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第10話

「きゃあっ!」  リディア王女の悲鳴が大広間に響き渡った。  オレは人混みをかき分け、必死に声のした方へと向かう。人々が恐怖に包まれた表情で後ずさりし始め、徐々に視界が開けてきた。 「誰も近づくな! 動いたら王女様の命はないぞ!」  目の前の光景にオレは息を呑んだ。  貴族風の装いをした男が、リディア王女を背後から拘束するように掴んでいる。彼女の首元には、大型のナイフのような刃物が突きつけられていた。リディアの顔は青ざめ、小さな体が震えている。 「何をする気だ、ルークス!」 「どけ! 邪魔するな!」  貴族たちの悲鳴と怒号が飛び交い、パーティの華やかな雰囲気は一変した。音楽は止み、会場にはただ恐怖と緊張だけが充満している。 (ルークス? あの男の名前か……)  周囲の貴族たちが小声で交わす会話が耳に入ってくる。 「あれはルークス・ハインリヒだ……」 「中流貴族の出だが、最近家が没落したという噂だったが……」 「カイル王子との付き合いが深いらしいな」 「裏金を流していたことがバレて、地位が危うくなっていると聞いたぞ」  情報が頭の中を巡る。中流貴族で第二王子と親しい。最近は家が没落しかけている。つまり、藁にもすがる思いで何かを企んでいるってことか。 「皆さん下がってください!」  広間の入り口から、衛兵が駆けつけてくる気配がする。でも、彼らが到着するまでの間にルークスはリディアを連れてバルコニーの方へと後退し始めた。 「近づくな! 誰も近づくんじゃない!」  ルークスの声は少し震えている。奴の目的は何だ? バルコニーからだと庭に出られる。そして庭の先には王宮の裏手にある小さな森が広がっている。あそこまで行かれたら捜索が難しくなる。仲間がいるとしたら、もっと悪い状況になりかねない。 「おいお前、何をしてるんだ! 今すぐ王女様を離せ!」  宮殿騎士の一人が剣を抜いて前に出た。 (いや、待て! 王女様が拘束されてるってのに下手に挑発するなっての!)  オレは内心で叫んだ。案の定、ルークスは激昂し、ナイフをリディアの首元に強く押し当てた。 「黙れ! もう一歩でも近づけば、この子の首を掻き切るぞ!」  リディアの小さな悲鳴に、オレの胸が締め付けられる。くそっ、なんで誰も適切な対応ができない? 宮殿騎士たちは焦りの色を隠せず、互いに顔を見合わせるばかり。役立たずめ!  オレは急いで状況を見極めた。ルークスは剣の扱いに慣れていないようだ。手が震えている。刃物を持つ腕は力が入りすぎていて、長時間同じ姿勢を維持するのは難しいはずだ。それに、騎士たちに注意を向けていて、他からの危険には気づかないかもしれない。  チャンスは一度だけ。  オレは目の前のテーブルに置かれたワイングラスに手を伸ばし、ルークスとリディアのいる方向とは反対側の壁に向かって思い切り投げた。  ガシャーン!  予想通り、鋭い音にルークスは反射的に振り向いた。  その一瞬の隙に、オレは床を蹴って一気に距離を詰めた。 「おりゃっ!」  オレは右手でルークスの武器を持つ腕を掴み、そのまま天井に向かって押し上げた。左手ではリディアの体を引き寄せ、彼女をルークスの腕から引き離す。 「リディア様、こっちです!」  リディアは素早くルークスの腕から逃れ、周囲の貴族たちの方へと駆け寄った。 「てめえ!」  王女が逃げたことに気づいたルークスが、怒りに任せてオレに殴りかかってきた。ダイレクトに顔面を狙ってくる。アマチュアの典型的な攻撃だ。  オレは軽く身をひねって攻撃をかわし、ルークスの腕を掴んだまま、彼の勢いを利用して床に叩きつけた。 「ぐああっ!」  ルークスは床に倒れ、その勢いでナイフが手から離れた。オレはそれを蹴り飛ばし、彼の背中に膝を押し当てて動きを封じた。 「おとなしくしろ」  オレは冷静に告げた。  そして初めて、自分が何をしたか、どれだけの人の目に触れているかに気がついた。  広間には静寂が流れ、すべての視線がオレに注がれている。 (うわ……めっちゃ目立っちゃった……)  オレの頬が熱くなる。穴があったら入りたい気分だ。  ポツリ、ポツリと拍手が始まり、それがやがて大きな拍手へと変わっていった。周囲の貴族たちが立ち上がり、オレに拍手を送っている。 「よくやった、若者」 「見事な身のこなしだ!」 「あれは何者だ、宮殿騎士か?」  貴族たちの称賛の声が耳に届く。  その時、人混みをかき分けて駆けてきた二人の姿が見えた。レオン殿下とフリードリヒ殿下だ。二人とも少し息が上がっている。 「リディア! 大丈夫か?」  フリードリヒ殿下が真っ先に娘に駆け寄った。 「はい、お父様。セリルさんが助けてくれたの!」  レオン殿下はオレの方に歩み寄り、ルークスを抑えている様子を見てかすかに笑った。 