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「一二三様、本日は予定ですが……」
「……」
「……あの、一二三様?」
「え? あぁ、すまない……。何だったかな」
「本日は予定が詰まっておりますので、お早くお支度をお願い致します」
「あ、あぁ。そうだったね……。すまない」
「いえ……」
総一郎の部屋を出てからと言うもの。総一郎とのキスが片時も頭を離れず、気が付けば思い出しては妄想に耽ってしまっている。あのキスを思い出すと身体が熱くなってしまう。
このままではいけないと思いながらも、ずっと心ここにあらずで、仕事もままならない。今もそうだ。秘書に声を掛けられるまで気が付かないなんて、本当にどうかしている。
昨夜の唇の感触をどうしても思い出してしまって、どうにも心が落ち着かない。
知らなかった。キスがあんなにもドキドキして、気持ちがいいものだったなんて。
「……一二三様。大変言いにくいのですが……件のご令嬢とは何処まで進まれ
たのですか?」
「ん? 何処……って?」
苦虫を噛みつぶしたような渋い顔で風見に訊ねられ、一二三は不思議そうに首を傾げた。
「どこも何も、此処は大海原の真っただ中だぞ。何処かに行けるわけがないだろう」
「いえ……、そう言う事ではなくてですね……」
「なんだ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃないか」
「……キスはもう、済まされたのですか?」
「っ、な……ッ」
下世話な質問に思わず絶句して、顔が熱を帯びていく。
「あぁ、何と羨ましい……! 私の一二三様の唇が、そんな淫らな事になっていたなんて……! 風見は悲しくて涙が止まりませんっ」
「淫らとは何だ! へ、変な想像をするなバカッ!」
眼鏡を外して涙を拭うふりをする風見に、真っ赤な顔で怒鳴る。大体、何を想像しているのかは知らないが、キス以上の事なんて……。
「ほ、ほらっ! おかしなことを言っていないで行くぞ!」
なんだか居た堪れなくて廊下をズンズンと進んでいくと、掃除道具用のカートを押して歩いている総一郎の姿を見付け思わず足を止めた。
ふと、目が合ってドキッと心臓が跳ねあがる。
「一二三様。待ってください……っと、どうかされましたか?」
「いや。……何でもない」
咄嗟に視線を逸らした。総一郎との関係は二人だけの秘密。普段の生活ではそ知らぬふりをする。そう約束したのは一二三自身だ。
頭ではわかっているのに、フッと微かに笑われて昨日のキスの事を思い出してしまい、ブワッと体温が上がった気がした。
「……っ、行くぞ!」
「は、はい」
熱を冷ますように早足で歩くと、その後を追って風見が必死に追いかけて来る。
風見に悟られてはいけない。コイツは人をよく見ているから、いつどこでボロが出るかわからない。
実は父親よりも風見の方が余程厄介だと一二三は思っている。風見は総一郎の事など眼中にも無いらしい。
「風見、今日の相手は誰だ?」
「本日は例のリゾート開発の件で神崎様との会合です」
「あぁ、あいつか」
脳裏に浮かんだのは、父親が懇意にしている確か50代半ばの脂ぎった小太りな男。
金に汚く、常に自分の事ばかりを優先に考えており、他人の意見など聞きもしない。
今回だって本来なら父と二人きりですればいい話の筈だ。海沿いの街一つ潰してリゾート地を立てるという計画らしいが自分には関係が無いしあまり興味のない事柄だった。
気は進まないが、父のお気に入りの重役相手に緩んだ顔は見せられない。 一二三は入り口の前で深呼吸をすると気を引き締め直して宛がわれた部屋に入っていった。
「一二三君。キミにも遂に彼女が出来たんだって? お父上から聞いたよ」
「ハハッ、耳が早いですね。神崎専務」
中に入るなり、聞こえて来た第一声がこれだ。 でっぷりと脂ののった中年体型の神崎が馴れ馴れしく一二三の肩に腕を載せて身を寄せて来る。
父は一体どんな説明をしたのか、と内心苛立ちを覚えた一二三は心の中で舌打ちをする。
これがもし、職場の後輩や同僚なら問答無用で腕を捻りあげて叩き出すところだが、今日はそうもいかない。
脂ぎった汗まみれの手で触れられ、嫌悪感に肌が粟立った。それでも無下にはできない相手が目の前にいるのだ。
人懐っこい笑顔を浮かべてはいるが、正直に言えば一二三は神崎の事が苦手だった。――父と同じ匂いがする。
高圧的で、支配欲が強く、他人を自分の思い通りにコントロールしたがる人種。一緒に居るととても疲れる。
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