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第31話 ゆらぎ
とーじを騙すつもりなんてなかった。あのときのおれには何が起きているのか、本当にわからなかったんだ。ただ、明日もとーじに会いたい。それだけだった。
自分が死んだのだと、これまでとは違うのだと理解したのはわりとすぐだったと記憶している。
誰もが自分のことを見えないようにふるまうし、話しかけても無視された。大人はみんなそうなんだと、家でも外でもそれは変わらないんだと思った。
大きく違ったのは、あの身を引き絞るような空腹感がなくなったことと、ものをすり抜けるようになったことだ。
帰ろうにも帰る家がわからなかった春橙 は、適当な家に入り込んで夜を明かした。
そうして過ごしていると住んでいる人と目が合うことがあった。子どもは不思議そうにするし、大人は気味悪がった。
「変なこと言わないで」「見ちゃダメよ」
大人はそう言った。「変」「見てはいけない」、そういう存在なんだと春橙は自分を認識した。桃慈 にはそのことを知られたくなかった。「変」じゃなければ、桃慈のそばにいられる。
春橙は普通の人間の成長に合わせて、自身を変化させていった。
「でも……このままは良くないよ……
二人にとっても……」
京子の声に春橙は沈んでいた思考の海から浮上した。
そんなことわかってる……
春橙は頬骨の浮き出た桃慈の横顔を見て、下唇を噛み締めた。
とーじをこんな風にしてるのがおれなのなら、おれはとーじから離れるべきだ
でも、どこへ行けばいい?おれの世界にはとーじしかいないのに
春橙の視線を桃慈が受け止める。慈しむような、優しく、穏やかな瞳。
桃慈の瞳には春橙しか映っていない。
春橙だけを見てくれて、春橙を選んでくれる、春橙がいいと言ってくれる、そのことは春橙の心を温かく包んだ。体温より少し高い温度の温泉に浸かっているような心地良さ。
「とーじ。おれのこと好き?」
幸せなはずのに、なぜか声が震えた。目の奥がツンと痛む。
「もちろん。世界でいちばん愛してる」
桃慈の返答を聞いて、春橙は顔を両手で覆った。涙が春橙の指の間からこぼれ落ちる。
やっぱりおれは間違ってた。とーじを捻じ曲げても一緒にいたいと願ってしまった……
とーじが……大好きなのに……大好きだから……
『いいの?』
春橙の脳内に声が響いた。子どものように無邪気で甲高い声。
『見られちゃうよ?』
『そんな汚いキミのことをトージクンは選ばないんじゃない?』
春橙の反応を待つように声は一度聞こえなくなった。春橙はこれ以上は聞きたくないというようにぎゅっと耳を押さえるが、声は春橙の脳内に直接響く。
『……あぁあ、またひとりぼっちか……』
ぞっとするほど低く暗い声が、春橙を過去へと引きずり戻した。
――暗い。カーテンの閉め切られた部屋。勝手に開けると怒られる。怖い。
散乱するゴミ。菓子パンの袋、お弁当の空、チューブ調味料。
畳。最後にその部屋で見ていたのは、畳の目。畳の目から……
「春橙?」
桃慈の声が春橙を過去から連れ戻した。春橙は目の前に迫る桃慈の顔に焦点を合わせた。
「大丈夫?何度も呼んだんだけど……」
不安げに揺れる桃慈の瞳、両手は春橙の肩をつかむように形作られている。桃慈は春橙に触れることができない。そういう契約だ。願いの代償に、桃慈にだけは触れることのできた、その力を差し出した。
「ごめん……」
「どうして謝るの?」
桃慈が微笑みながら、両手をひっこめる。
「だって……」
ふれ合うこともできない、ふつうの人が与えられる幸せをおれは何も与えられない。むしろ、とーじを苦しめている……
「いいんだ。春橙とこうして一緒にいられるだけで奇跡なんだ。
……これ以上望んだらバチが当たる」
「……シロ様の?」
桃慈はくすくすと笑いながら春橙のおでこに自身のおでこを寄せる。
「そう。梅干し嫌いな神様の」
シロと大神のやり取りを聞きながら、二人はおでこを寄せ合い、笑いあった。
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