「どうやら、我々が出る間もなくお前が片付けてしまったようだな」  駆けつけた騎士たちがルークスを取り押さえ、オレは立ち上がった。 「セリル・グランツ殿」  突然、フリードリヒ殿下が真正面からオレに向き直った。 「は、はい」  オレは慌てて直立不動の姿勢を取った。 「娘の命を救ってくれた恩は決して忘れません。深く感謝します」  そう言って、フリードリヒ殿下は頭を下げた。王子が礼を言う様子を見て、周囲の貴族たちがざわついている。 「い、いえ! そんな大げさな……当然のことをしただけです」  オレは慌てて答えた。王族に頭を下げられるなんて想定外すぎる。どう対応したらいいのかさっぱり分からなくて頭が真っ白になる。 「お父様、わたしもお礼を言いたいです」  リディア王女もオレに向かって丁寧にお辞儀をした。 「セリルさん、本当にありがとうございました。わたし、この御恩は一生忘れません」 「そ、それは大変光栄です……」  オレの顔は恥ずかしさで真っ赤になっていたはずだ。  ルークスは騎士たちに取り押さえられ、広間から連れ出されていった。彼が去ると、徐々に場の雰囲気が和らぎ始め、パーティの華やかさが少しずつ戻ってきた。  レオン殿下がオレの隣に立ち、小声で言った。 「……このパーティでお前を貴族たちにどう紹介しようか頭を悩ませていたが、すっかり会場全員の貴族に顔を覚えられてしまったようだな」  その珍しい軽口に、オレは驚いて彼を見つめた。レオン殿下の口元には、微かな笑みが浮かんでいる。 「えっ、あ、そうですね……」  なんだか照れくさい。周囲から聞こえてくる称賛の声が余計に恥ずかしさを倍増させる。  そのとき、楽団が新しい曲を奏で始めた。 「……ダンスの時間だな」  レオン殿下が言った。 「え、今あんなことがあったのに踊るの?」  オレは驚いて尋ねた。 「貴族たちにとっては、こういった場は形式が何よりも大切なのだ。事件があったとしても、予定されたダンスは行われる」  レオン殿下はいつもの冷静さで答えた。  そして、彼はオレの前に立ち、右手を差し出した。 「踊ろうか」 「オレと? ……レオン殿下、オレにダンスの教養があると思います?」  オレは慌てて言い訳をした。 「エドガーから習っただろう」  レオン殿下の言葉に、オレはぐうの音も出なかった。確かに、ここ最近のレッスンでエドガーからダンスも習っていたのだ。それも「婚約者として恥ずかしくない程度には覚えろ」と言われて、かなり厳しく。 「あ、その……まあ、少しは」  オレは観念して白状した。レオン殿下の口元が緩むのが見える。 「では、行こうか」  そう言って、彼はオレの手を取った。その手の温もりと、彼の瞳の真剣さに胸がドキリとする。  周囲の貴族たちの視線が注がれる中、レオン殿下はオレを広間の中央へと導いた。  最初は周囲の好奇の視線が気になって仕方なかった。でも、レオン殿下の確かな導きに身を任せるうちに、そんな不安も薄れていった。思ったより自然に体が動く。エドガーの特訓が身についているのか。  ダンスの途中、レオン殿下がオレの耳元で囁いた。 「──これでお前が私の婚約者であることは、皆の知るところとなった」  彼はそう言って、満足そうに微笑んだ。 (そうか……見せかけの婚約を周囲に知らせることができて満足なのか)  なんだか少し寂しい気持ちになった。  将来、レオン殿下の本当の婚約者になる人はどんな人なんだろう? きっとオレのようなごつい男ではなく、可愛らしい女性なんだろうな。そんな人とのダンスなら、俺とは違って絵になるお似合いの二人になるだろう。  そう考えると、なんだか胸がモヤモヤとしてきた。何でこんな気持ちになるんだろう? 「どうした?」  レオン殿下が尋ねた。オレの表情に何か出ていたのだろうか。 「いえ、何でもないです」  オレはいったん思考を停止させることにした。考えすぎても仕方ない。今のレオン殿下のパートナーはオレなんだ。だったら目の前の時間を楽しもう。 「つい最近まで騎士として剣を振るってたのに、今はこれだけの貴族たちの前で殿下とダンスしてるなんて。想像もしてなかったですよ」  オレはくすりと笑った。レオン殿下も珍しく表情を和らげた。 「私だってそうだ。婚約者とダンスするなど、想像もしていなかった」 「特にオレみたいな相手とは、ですよね」 「いや……」  レオン殿下は一瞬言葉を詰まらせ、オレの目をじっと見つめた。 「お前だからこそ、だ」  その意味を考える暇もなく、音楽が急に転調する。  レオン殿下はオレを優雅にくるりと回し、思考は霧のように消えた (……お前だからこそって、どういう意味だろう)  いつの間にか、周囲には他の貴族たちも集まってきていた。けれど、オレにはそんなことは遠い世界の出来事のように思えた。  オレはただこの瞬間、レオン殿下と踊ることだけが、この世界のすべてのように感じていた。

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