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第3話 幼い頃の思い出

 桃慈(とうじ)の住む団地は、海沿いに立っている。  目の前の大きな道路を渡ると、左側に海に突き出すように小さな山が見える。その山の入り口に、神社はあった。  神社の脇には登山道や小さな公園があり、手入れはされているが、管理人は常駐していない。  桃慈(とうじ)は鳥居の前で一礼し、足元に気を付けながら進む。歩きやすいように石がひいてあるが、踏む場所によってはぐらぐらとおぼつかない。参道にそって生えている木々のおかげで、空気がひんやりと澄んでいる。  神社の敷地に入ると、自然と背筋が伸びた。心なしか体も軽くなった気がした。  桃慈(とうじ)はこの日、死のうと思っていた。  具体的な策があったわけではない。決定的な理由も。少なくとも4歳の桃慈(とうじ)には、自身の抱えるものを言葉にする力はなかった。  ただ、消えてなくなりたかった。この世界に自分の居場所はないと感じていた。  神隠しにあえばいい。別の世界に連れ去られ、桃慈(とうじ)の記憶は自然と消えていく。存在自体忘れ去られてしまうのだ。  母も桃慈(とうじ)のためにがんばる必要がなくなる。  父が去ってから、母の笑顔は減ってしまった。桃慈(とうじ)に見せる笑顔は、以前とはどこか違う、かすんだ笑顔だ。母は日に日に薄くなっていくような気がした。怖かった。母まで消えてしまうことも。それが桃慈(とうじ)のために無理をしたせいだと言われることも。  だから桃慈(とうじ)は、神社を目指した。神社には神様がいるという。神様なら桃慈(とうじ)の願いを聞き届け、神隠ししてくれるだろう。  結果から言うと、桃慈(とうじ)の計画は甘かった。  真上にあった太陽が、山の奥へと傾き、辺りに宵の気配が漂いはじめても、神隠しにあう気配はなかった。  来たときはあんなに心地よかった境内の空気が、不穏をまとい始めていた。  桃慈(とうじ)は、お賽銭箱を背にし、石段に腰かけたまま落ち着かなげに辺りを見回す。  見た目は何も変わらないのに、何か違う。そのことがたまらなく恐ろしかった。  一刻も早く逃げ帰りたいのに、もはや帰る場所はないのだ。  桃慈(とうじ)は、心細さのあまりひざを抱えて泣き始めた。涙で膝がべしょべしょになる。  うおぉ――――ん  泣いている桃慈(とうじ)に追い打ちをかけるように、犬の遠吠えが聞こえた。近くはないが遠くもない。  野良犬。  桃慈(とうじ)の脳裏に、その単語がよぎった。素早く獲物にとびかかり、鋭い牙で切り裂く恐ろしい獣、もしくは見たこともないような化け物。  生きたまま食べられてしまうのだろうか。ゾッとするような考えが頭を埋め尽くした。  そんな消え方は嫌だ。怖い。嫌だ。お母さん!  桃慈(とうじ)は、初めて死を身近に感じ、死にたくないと、母の元に帰りたいと心から願った。  桃慈(とうじ)はぎゅっと目をつむり、その場で縮こまった。 「なあ、おまえ迷子か?」  突然聞こえた甲高いこどもの声におどろき、桃慈(とうじ)は顔を上げた。 「泣いてるの?」  そこには見知らぬ桃慈(とうじ)と同じくらいの年の男の子が立っていて、心配そうにこちらをのぞきこんでいた。 「迷子じゃない。でも、帰れない」  桃慈(とうじ)がそう返すと、眉間にしわをよせて考え込んでいる様子だったが、ヒントをもとめるように 「オカアサンは?」 と、なぜかぎこちない発音で聞いてきた。 「いる」桃慈(とうじ)が短く答えるとますます困惑したように、 「オトウサンは?」 「出てった」  桃慈(とうじ)の答えを聞いて、男の子は傷ついたような顔をして、うつむいた。  