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第36話 いくつになっても

 桃慈(とうじ)のさして広くはない団地のリビングに、大神の祝詞を唱える声が響いた。  桃慈が大神とシロを伴い帰宅すると、未知子は驚いたものの拍子抜けするほどあっさりと大神の申し出を受け入れた。  曰く、家には巻き上げられるような財産はないし、タダでお祓いしてもらえるなんてラッキーとのことだった。  笑っていいのか迷った大神は粛々とやるべきことに着手した。すべての部屋を清め、神社から持参した御神酒を全員の口に含ませ終わるころには、すっかり日が傾いてしまっていた。  大神は未知子に撫でられ、ご満悦な様子のシロをいい気なもんだという目で一睨みすると、ベランダから空を仰いだ。 「いいぞ、今夜は満月だ」  その声を聞き、未知子とシロがベランダに顔を出す。 「あら、ほんと。きれいねー」  のどかな未知子の声に「わん」と犬らしい返事をするシロ。  場を整えるように咳ばらいを挟み、大神は口を開いた。 「満月は神の力を強め、悪いモノの力を弱めます。  できる限りのこともしましたが、万全ということはありません。  今夜は外に出ず、誰かが訪ねてきても無視してください。できれば電話も控えて」  厳粛な大神の態度に、わかりましたと真剣な面持ちで答える。そんな姿を確認した大神は、未知子たちに暇を告げた。 「では、私たちはこれで失礼します。  ――桃慈くん。明日、夜が明けたら必ず神社に来てくれ」 「……わかっています」  視線を未知子、桃慈へと移しながら大神は言い、桃慈は表情を曇らせながらもしっかりと返事をした。 「あら!大神さん、お夕飯食べていきません?」  未知子の誘いを苦笑いで大神は辞去し、団地には桃慈と未知子、そして春橙(はると)が残された。  春橙は心配そうな顔で桃慈を見上げ、桃慈は春橙を安心させるように微笑みかけると、その柔らかな手をそっと握った。  桃慈は未知子に春橙を……愛する者を紹介するために口を開き、語り始めた。春橙との出会い、今に至るまでの全てを。 「母さん……  オレに初めて友達ができた時のこと覚えてる?」  未知子は桃慈と食卓テーブルに向かい合って座り、口を挟むことなく桃慈の話を聞き終えた。未知子は驚き、ときに顔を強張らせながらも、桃慈から目をそらすことはなかった。  桃慈が話を終えると、ふうーっと長く息をつき、顔をうつむかせて 「ごめん、少しだけ頭を整理する時間をちょうだい」 とだけ言った。テーブルの下に隠れた手が小刻みに震えるのを押さえるように、ぎゅっと握り合わせる。  5分ほどそうして時間が過ぎた。未知子はおもむろに顔を上げた。その顔には微笑みが浮かんでいた。未知子はしかと桃慈を見据えると、 「桃慈。  あなたの選んだ道を、気のすむまで行きなさい」 静かな、それでいて力強い声でいった。桃慈は緊張に強張っていた体を少しゆるませ、ありがとう、母さん。と小さくつぶやいた。 「胸を張りなさい。あなたが正しいと思うのなら。  ……でも、忘れないで。ここがあなたの帰る家」  桃慈は見えない手に背中を叩かれたように、背筋を伸ばした。桃慈を見つめる未知子の目が柔らかく潤み、瞬きをする間に消えた。  未知子は桃慈の隣、空いている席に体を向けると、桃慈に、「春橙くんはそこにいるのよね?」と確認してから、春橙へと語りかけ始めた。 「春橙くん。  桃慈の母の未知子です。えっと……」  未知子は言葉を探すように目を伏せ、しばし沈黙する。春橙はまさか話しかけられるとは思っていなかったのか、びくりと体をかしこまらせて緊張に顔を強張らせている。そんな春橙をなだめるように、そっとテーブルの下で手を重ねる桃慈。その視線は母へと注がれている。 「春橙くん。桃慈と出会ってくれてありがとう。あのとき……、あのときに桃慈を救ってくれたのは、あなた。私は、桃慈がいちばん必要としているときにそばにいてあげられなかった」  口を開きかける桃慈を手で制し、未知子は春橙への言葉を続ける。 「桃慈を愛してくれてありがとう。桃慈に人を愛することを教えてくれてありがとう」  未知子がこみ上げる涙をこらえるように言葉を切り、目に力を入れて感情の波をやり過ごす。 「春橙。いいわよね、そう呼んでも。もうあなたも私の息子だもの」    未知子が目を細めて春橙を見つめる。見えているかのように。 「いつでも帰ってらっしゃい。桃慈をよろしくね」 「ありがとうございます」春橙はそう言うのが精いっぱいだった。胸を塊がふさいでのどを詰まらせているようで苦しかった。言葉の代わりに涙がぼろぼろと零れ落ちた。  桃慈は春橙の肩をそっと抱き寄せた。春橙の涙は桃慈を濡らすことはなかったが、桃慈にはきらきらと光る滴が、どんな図鑑で見た宝石よりも美しく感じられた。  未知子はそっと席を立ち、夕飯の支度を始めた。せっかくなら春橙の好物をと思っていたのだが、ハンバーグを作ることに決めた。 男の子ってだいたい、いくつになってもハンバーグが好きなのよね  一人でくすりと笑うと息子たちに背を向けて、エプロンの紐を首にかけた。

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