は声を潜ませた。まるで禁忌のように厳重に重石を付けて。
オメガは番契約をすると番のアルファにしかフェロモンを発しなくなる。アルファは番のオメガフェロモンをより強力にあてられるようになるため、他のオメガフェロモンに対して耐性が付き、抑制剤を飲んでいればほぼブロックしてしまえる。オメガのが多い学校で、事故が起こらない理由はそれなのだと気づく。
「だからか。お前こそ何で黙ってたんだよ。相手は? この学校じゃあないよな」
「あー幼馴染。元同級生。俺ら事故で番になったから色々あって……お前の弟──有泉とはそいつ絡みでちょっとあってさ」
「やっぱりあったんだ?」
「ナンも聞いてねえ?」
「うん……ヒートの事故のことしか」
「そっか……」
口をつぐむと静樹はペットボトルの水をグビグビと豪快に飲み干してから、ふぅっと一息ついた。
「俺の番、綾織って言うんだけど、中三の冬に突然発情したんだ。それまでお前と同じ、性別は未確定でアルファだろうって言われてた」
「俺はベータって言われてたけどな」
自虐って言うと静樹は少しだけ表情を崩した。
「綾織はさ、有泉と一年からずっと同じクラスで席も前後、同じバスケ部でさ、気づいたら二人は親友になってた。俺は綾織ともっと小さい頃、幼稚園から一緒で、なのに中学入ってからは俺だけいつも遠いクラスでさ、呪われてんのかと思った」
ただ一点を見つめ、静樹は記憶を辿る。
「俺はずっとあいつのことが好きだった。子供の頃から本能的に惹かれてたんだ。だから有泉とどんどん仲良くなっていくあいつを見てるのが堪らなく嫌で、俺は有泉に対して敵対心ガツガツに持ってた」
八雲は特定の友達の話をすることは一度もなかったので、その存在がいたことに出雲は内心モヤる。
「三年の冬、綾織がオメガに覚醒したんだ。Tシャツ脱いだ有泉の上裸見て、ブワッと嵐のようにオメガフェロモンが充満した」
「突然?」
「そう、部室で着替えてる時に。俺とあいつと有泉と三人しかいなかった」
次第に暗くなる横顔。静樹は当時を思い出しているのか、苦々しそうに口元を歪めた。
「抑制剤なんか飲んでない状態でフェロモン浴びてさ、俺も有泉もぐらんぐらんでラットを起こしてた。綾織はそんな状態で有泉に助けを求めたんだよ。俺じゃなく、小さい頃からずっと一緒だった俺じゃなくて、有泉に縋るのを見てマジショックだった。なのに有泉は、苦しい、助けてって懇願する綾織を、化け物を見るみたいにさ、臭い寄るなって突き飛ばしたんだ。全身汗吹き出して苦しいくせに、必死にお前を呼んでた。出雲って喉振り絞って理性と本能で戦ってた。出雲しか駄目なんだってね」
中三の冬──覚えている。
家で受験勉強をしていた時、八雲が必死に呼んでいた。心臓がバクバク大きく脈打って汗が止まらなくなり、湧いて出てくる性欲に翻弄された。
あれはそういう事だったのか──多分八雲にとって初めてのラット。
「俺は有泉に縋ったのを見た瞬間目の前が真っ赤になってさ、突き飛ばされた綾織を掴んで噛んでた。一回だけじゃない何度も噛んだ。俺のだ、俺のだって頭のネジぶッ飛ばして噛んでた。直ぐにオメガフェロモンの探知機が作動したから先生が駆け付けて、俺達は救急車で運ばれたけど、綾織はその後登校できなくてさ、結局転校した。俺は親に無理矢理留学に放り込まれて、半年間綾織と連絡すら取らせてもらえなかった」
「事故の後一度も?!」
「ああ。卒業式も出ないで、帰国したのはここに入学する一週間前だった」
半年もの間、会えず話し合うこともできず、それがどれだけつらいことなのかわかる。
「俺はずっとあいつが好きだった……心の奥底で綾織がオメガって分かってた。だからヒートを起こした時、有泉に縋ったのがショックでさ……何で俺じゃねーんだって嫉妬でブチギレてた。綾織は有泉に恋愛感情を持ったことは一度もねえって否定するけど、あいつ見て覚醒したってことはさ、あの二人は運命の相手なんじゃねーかって……それがさ、ずっと頭の中でこびりついてて、自分の中で消化しきれねーんだ」
