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第19話 疑惑

「京子ちゃん、ちょっと……」  器具の洗浄の手を止めて振り返ると、院長の塚田が診察室から顔をのぞかせ手招きをしていた。  塚田は齢70を越えるはずだが、まだまだ現役でがんばるという。御年80、90の患者さんに日々、「先生はまだ若いんだから」「私が死ぬまで面倒をみてくれ」と言われ続け、まぁ頭と体が動くうちはねと言っていた。  京子は穏やかな性格の塚田を好いていたし、医師として尊敬していた。 「はーい」  京子は院長に返事をし、近くにいた看護師に断りを入れてから診察室へと歩を進めた。  京子のいた作業スペースと診察室はカーテンのみで仕切られている。京子はカーテン越しに声をかけてから、中に入った。  院長は診察用の椅子に腰かけていて、京子にも正面のベットに腰かけるように勧めた。  京子が座ると、院長は京子を気遣うような表情でこう切り出した。 「……京子ちゃんの同級生の話なんだけど……」  京子の顔が思わず強張る。そして、やっぱり……と思った。  京子は今朝の桃慈の様子を思い出した。というよりも、今日一日、頭の中から離れなかった。  京子は看護助手として塚田クリニックでアルバイトをしている。記載された問診票を確認し、補足の聞き取りをしたり、器具の洗浄などの雑務が主な仕事だ。  他の患者さんの聞き取りをちょうど終えたとき、桃慈はクリニックに来院した。入ってきた桃慈を見ても、最初京子は桃慈と気づかなかった。  桃慈から声をかけられて初めて桃慈と認識した。そのくらい桃慈は面替わりしていた。  頬はこけ、肌と髪は脂気がなくパサついていた。体重も数キロ落ちているだろう。何か病的なものを感じさせる痩せ方だった。  前回顔を合わせたときから一カ月は経っていないはずなのに、明らかにおかしい、と京子は思った。  京子をいちばん不安にさせたのは、彼の目だった。  落ちくぼんだ眼窩の中の瞳は、とても幸せそうに潤んでいた。温かに京子を見つめるその瞳と身体のアンバランスさは、心の中の柔らかい部分を逆なでされるような気持ちの悪さがあった。 「やっぱり……おかしいですよね」  視線を落とし、力なく言う京子に、院長は慌てたように 「いや!おかしいってことはないんだけどさ、ただ心配でね……」 言った。 「でも……あんな痩せ方、少し変じゃないですか?」  京子は窺うように院長の銀縁眼鏡の奥の目を見た。 「え?京子ちゃん痩せた?ご飯食べれてない?」 「え?」 「え?」  二人はしばし見つめ合った。診察室という密室の中で。 「……あの、今日来た佐藤君の話ですよね?」 「ああ!ちがうちがう!  ……まぁ関係なくはないんだけど……」  どうやら二人の間には行き違いが生じているようだった。京子は院長の言葉を待つ。 「佐藤君は……、まぁ、血液検査の結果を見てみないとなんともいえないなぁ」  それより、と院長が椅子に座ったまま少し姿勢を正す、京子もつられて背筋を伸ばした。 「京子ちゃんの同級生、事故で亡くなったんだって?  辛いことを思い出させるようだけど、こういうことは本人が思ってる以上に心身に負担をかけるものだからね、京子ちゃんは大丈夫かなって……」 「……同級生……?佐藤君がそう言ったんですか?」  京子はそんな連絡を受けていないし、本人以上に京子の同窓生の情報に詳しい母からもそんな話は聞いていない。  しかし、京子の記憶には何か引っかかるものがあった。 「佐藤君と仲の良かった『はるとくん』、交通事故だったって」  若い子が命を落とすなんて、本当に痛ましいよね……とつぶやくように言う院長の声には、痛みの実感がこもっていた。 「……は……ると」  京子は桃慈と再会した日を思い出していた。あのときも桃慈は「はると」と言っていなかったか。  京子の知らない桃慈の「同級生」、そして桃慈の異様ともいえる変貌ぶり。  京子の背筋をぞわぞわととしたものが這い上がり、髪の毛が逆立つような感覚を覚えた。 「院長」  眼鏡を外し、目頭をつまむようにしていた院長は、京子の呼びかけに顔を上げた。 「すみません、今日は早退させてください」  気づけば京子は真剣な面持ちで院長にそう告げていた。

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