64 / 209

第8話-5 泊まっていきなよ

その日の夜は、そそくさと家に帰った。 春が家に来てくれる日だったからだ。 春はいつものように現れ、
ニコリと微笑んで「ご馳走になります」とアイスの入った袋を手渡した。 いつものように一緒に秋が作った夕飯を食べ、アイスを食べる。 すると、ワンマンのことで秋のスタッフから連絡が入り、
ごめん!ちょっと電話してくる、と、秋はアパートの外へ出た。 アパートの前を行ったり来たりしながらスタッフとしばらく話し込んだあと、
20分ほどでアパートの部屋に戻る。 「ごめん長くなっちゃった」と、玄関から声をかけてリビングのドアを開けると、春がソファにもたれかかったまま、うとうととしていた。
 わ、寝てる…と、数ヶ月ぶりに見る春の寝顔を眺める秋。
「忙しい中来てくれたんだな」と、嬉しさが込み上げた。 実は今日は、何度か仕事で行けないと断られて、
やっと久しぶりに春がこの家に来てくれた日だった。 春の手元には台本があった。
秋が部屋を出ている間に読んでいたのだろう。
それを持ったまま寝ていることで、春の疲れ具合と忙しさが分かる。 そして、秋はその様子を見て、
やっぱり…と迷っていたワンマンへの誘いをしないことにする。 春はこれだけ忙しいし、
きっとそれでも秋の希望に応えようと、無理させてしまうんだろうし。 それに。 ワンマンで春を目の前にして春への曲を歌うと、きっと欲が出てしまうんだろう。また好きだと実感し、気持ちを強くしてしまう。 それはダメだ。 友達としてこうして会ってくれているのだから、それで満足しよう。 そうして、しばらく春の寝顔を眺めた後、何枚かこっそりと写真を撮った。 これくらいは、いいだろう。 友達同士ではあり得ることだ。 そう言い聞かせ、また春を起こそうと格闘する。も、春はなかなか起きない。 起こすのがかわいそうだな…とだんだん感じてきて、
秋は春にブランケットをふわりと掛けた。 春は静かに寝息を立て、すやすやと眠っている。 
あまりに気持ちよさそうに眠っているから、
秋はふふ、と思わず笑ってしまう。 そしてじっと、再びその寝顔を眺めた。 毛穴ひとつない綺麗な透き通った白いその肌は、まるで陶器のようだ。 秋の部屋の飾り気のない白色の照明でさえも、まるでそれは彼を照らすためのスポットライトのように作用していた。 目を閉じていても、秋はその奥にある春の瞳を思い出す。 春の瞳は蒼く深く澄んでいて、まるで静かな深い海のようだ。 その静かな水面を、秋は見つめるのが好きだった。 そうして、気づけば秋は、その手を伸ばしていた。 そっとその瞼に触れる。 親指の腹で、すーっと線を描くように撫でた。 春の瞳の湾曲に沿うように、そっと。 そうしてそのまま、頬にそっと触れた。 少しひんやりとしていて、なめらかで、信じられないほど静かなぬくもり。 まるで、触れてはいけない何かに触れてしまったような、けれどそれでもその手を離したくないという衝動が、秋の胸の奥で密かに鼓動していた。 すると、春が突然ん…と声をあげ、秋はびくっ!として咄嗟に手を離す。 が、春はかけられたブランケットを顔まで引き上げ、
また眠りについた。 秋の心臓は飛び出そうな程、激しく振動していた。 "友達"は、こんなことしない。 秋は激しい罪悪感に苛まれていた。 そして逃げるように立ち上がり、秋は部屋の隅にあるデスクへ腰をかけた。 まだ心臓はうるさく鳴いている。 それを掻き消すように、秋はパソコンを立ち上げる。 だめだ、だめ、だめ。 そう心で何度も呟き、浮かんだ衝動を振り払うように、ワンマンのための準備、楽曲の仕上げに取り掛かった。

ともだちにシェアしよう!