男の子が桃慈(とうじ)の隣に座ったまま動こうとしないので、仕方なくこちらから話しかけた。  一人ではないことが心強かったこともある。 「ぼくは、とうじ。  きみは?」 「はると!」  春橙(はると)は、ぱっと顔を上げると、輝くような笑顔を見せた。  うれしくてたまらないというような、きらきらとした瞳で桃慈(とうじ)を見た。  そして、とーじ、とーじと繰り返し桃慈(とうじ)の名を呼んだ。壊れ物を扱うように、そっと丁寧に唇にのせる。  何度桃慈(とうじ)が、と・う・じと発音を教えても、春橙(はると)はとーじとしか言えなかった。  そうしているうちに、17時をつげる夕焼け小焼けが流れた。  春橙(はると)は神妙な面持ちでそのチャイムを聞き終えると、 「また明日も会える?」 と、おずおずと尋ねた。 「いいよ」  反射的に桃慈(とうじ)は答えた。桃慈(とうじ)を必要としてくれている人がいる。そのことが桃慈(とうじ)に生きる希望を与えた。少なくとも明日を生きてみようとそう思えた。  春橙(はると)は遊園地を前にした子どものように、興奮を抑えきれない様子で、何度も絶対だよと念を押しながら帰っていった。  翌日、仕事に行く母を見送った桃慈(とうじ)は、さすがに早すぎると思ったものの、家でじっとしていることもできず、神社へと向かった。  鳥居の前で一礼し、一対の狐の間を通り抜け、社殿へ向かう。  木々がさわさわと葉を揺らし、桃慈(とうじ)を歓迎してくれているような気がした。  春橙(はると)はすでに来ていて、社殿の石段に腰かけ、ぼんやりと空を見上げていた。  桃慈(とうじ)は、走り出したくなる衝動を抑え、わざとぶらぶらと春橙(はると)に近づいた。  春橙(はると)桃慈(とうじ)に気づくと、 「とーじ!」  と、全身をバネのように弾ませ、立ち上がった。離れていても、春橙(はると)の目に喜びがきらめているのが感じられた。  桃慈(とうじ)もたまらなくなって、春橙(はると)に駆け寄った。その日はお昼を食べるのも忘れ、17時のチャイムが鳴るまで遊び続けた。  家に帰るころには空腹と疲れで倒れそうになった桃慈(とうじ)は、母にお昼ご飯はおにぎりにしてほしいとお願いした。  新しい友達ができたこと、その日あったできごとを話すと、母はとてもうれしそうに笑って聞いていた。  久しぶりに見た、母のくっきりとした笑顔だった。  家に引きこもりがちだった桃慈(とうじ)にとって、春橙(はると)との日々は新しい発見の連続だった。  二人が夢中になったのは、BB弾と呼ばれる小さなプラスチックの球を集めることだった。  直径は6ミリほどで、白やオレンジが多いのだが中には半透明のレアカラーもあり、黙々と拾い集めた。  町中のBB弾を二人で拾いつくしたと思っても、不思議とBB弾が町から消えることは無かった。  お昼に流れるいい湯だなのチャイムを合図に、神社の石段で母の作ってくれたお弁当を食べた。  小腹がすいたときは、山で真っ赤なグミの実や木苺を食べた。春橙(はると)は食べられる木の実がとれる場所をよく知っていた。  山にいると、様々な昆虫に出会う。そのなかでもキリギリスを見つけると桃慈(とうじ)春橙(はると)は色めきだった。  キリギリスを捕まえて持っていくと、引き換えに100円をくれるキリギリスおじさんがいたからだ。  キリギリスやコオロギは、鳴き声はよく聞こえるのに見つけるのは難しい。運よく見つけても、捕まえるのにまた骨が折れた。 一度めのアタックで失敗すると、草むらに隠れてしまい捕獲は困難だ。慎重に近づき、一気にしとめる。かぶせる両手のひらに力を入れすぎると、潰してしまうので力加減も重要だ。  