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第19話 恋の重さを知った日
カラン、と扉のベルが鳴ると同時に、店内の空気がふわっと変わった。
「──お、啓太朗。来てくれたんや!」
カウンターの中から、すぐに明るい声が飛んできた。
「席、取っとるで?奥、空いてるとこや」
「……え?」
思わず啓太朗の横顔を見た。
「予約、してくれてたんすか……?」
「ん、まあ。一応、時間だけ伝えといてん」
さらっと答えるその声に、
また心の奥がポッと温かくなる。
──かっこええな、もう……。スマートすぎる……
店の奥へと歩いていくと、さっき声をかけてきた男性が、
カウンターの中から出てきて、手を差し出してきた。
「こんばんは。このボンボン息子の友達やってます、拓実 です。よろしくな」
「……ボンボン言うな、はよ案内せいや」
「うっわ、言い方こわ。……素出とるぞ、お前」
「うるさい」
二人のやりとりが、あまりに自然で、気の置けない感じで。
そらはつい、じっとその光景を見てしまっていた。
俺といるときとは、ちょっと違う。
いつもは落ち着いてて、ちょっとクールで、あんまり感情が読めない啓太朗が、
この人と話してるときだけ、ぽろっと“素”をこぼしている。
その姿が、なんかちょっと嬉しくて、
ちょっとだけ、ドキッとした。
「ほい、こっちやで。奥の席、空けといた」
拓実に案内されながら、ふたりでテーブルにつく。
そのまま座ろうとしたところで、拓実がニヤッと笑って言った。
「なあ啓太朗、お前……彼氏?」
「……は?」
「こーんなかわいい子、連れてきて。
ついに手ぇ出したんかぁ〜。やばいな、お前」
「出してへんし!勝手なこと言うな!この、くそバイト!!」
ちょっと切れ気味で返した啓太朗に、拓実がさらに調子に乗る。
「うわ、焦りすぎ!こわっ!
それカスハラやで?カスハラ!」
「うっさい。はよメニュー持ってこいや」
「はいはい、怖〜〜。クレーム対応しま〜す」
拓実が笑いながら厨房の方に引っ込んでいって、
そらは笑いをこらえながら、ちらっと啓太朗の横顔を盗み見た。
「……ごめんな、あいつ、あんなんで」
「全然っす。なんか、仲良さそうで……ちょっと羨ましかったです」
「……あいつとは、長いからな。めんどくさいけど」
そう言って、啓太朗は少しだけ笑ったあと、ふっと真顔に戻ってこっちを向いた。
「はぁ……こんなとこ連れてきて、失敗やったかも。
落ち着かんかったら言ってな。すぐ場所変える」
「えっ、そんな……全然そんなことないです!」
そらは慌てて顔を上げて、きゅっと背筋を伸ばした。
「むしろ……めっちゃ嬉しいっす。
啓太朗さんの、ちょっと違う顔、見れた気がして」
言ってから自分でも照れてしまって、
そらは視線をテーブルに落とした。
その横で、啓太朗がぽつりと小さく言った。
「……そっか」
その声が、少しだけ優しくて、そらの胸がまた、じんわり熱くなった。
テーブルに並んだのは、
おすすめのパスタと前菜、そして
拓実が勝手に選んできた「うまいから飲んどけ」っていうジュース。
グラスの中で氷がカランと鳴って、
落ち着いた照明の下、いつもより少し静かな時間が流れていた。
食事中は軽く仕事の話や、最近ハマってる音楽の話で盛り上がって、
そのまま特別な話をすることもなく、ゆるやかな空気で食事は終わった。
「……それじゃ、伝票、こっちで」
啓太朗がスマートに伝票を取って、
拓実がレジにまわって会計を打ち始める。
そのときだった。
「……あ、そういやさ」
拓実がふと思い出したように言った。
「お前、あとちょっとしかこっちおらんのやろ?
今度の冬休みはまた帰ってくるんか?それとも……もう春まで帰ってこん?」
──その瞬間、空気がピタッと止まった。
啓太朗の手が、お札を差し出しかけたまま、硬直する。
「……っ、いや、それは……」
明らかに動揺した声。
横顔がほんの少しだけ、こわばって見えた。
「バイトももうすぐ終わりやろ。
また飲みに行きたいし、連絡してこいや?」
無邪気な拓実の言葉が、空気を逆撫でするように響く。
──え?
そらの中で、
何かが「カーン」と音を立てて割れた。
ガラス越しの店内に流れるジャズも、
グラスを拭く音も、全部が遠くなる。
──東京に、帰る。
──え?
帰る?
──バイト、終わる?
──東京……?
頭の中で、バラバラに置かれていた情報が、
カチッ、カチッと音を立てて繋がっていく。
そして、気づいてしまった。
──ああ、そうや。
啓太朗さんって……“東京の人”やったんや。
さっきまで一緒に笑って、話して、
“この夏”がずっと続くみたいに思っていた。
でも、それは自分だけだった。
その事実が、急に、
心の真ん中にずしんと落ちてきた。
声も出ない。頭も回らない。
ただ、目の前で交わされる会話を聞きながら、
そらは立ったまま、動けなかった。
胸の奥に、静かに刺さったままの「東京」という言葉が、
じわじわと痛みを広げていく。
会計を終えた啓太朗が、ふと横を見る。
レジ横で立ち尽くして、
目の焦点が合っていない。
さっきまで笑っていた顔が、どこにもなかった。
啓太朗は真剣な顔になって、
低く、落ち着いた声で言った。
「……そら、行こう」
何も言わないままのそらの手を、そっと握る。
強くはない。けど、確かに引かれるその感覚で、
そらはぼんやりと足を動かした。
外に出ると、夜の風が少しだけ冷たくて、
その温度が、ほんの少し現実に引き戻してくれた。
ふたり、無言のまま車に乗る。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
エンジンをかけてから、
啓太朗は何度も名前を呼んだ。
「……そら」
「……そら」
「なあ、そら……」
だけど、そらは答えない。
前を向いたまま、ただじっと座っていて──
──ぽた。
左の頬を伝って、ひとしずく、涙がこぼれ落ちた。
言葉じゃないものが、
車内の静寂に、はっきりと響いた。
啓太朗は、ハンドルの上で手を止めて、
そっと唇を噛みしめた。
涙が一粒、左頬をつたって落ちたあと、
まるで堰が切れたように──
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
両目から、こぼれるように涙があふれてきた。
拭っても止まらなくて、
息を吸おうとしても、うまく吸えなかった。
「……そう、やった。俺……忘れてた……」
かすれた声で、ソラがぽつりとつぶやく。
「楽しすぎて……
この夏、めちゃくちゃ楽しくて……
啓太朗さんが……“東京の人”やってこと、
すっかり、忘れてた……」
言葉を繋ぎながら、そらの肩が震える。
「……浮かれてた……ほんまに、アホや俺……
こんな……こんな肝心なこと忘れてもて……」
涙が止まらないまま、うつむいて、手のひらで顔を覆う。
「そうやん……帰ってまうやん……
……ずっとここに、おるわけちゃうやん……」
指の隙間から、ぽつ、ぽつと涙が落ちていく。
「俺……なんで……
なんで、こんな……好きになってもたんやろ……」
声が、震えていた。
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