遠くを見つめる静樹の瞳には悔しさだとか切なさが見て取れ、彼がどれだけ苦しんできたのかわかる。
「この高校に来ておまえの名前を見て直ぐにピンときた。あの時有泉が呼んでたのはおまえだって。あの状況で呼ぶって一体どういう兄弟なんだろうって興味持った。バスケの試合会場でも有泉を何度も見たよ」
「うん、知ってる。あいつ中学の時から観に来てたらしい」
「有泉にとって出雲が特別な存在なんだってのはわかった。そんな出雲から事故の後アルファの匂いがしてさ、あいつの存在を強烈に意識させられた。出雲を使って俺から運命の相手を取戻しにきたんじゃねーかって危機を覚えた。兄弟でなにか企んでんのか疑心暗鬼になって、だから牽制もかけておまえに俺の匂いをつけたんだ」
「おまえ俺に匂いつけてたの?」
「ごめんな。あの時は必死だった」
そう言って静樹はワンコの両頬をあやす動作をして見せた。
「だからおまえ達あんなに険悪なんだ」
「アルファの執着心はおまえも想像つかねーほど強えーんだよ。何にでも嫉妬するし、それこそそこら辺の草にでも嫉妬する。全部が全部自分のものでないと気が済まねーから、誰かの影があれば徹底的に排除する。手に入れたら独占してとことん束縛する、それがアルファの本質。怖い?」
「ちょっとドン引き」
冗談交じりに答えたが、チラと見たその瞳に獰猛な鋭い光りがチラチラ灯っているのが見えた。いつもとは違う静樹の瞳。八雲にも見た支配するものの顔だ。これがアルファなんだろう。
「有泉は俺が意図的に出雲に近づいたと思ってんだろうな。ホント偶然なんだけど。あいつはあいつで、綾織をオメガに覚醒させた恨みを、出雲にされんじゃねーかって警戒してたんだな。あの時みたいに俺に噛まれねーようにさ」
あいつは信用できない、八雲は確かに言っていた。
「自分以外のアルファが近くにいるんだせ……しかもおまえまだ覚醒してなかったんだろ? 耐えられねーよ。本能で自分のモン取られねーよう必死になってんだからさ、笑うわ」
喉の奥で笑いながら手で口を覆う、けれど堪える気のない意地の悪い笑み。学年唯一のアルファで、女子からの視線を独り占めしている静樹の、こんな陰険で人間臭い面を初めて見た。
「だから八雲は俺にマーキングしてたのか、お前警戒して」
「そ、これがアルファの執着ってヤツ。厄介だよな……今は番として将来を誓いあってるけど、どうしても有泉が運命の相手なんじゃないかってモヤモヤが取れなくて、あいつらが親友だった過去すら嫉妬してんだからさ。親公認になって独占してもまだ足んねーの、どこまでもキリがないんだ。沼だよ沼……好きって思いには底がないんだ」
頭を抱え切なげに目を伏せる静樹が、まるで初めて恋を知った子供のようだ。校内を歩いているだけで熱い視線を向けられ、アプローチされてもサラリとかわし、隙のない態度だった男が──恋に悩んで色んな顔を見せている。
そんな顔友達に見せちゃいけないだろう、番だけに見せないと。
「八雲の運命の相手は綾織くんじゃないよ」
そう告げると静樹はぐしゃりと整った顔を崩し、泣く寸前のような目をした。
「ずっと──暗い樹海の中を彷徨ってる気分だった。あいつが好きすぎて好きすぎて、怖かった。いつか有泉に攫われてくんじゃねーかって。いくら綾織の気持ちが俺にあっても、運命の相手が目の前に現れたら本能には逆らえないんじゃねえかって。ずっと信じてやれなかった……あー俺すげえダセーな」
長い間悩み苦しんだ思いが昇華されたかのように、静樹は泣き笑うような顔を見せた。
「それだけ番が好きな静樹って新鮮……すげえ。モテまくってるおまえが骨抜きにされてるなんてさ。そっか、そーだったのか。静樹は堂々とした完璧な男だと思ってたのに可愛いとこあるんだな」
「うるせえ、いいだろ」
どこか不貞腐れた口調で静樹は唇を尖らす。番の事になれば、この男はこんなにも子供っぽい仕草をするのだ。