捕獲出来たら、せっかくの獲物が弱ってしまわないように、すばやく虫かごに移す。  春橙(はると)はキリギリスを見つけるのはうまかったが、捕まえるのは絶望的に下手だったので、捕獲は桃慈の担当になった。  キリギリスおじさんは、おじいさんともおじさんともいえない微妙な年ごろの、いつもにこにことやさしそうな人だった。  キリギリスが入った虫かごを渡すと、細い眼を大きく開いてまじまじとキリギリスを観察した。  角度を変えてはそれを繰返すので、結構な時間がかかるのだが、自分たちの仕事を評価されているようで、なんだか胸がドキドキした。  キリギリスおじさんは、最後に満足そうに一つうなずくと、キリギリスに向かって何か話しかけた。  それは長い時もあるし、ほんの一言の時もあった。  気になって聞き耳をたてるのだが、一度も聞き取れたことはなかった。  キリギリスおじさんは、その一連の流れを、儀式のように毎回必ず行った。儀式が終わると、虫かごを持って家に入り、空になったむしかごと100円を持って戻ってきた。  キリギリスおじさんがなぜキリギリスを集めているのか、いつからキリギリスおじさんと呼ばれるようになったのか、キリギリスに何を語りかけているのか、桃慈(とうじ)春橙(はると)は何度も自説を戦わせた。  結局、その答えをキリギリスおじさんに確認することもなく、いつの間にか通うこともなくなっていった。  キリギリスおじさんからもらった100円でラムネを買い、神社で飲むのが常だった。  夏の日差しを浴びながら飲むラムネは、たとえようもなく美味しかった。  二人で一本のラムネを回し飲みしながら、どちらが中に入ったビー玉をもらうかでケンカした。  結局、ビー玉を取り出すことができなくて、戦いは浜でのビー玉探しにもつれ込むのだった。  神社を出て坂を下り、大きな道路沿いに5分ほど歩くと、堤防があった。そこには平日でもちらほらと釣り人の姿があった。  コンクリートで舗装された道が、数キロにわたってのびており、テトラポットの奥には海が広がっていた。  舗装された道をしばらく進むと、砂浜が見えてくる。砂浜にはたくさんの漂流物がうちあげられており、そのほとんどがゴミだった。  桃慈(とうじ)春橙(はると)は、宝を探して競い合った。  完璧な形の貝殻、淡いピンクが美しい桜貝は桃慈の母にプレゼントした。  シーグラス、カニ、信じられないくらい大きな流木。  桃慈(とうじ)は特にビー玉が好きだった。ガラスでできたその球は、太陽の光を受けると宝石のように輝いた。  桃慈(とうじ)のビー玉コレクションで、一番のお気に入りがあった。それは、不思議な美しい色をしていた。  角度や光の具合によって、それは森のように深い緑にも、光を透かした葉っぱのような明るい緑にもなった。そしてそこには必ず青が内在していた。  桃慈(とうじ)はその色の正体が知りたくて、時間を忘れて見入ってしまうことがあった。どれだけ注意深く見つめても、一瞬の隙をついて、チカリと球は色を変えた。  図書館に行き、ビー玉をかたわらに、色の図鑑や宝石の図鑑、森や海の写真集でその正体を探った。  そんなとき、桃慈(とうじ)は周りが見えなくなってしまって、17時のチャイムで我に返ることもしばしばだった。放っておかれた春橙(はると)は、決まってそんな桃慈(とうじ)を楽しそうに見ているのだった。  桃慈(とうじ)春橙(はると)は、二人だけの時間を満ち足りた気持ちで過ごした。一日一日がきらきらと輝く宝石のように美しく、二人はそれを大切に抱え、こつこつと磨き上げた。    朝晩の空気にひんやりとしたものが混じり始めたころ、桃慈(とうじ)は自身の決意を形にしたいと思うようになった。  