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第26話

夜、レオン殿下の執務室に向かうと、不思議なことに周囲には誰もいなかった。いつも執務室の前を行き来している使用人たちの姿が見当たらない。 (エドガーさんの仕業かな? やるな、あの人……)  深呼吸して、オレはノックをした。 「……誰だ」  中から聞こえる声は、いつものレオン殿下のものとは思えないほど力がなかった。  オレはゆっくりと扉を開けた。 「殿下……」  そこにいたのは、まるで別人のようなレオン殿下だった。  いつもの整った金髪は乱れ、顔色は悪く、目の下には疲労の色が濃い。机の上には積み上げられた書類の山。しかも、いつもなら整然と並べられているはずの書類が、机の上や床に乱雑に散らばっている。こんな散らかった机、レオン殿下の部屋では見たことがない。 「セリル……来てくれたのか」  レオン殿下の声には驚きが混じっていた。彼は立ち上がろうとしたが、少しよろめいた。 「殿下! 大丈夫ですか?」  慌ててオレは近づいた。近くで見ると、彼の状態はもっと酷い。明らかに睡眠不足で、食事もろくに取っていないように見える。 「……なんでこんなになってるんですか? 片付け魔の殿下が机も床も散らかしちゃって」  優しく冗談を言ったつもりだが、レオン殿下はそれに応えず、かすかに笑っただけだった。 「国の要所である砦を奪われ、騎士団を失った。そして、今はお前まで失われそうになっている。これで平気でいられるわけがないだろう」  その言葉に胸が痛んだ。こんなに自分を責める殿下の姿は今まで見たことがない。 「殿下、砦のことは殿下のせいじゃありません! あれは……」 「いや、責任は私にある。あの砦はどこか怪しいと思っていたのに、警戒が足りなかった」  レオン殿下は椅子に座り直すと、項垂れるような体勢でため息をついた。 「とにかく、来てくれて嬉しい。お前は今、どうしているんだ?」 「オレは……まぁ、なんとかやってます」  嘘をついた。実際はどうしていいか分からないし、これからの予定も全くの白紙状態だ。でも、そんなことは言えなかった。レオン殿下をこれ以上心配させたくなかったから。 「数日後には王宮を出る予定です。どこに行くかはまだ決めてませんが……実家に戻るか、どこかの町に住むか」 「そうか……」  レオン殿下の声が沈む。沈黙が流れる中、オレは少しでも彼を元気づけようと考えた。今できることは、彼を励ますことだけだ。オレは何か明るい話題に変えようと思った。冗談めかして言えば、少しは気が紛れるかもしれない。 「まぁ、オレと婚約解消になっちゃいましたけど、結果論で言えばオレでよかったですよね。 見せかけの婚約でしたから。これで本気の婚約だったら……」  言葉が終わらないうちに、レオン殿下の表情が一変した。彼は突然立ち上がり、オレの腕をがっしりと掴んだ。 「っ!」  何が起きたのか理解する前に、レオン殿下はオレを壁に押しつけた。両腕の間にオレを閉じ込め、逃げられない体勢で迫ってくる。その瞳はオレを焼き尽くすような熱を帯びていた。 「見せかけじゃない。本気だ──」  そう言い切った次の瞬間、彼の唇がオレのものを覆った。 「んっ……!」  突然のキスに、オレは驚きの余り抵抗を忘れていた。レオン殿下の唇は乾いていたけど、その温もりはしっかりと伝わってきて、オレの全身を熱くさせる。  彼の手がオレの後頭部を支え、もう一方の手は腰に回されて、ぐっと引き寄せられる。乱暴なキスではないのに、熱量は激しい。まるで、何かを訴えるような、必死さを感じる。  レオン殿下の歯がオレの下唇を軽く噛み、思わず小さな声が漏れた。その隙に、彼の舌が侵入してきて、オレは完全に呼吸を奪われた。彼の指がオレの髪に絡まり、頭を傾けさせて、より深く唇を重ねてくる。 (なにこれ、なにこれ、なにこれ……)  混乱する頭の中で、でも身体は正直に反応していた。思わず両手が彼の胸に置かれる。押し返すつもりだったのに、彼の服をぎゅっと掴んでいた。レオン殿下の鼓動が手のひらに伝わってくる。  しばらくしてようやく唇が離れた。オレはただ呆然と立ちすくんだ。脚から力が抜け、壁と彼の腕の支えがなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれない。自分の心臓が耳元で激しく脈打つのが聞こえてくる。 「……見せかけじゃなかった」  レオン殿下は低い声で言った。その声は喉の奥から絞り出すように震えていた。 「え……?」  オレが言葉を探していると、レオン殿下が再びオレに迫った。壁と彼の腕の間に閉じ込められているので、逃げ場がない。殿下の体温が熱く、オレの肌を焦がすように感じる。 (こんなに近く……。レオン殿下、いつもこんなに良い匂いしてたっけ?)  なぜか彼の香りが今日は特に強く感じられて、オレの頭をぼんやりとさせる。 「私の気持ちは、本気だった」  レオン殿下の眼差しがオレを貫いた。その碧眼には、今までに見たことのない炎が燃えている。  殿下の指がゆっくりとオレの頬を撫で、その感触に思わず息を飲んだ。こんな優しい触れ方をされたこと、今まであっただろうか。その指が頬から首筋へと滑り落ち、ぞくりと背筋が震えた。身をよじると、殿下の体がより密着してくる。熱い。あまりに熱くて、頭がどんどん混乱してくる。 「私はずっと……見習い騎士時代の頃からお前に惹かれていた」  彼の指先がオレの顎をつかみ、強引に顔を上げさせる。逃げられないように視線を合わせたまま、もう片方の手がオレの背に回り、ぐっと引き寄せた。二人の距離がさらに縮まり、胸と胸が触れそうになる。 「え……冗談ですよ、ね?」 「嘘ではない」  レオン殿下は小さく首を振る。 「覚えているか? 見習い騎士の訓練場で初めて会った日のことを」  レオン殿下の目が遠くを見るように細められた。 「お前は他の者たちと違った。他の者は私が王子だからと距離を取り、必要以上に丁寧に接していた。だがお前は……」  その言葉と共に、殿下の唇がオレの耳に近づく。 「私を見るなり『──なんだよ、このひょろガリは。本当に王子なのか? 』と言ったんだ」  耳元で囁くように言われ、オレの全身に震えが走った。彼の唇があまりにも近く、温かい吐息がオレの首筋をくすぐる。 「オ、オレってばそんなこと言ってましたっけ? すみません……」  過去の自分の言動に恥ずかしさを覚えながら謝ると、レオン殿下は小さく笑い、ようやく少し距離を取った。だが、その手はまだオレの腕を離していない。 「あの頃のお前は、良くも悪くもどんな身分の相手でも平等に接する奴だった。そんなお前に、私はいつしか心を奪われていた。……だが、私とお前では身分が違うし、加えて男同士だ。お前が私の想いに応えるはずもないと思っていた」  彼の手がオレの頬に再び触れる。優しいけど、どこか執着を感じさせるような触れ方だ。 「だから、私のこの気持ちは心の奥底にしまい込んだ。私は……ただ騎士として傍にいてくれるだけで十分だと思っていた。そうして何年も過ごしてきた。だが、突然お前が執務室に現れ、『オメガになったから騎士を辞める』と言い出した時は……本当に驚いた」  レオン殿下は苦笑いを浮かべながら続ける。 「そしてお前自身の口から『どこかに輿入れする』と聞いた時、私は……」  突然、オレの体が壁に強く押し付けられた。レオン殿下の表情が一変し、その瞳に嫉妬の炎が灯る。強い力でオレの両腕をつかみ、壁に押し付ける。 「──狂いそうになった」  その声は今までの穏やかさは消え、獣のような低い唸り声に変わっていた。

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