「でもさあ、綾織くんの退学は仕方なかったかもだけど、何で静樹まであの学校出たん? せっかく受験して入ったのにもったいなくね?」
「アイツがいなくなったら俺にはもういる意味なくてさ……ただ勉強だけしてる学校生活に意義なんて見出せねーし。だから留学中転校するって親に勝手に決められたけど、それはそれでよかったんだ。受験してねーのになんでここに入れたのか謎だったけど、アルファは番持ちって条件クリアしてれば無試験で入れんだぜ、ここ」
「マジかよ、俺は必死に勉強して入ったのにさ。それこそ綾織くんと同じ学校追っかけなかったんだ?」
「綾織と会えるようになったのは随分後だったし。アイツ、学校でヒート起こしたのトラウマってて、通信制の高校入ってたの。ネットで授業受けられるやつ。クラスメイトはネット上で交流してさ、あれはあれで面白い学校だわ」
でも元は開誠出身だ。中学受験を突破してきたのだから相当な頭脳なんだろう。きっとそこから東大を目指すはず、静樹と一緒に。
「結局のところ、綾織くんは静樹のことが好きだったの?」
「まあな。覚醒した時有泉に縋ったのは、俺に縋って拒絶されるのが怖かったんだと。オメガになった自分は嫌われるかもしれない、嫌われたくないって心理が働いたとか、俺にはよくわかんねー心理だけどよ」
耳だけを薄っすらと赤く染めて、静樹はもごもごと言いずらそうに口にした。
番となり、心から結び合ったアルファとオメガ。誰からも祝福され、きっと一生幸せに歩んで行くんだろう。
「そっか、ラブラブで羨ましい。だからおまえからフェロモンの匂いしなかったんだな。ずっと不思議だった」
「ん? アルファはそうそうフェロモンなんか出ねーよ。オメガのフェロモンにあてられた時くれーしか」
「へ? 八雲は俺に触られただけでフェロモン出てたぜ」
「発情してねーのに?」
「うん、覚醒する前からだった」
驚いたのか静樹は目を見張った。
「凄げえなおまえらって。番でもねーのにその状態ってよく平然としてられんな」
静樹の言葉に認識の違いをしていたのに気づいてカーっと顔が赤くなる。
アルファは常にフェロモンをまとっているのだと思っていた。いつも八雲はフェロモンのいい匂いをさせていたから。
「ま、覚醒前から、おまえの中で眠ってたオメガ性に反応してたんだろうな」
察したのか静樹は深くは追求しなかった。どうせもうバレている、自分達の関係は。
「俺らのこと軽蔑する? 俺の身体がまだ不安定だからってさ、兄弟でセックスしてんだぜ? 気持ちわりーだろ、こんなん親にだって言えねーよ」
「馬鹿言うな、軽蔑してたら今こんな風にダチしてねーよ」
頼りなく声を弱らせる出雲に、静樹は堂々と言い放つ。アルファの自信に満ちた声音は、心を少しだけ解いた。
「俺の喘息もさ、今八雲と離れてるから起きてんだぜ……あり得なくねえ? 番になればヒートも体調も安定するなんてさ……俺、あいついないと全然ダメじゃん」
「それがお前の本当の気持ちじゃんか。体調に現れるほど有泉が必要なのに何で離れてんの」
直視できず視線を落とす。ぐちゃぐちゃに丸めたパンの袋をぎゅっと握って力を込める。
「怖かったんだ──番になるの。俺達は兄弟なのにさ、お互いしか見えてなくてさ、狂ってるじゃん。動物みてーで。親にも怖くて言えねーのに本能に従っていーんかって、もう頭と身体がバラバラでさ」
「バーカ、感情に理屈なんて通用しねえよ、本能捻じ曲げて拒絶しても抗えない、それが感情なんだよ。アルファの独占欲とか執着のがよっぽど狂ってるぜ?」
動物的な本能と人間の持つ繊細な感情。一度芽生えてしまった感情は、本能より厄介だ。抑え込んでもあふれ出す、八雲だけにこの身体全てを支配して欲しいと願う、この狂おしい想いは決して消えない。
「俺も──ずっと執着してる。あいつだけだもん……子供の頃から八雲は俺の全てだから……」
「他人は理由がなきゃ一緒にいられねーけど、お前達は兄弟じゃん、理由なんてなくたってずっと一緒にいられる、壊れようがない絆があるじゃんか」