桃慈(とうじ)春橙(はると)とずっと一緒にいたいと思っていた。これから、小学校に行っても、中学校に行っても、大人になっても、春橙(はると)に隣にいてほしかった。春橙(はると)のいちばんであるのは自分でありたかった。  父は母に対して、そう思っていたはずなのに、そうではなくなってしまった。  桃慈(とうじ)は父のようになりたくなかった。 だから、神様の前で約束しようと思った。約束を違えれば地獄に落ちる、それくらいの覚悟があった。 「はると。ぼくね、はるとに、いいたいことがあるんだ」  いつもの神社の社殿の前で、春橙(はると)にそうきりだしたものの、桃慈(とうじ)はその続きをなかなか続けることができないでいた。  言うべきことは、用意してきた。準備は完璧だったはずなのだ。  春橙(はると)の目を見つめて、自分の気持ちを伝えるのだ。堂々と、ヒーローみたいに。  それなのに、現実の自分は怖くて春橙(はると)の顔を見ることすらできない。桃慈(とうじ)はつま先を見つめて、唇をかみしめた。己の情けなさに涙がにじみ始めた。 「とーじ」  柔らかい春橙(はると)の声にはっとして、顔をあげた。春橙(はると)はあたたかな微笑みを浮かべて、 「ゆっくりでいいよ。  おれずっと待ってるから」  と言った。  その瞬間、 「すき」  ぽろりと言葉が滑り出た。 「はるとがすき。  いちばんすき。  はるとのいちばんもぼくじゃなきゃいやだ」  桃慈(とうじ)は言い切ると、ぜえぜえと激しい呼吸を繰返した。坂道を全力でダッシュした後のように、全身が熱く、心臓がバクバクと脈打っていた。  それでもなんとか呼吸を落ち着け、用意していた言葉を告げた。 「はると、ぼくとけっこんしてください」  家からずっと握り締めていて、白くなってしまった左手の握りこぶしを春橙(はると)に向けて突き出す。  春橙(はると)は顔を真っ赤にして、おそるおそる差し出されたものを受け取った。  力を入れすぎて、手を開くのに少し時間がかかったものの、春橙(はると)の手のひらにぬくもったガラス玉がぽとりと落とされた。  それは、桃慈(とうじ)の宝物のビー玉だった。  思わず、春橙(はると)桃慈(とうじ)の顔を見る。 「だって、これ……」 「はるとにあげる」  桃慈(とうじ)がうなずくと、春橙は落とさないように注意深くビー玉つまみ、そっと光にかざした。 「すごくきれい……」  桃慈(とうじ)春橙(はると)のヘーゼルナッツ色の瞳の方がずっときれいだと思ったけれど、そんなこと照れくさくて口には出せなかった。  春橙(はると)はビー玉をそっとズボンのポケットにしまうと、心配そうにポケットのふくらみを見やった。 「ありがとう、たいせつにするね」  改めて桃慈(とうじ)に向き直り、ぎゅっと握りこぶしを作って、春橙(はると)は言葉を絞り出した。 「おれがおじいちゃんになってもいっしょにいてくれる?」 「はるとがシワシワのおじいちゃんになってもいっしょにいるよ」 「じゃあ……、……おれが死んじゃったらどうする?」 「ゆうれいになってでもいっしょにいてよ!」  そのとき桃慈(とうじ)は、春橙(はると)の表情にぞっとするような死の気配を感じ、反射的に強く言い返した。 「……いいの?」 「やくそく!」  泣き出しそうな春橙(はると)につられて、泣きそうになりながら左手の小指を突き出す。 「やくそく」  お互いの小指をからませ、二人は神様の前で誓いをたてた。  死が二人を別つとも、互いを変わらず愛し続けることを、誓い合った。

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