真摯な静樹の言葉がスーッと身体の中に浸透していく。あんなにも怖くて入っていかなかった言葉が、今はクリーンになって気持ちがいいくらい通っていく。
「何で俺の周りのアルファって物わかりのいい奴ばかりなんだろうな、引かれるかと思ったのに」
静樹も貴文も決して否定しない。出雲と八雲の関係を。
「オメガの生命を脅かすほどなんだから、俺が医者でも番になれって言うわ」
「静樹医者志望じゃないじゃん」
「これはアルファじゃねーとわかんねーかもな。オメガがどんだけ特別な存在かさ」
「うん、わかんねえ。けど……俺達は生まれた時から運命だったんだと思う。だから綾織くんの運命は八雲じゃないよ。綾織くんが覚醒する前からオメガってわかってた静樹のがよっぽど運命じゃん。なに悩んでんだよ」
「うん、サンキュな。どう見ても有泉の運命の相手は出雲で、綾織は俺の運命だ。この学校に来て出雲に出会えたのも、偶然じゃなくて必然だったのかもな」
自信に満ちた静樹の表情。それはキラキラとしたアルファの輝きだ。
「正しい筋道に神様が整えてくれたんだろ」
出雲が階段から落ち、八雲が助け、祐作が手術し、眞知が駆け付け、家族四人が揃った。あの時祐作は、これは偶然ではなく必然で、神様が家族を集める機会を作ってくれたのだと言っていた。
自分もそう思う。出雲と静樹の出会いは必然で、この番を正しい道へといざなうために必要だったんだろう。
「綾織が覚醒した時──有泉はおまえを必死に呼んでたよ。この前おまえが有泉を呼んでたのと全く同じだった。正直、俺はおまえらを羨ましいって思うよ。それだけの強い結びつきを見せられたらね」
「うん……双子だから色々あんだよ、俺ら」
シンクロニシティ、心の繋がり。誰も知らない二人だけの秘密。
「はは、なんだよそれ。けどさ、部活復帰するためにもさ、さっさと番になって喘息落ち着かせろよ。まぁ、あいつがそんなのんびりしてるとは思わねーけど。アルファの執着心なめんなよ? 病的で粘着質だし、そう簡単に離れるわけねえから」
自信たっぷりに静樹は腕を組んだ。いつもなら、クシャっと髪を混ぜ犬扱いする癖にしなかった。
「アルファって怖えーんだな」
出雲がオメガに生まれたことが必然ならば、正しい筋道へ神様は導いてくれるはず。
静樹と話せてよかったと思う。誰をも魅了する容姿を持ち、社会的にも圧倒的優位なアルファでも、こんなにも人間味があって感情深い。
「俺さ……部活戻ってもいーの?」
「ん? 当たり前だろ、事故や病気が重なって休部してただけなんだし。回復したらすぐ復帰しろよ、待ってるからさ」
「オメガだし前の俺とは違うかもしんねーよ……」
「おい、わかってんだろ」
「はい、ごめんなさい。キャプテン」
強く咎められ、しゅんとする出雲に、静樹はキャプテンの顔になる。
わかってるのにそんな卑屈を言ってしまうくらい、一歩を踏み出すのに躊躇する。
退部を望まれている先輩、それが今の自分だ。
いつだって最初の一歩を踏み出すのは怖い。逆風の目に耐えられるのか自信がない。
「確かに今の出雲じゃもうAチーム(一軍)には入れらんねーよ。でもそこで腐らずに這い上がってこいよ。レギュラー落ちでやる気失くして辞めてった奴は所詮バスケへの気持ちなんてそんなモンだろ。格落ちした自分が嫌か? Bチーム(二軍)で練習する自分は恥ずかしい? 努力もしねー奴はうちのチームにはいらねーよ?」
厳しいキャプテンの言葉だった。ミニバスからやってきたプライドと、スタメンだった頃の自分が邪魔をする。
なりふり構わずに、人の目など振り切って、自分のために努力をしないといけないのだ。きっと自分はこれから先、オメガだという性のために、偏見や理不尽な思いをすることもあるだろう。それは生きている間ずっと。
こんなオメガになりたてホヤホヤで、もう逃げていたら、この先どうやって生きて行けばいいんだ。しょっぱなから躓いたら、多分一生踏み出せないまま腐っていくしかない。
「悪い……ちょっとオメガみたいなこと言ってみたかっただけ」
「そーゆう弱音は有泉に言えって。アルファは単純だから、デレデレになってめっちゃウザくなるから」
「サンプルは静樹ね。メモっとくわ」
プッと笑い合う。
職員会議が始まると先生を呼ぶアナウンスが流れ、時計を見る。二時か。随分と長く話し込んでしまった。
ゴミをまとめ二人は重い腰をようやく上げた。
ふと、声が聞こえた気がして出雲は窓に寄る。空を仰ぎ、耳を澄ました。
──出雲。
聞こえる、何度も呼んでいる。
刹那、ドクリ、と出雲の身体を揺るがす大きな衝撃が襲った。
同時に脳髄をつんざく不快音。頭が割れそうだった。身体がスーッと落ちて行く貧血のようなすくみを覚え、その場に崩れ落ちた。
「八雲──」
その名が震える口から零れる。
「どうした」
突然の事に驚いた静樹が蹲る出雲の顔を覗く。
「八雲が」
苦しい、胸が押しつぶされそうで言葉が出ない。胸を押さえているはずの右腕が、心臓を持ったようにドクドクと脈打ち、感覚がなくなっていく。まるであの時のように──階段から落ちたあの時のような身体の衝撃とショック。
その時、青い空に割れ散ったガラスの破片がキラキラと舞っているのが見えた。いや、見えたんじゃない、映し出されたのだ。それらがモンタージュとなって脳裏に写っては消える。
無音の中でザーっと砂が零れるような音だけが出雲には聴こえていた。雑音の中で周波の合わない何かがぶれては途絶える。その一つ一つに耳を澄ますが、頭がガンガン響き邪魔をする。
「出雲、どうした! 出雲っ」
頭を抱えて丸まる出雲を静樹が揺さぶる。
ここに──……
八雲が呼んでいる。
八雲のいる所へ来いと呼んでいる。
まるで意識が吸い寄せられるようにその声だけを追う。
いつも呼ぶのは出雲の方だった。喘息で苦しい時も、駅ですれ違う時も、そしてヒートで狂おしい時も。いつもいつも八雲を呼んでいた。
そしてそれに八雲は応えて来たのだ。
けれど今、八雲が出雲を呼んでいる──
階段から落ちたあの時。ずっと深い所で眠っていた。
最初は小さな声だった。それが段々大きくなっていって、脳のずうっと向こうから途切れもなく呼び続けるから、仕方なくなって目を開けたんだった。
ずっと八雲がいる事を知っていた。
駅の乗換で八雲が近くにいるってずっと分かっていた。いつ自分達は出会うのだろう、その時はいつなんだろうとずっと待っていた。
この歳になっても子供の頃と変わらず八雲を求めている事が恥ずかしくて、自分から行動に出る事が出来なかった。
本当は八雲に会いたくて、ずっとずっとたまらなかった──
誰かの話し声が聞こえ、目を覚ますと保健室のベッドに寝ていた。
弾かれたように時計を見る。針は三時を回っていた。今日は土曜で午前授業、終了後静樹と部室で昼を食べていた。
咄嗟脳裏に映ったガラスの破片に飛び起きる。胸がバクバクする、ここにいる場合じゃない、八雲の所に行かなくては。
「有泉君?」
カーテンで囲われた向こうから保険医が声を掛ける。それを無視してベッドから降り、カーテンから飛び出した。
「おっと! 出雲大丈夫か?」
保険医と話していたのだろう静樹とぶつかり、腕を取られる。
「八雲が──八雲の所へ行かないと──」
掴まれた腕を振り切って廊下を駆け出そうとする出雲を静樹は抑え込んだ。
「待て、落ち着け。出雲? 有泉がどうしたんだ?」
小さな子供にやるように、向かい合わせて目線を同じにする静樹を正視できない。動揺で焦点が定まらず、あっちこっちと視線を彷徨わし、頭の中は八雲でいっぱいだった。
「わかんねー、わかんねーんだよ!」
保険医が静樹の後ろで驚いている。さっきまで気を失ったように眠っていた出雲が突然喚いているのだから。
涙がボロボロ流れて来た。気管支がひゅうひゅうと音を立てる。感情が高ぶってしまって何が何だかわからない。
「出雲、有泉に何かあったのか?」
八雲は病院にいる。父の勤める病院に──あの時と同じように裕作が八雲を診ている。だから無事だ。
涙で顔がぐちゃぐちゃだ。呼吸がゼエゼエし鼻水まで垂れてくる。
心臓が痛い、心も痛い。どこもかしこも痛い。ずるずると崩れる出雲を静樹が支える。
八雲がいないと一人で立っていられない。もう一人の自分、魂の片割れ。自分達は二人で一つなんだから、離れ離れになっちゃいけないんだ。
出雲が求めて八雲が与える。オメガとアルファなのは不完全な二人を一つにさせる為の手段。だから一緒にいなくちゃいけない、神様からの命令だ。
もう逆らわなくたっていい。兄弟だからとか知らない振りをして、本能に身を任せていればいい。それが二人の運命なんだ。
「先生、こいつの家病院なんで、俺が責任もって連れて帰ります。じゃ、失礼しました」
崩れる出雲を支えながら、静樹が冷静に告げると、保険医は慌てて首を振った。
「待って、君が番持ちでもこの子を任せる事は出来ないわ」
「あー……その心配はいらないです。こいつも同じようなモンだから、間違いなんて起きようがないんで」
静樹と保険医の会話をどこか遠くで聞いている感覚だった。静樹の腕から逃れた身体はふらふらと勝手に動いて、昇降口に向かっていた。
モンタージュのように映し出された断片を一つ一つ思い出す。
見慣れた景色、街路樹の並ぶ歩道。あのコンビニはどこだ? 横に小さなカフェとベーカリー、向かいには横断歩道、その先に駅がある。あれはいつも二人で使っていた駅だ。
出雲が怪我をしてから四ヶ月の間、二人で住んでいたあのマンションのある駅だ。なぜあそこにいた? 八雲は貴文に言われ、有泉の家に戻っていたはず。まさか一人であのマンションにいたのか?
ゼエゼエと呼吸を繰り返しながら独り言を呟く出雲の声を聞き取り、静樹が黙って覗き込む。
「おまえ喘息出てねーか?」
「すぐ、落ち着く」
荷物も取りに戻らず、靴を履き替え学校を出て行く出雲を静樹は追いかける。
出雲はポケットから吸入器を取るとスッと薬を吸い込んだ。
「おまえは今どこに行こうとしてんだよ、教えろ出雲」
「お父さんの病院、八雲が、そこにいる……」
また涙がボタボタと落ち、静樹がハンカチで出雲の顔を押さえる。薬を吸い込んでも気管支からはまだひゅうっと音が鳴った。
どう見ても精神的に普通ではない出雲を、静樹は問い詰めることなく、言葉を逃がさぬよう細心の注意を向けている。
「おい、その状態で電車乗る気かよ」
真っ赤な目から涙を落としながら歩く出雲に静樹が問うが、返事ができない。まるで何かに憑かれたかのように、出雲の足はふらふらと駅までの道を辿って行く。
「クッソ、わかった、いい。俺がタクシー拾ってやる」
大きな通りに出ると空車のタクシーが見えて静樹が手を上げた。行き先は以前出雲が入院していた医療センター。祐作の勤める場所だ。
行き先を告げシートに座り、もう一度吸入器を取り吸い込む。気管支が開かれ、すうっと空気が流れて行き、ようやく呼吸が楽になった。
「医療センターだと、昼過ぎに南町駅前で自動車事故があったせいで、道が封鎖されてるんですよ。迂回して行くけどいいかな?」
人の好さそうな年配の運転手が二人を振り返って伝える。
「いいっすよ」
答えると静樹はすぐさまスマホを取り出した。
「午後二時頃、南町駅前のコンビニに八十代男性の運転する乗用車が突っ込み、複数の負傷者──これか、出雲!」
「八雲は大丈夫……死んでない。俺と同じ……腕をやってるだけだ」
「あの時間──部室から出ようとした時、お前が突然倒れた──」
静樹が信じられないと、目を見開く。現実を受け入れるためか出雲を凝視してから震える口を開いた。
「な……んで、わかるんだよ」
「何でだろうな……でもこれが俺達なんだよ──おかしいだろ」
自分の右腕をまくる。既に完治し傷跡が残るだけだった皮膚は、まるで何かにぶつけてしまったかのように赤く腫れていた。
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