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第20話 恋の重さを知った日
──その瞬間だった。
啓太朗は、迷うことなく手を伸ばして、
そらの体をそっと引き寄せた。
「……っ」
驚いたように肩がすくんだが、
そのまま啓太朗は静かに、そらをギュッと抱きしめた。
そして──
啓太朗はゆっくりと顔を寄せて、
そらの涙の残る頬に、そっと唇を落とした。
ほんの軽く。
触れるだけの、優しいキス。
口を離して、ふたりの視線が交わる。
そらが見上げて、啓太朗が見下ろして……
その瞳が合った瞬間──
ふたりの距離が、もう一度、近づいた。
今度は、口元に、何度も。
やさしく、軽く、何度もキスを重ねる。
ぬくもりと息が混じるような、柔らかいキス。
舌は触れ合わないのに、
それでも、気持ちがあふれて止まらないみたいに。
そらが、そっと名前を呼んだ。
「……んっ……啓太朗さん……」
その一言で、ふっと──
啓太朗の瞳が、我に返るように揺れた。
そして、小さく息を飲んで、
静かに言った。
「……ぁ……、ごめん……」
啓太朗のその一言のあと、
車内に、ふっと沈黙が落ちた。
静かで、重い、重い沈黙だった。
「……じゃあ、家まで送る。帰ろか」
啓太朗の声は、さっきまでと違って低くて、
どこか、遠く感じた。
「……はい」
そらは短く返事をして、
それきり、ふたりとも一言も喋らなかった。
車はゆっくりと走り出して、
夜の街を静かに抜けていく。
街灯の光がフロントガラスに流れては消え、
そのたびに、そらの横顔が浮かんでは消えていった。
──やがて、車がそらの家の前に止まる。
エンジンの音が消えて、
少し遅れて啓太朗が口を開いた。
「……じゃあ、またバイトでね」
でも、そらは動かなかった。
シートに座ったまま、俯いて、
ただじっと、何も言わずにいた。
その頬を、また一筋、涙が流れる。
「……ずるいよ」
ほんのちっちゃな声だった。
けれど、啓太朗の胸に、はっきりと刺さった。
「啓太朗さん、ずるいよ」
そらの声が、少し震えていた。
「これは……恋愛初心者の俺でも、わかる。……ずるくない?」
「振りましたよね、俺のこと。
帰るんやろ?東京に」
涙を拭おうともしないまま、
そらは続けた。
「なのに、優しくして……
俺が好きなの、わかっとるくせに……
なんで、こんなことすんの?
なんで、気、もたせるようなこと……すんの……?」
「意味……わからん……」
声が、かすれていく。
「俺のこと……もてあそんで……楽しい……?」
言葉の最後は、もう涙でぐちゃぐちゃだった。
それでも、そらは今、
自分の全部を賭けて、想いをぶつけていた。
沈黙が、重たく車内に落ちた。
啓太朗は、口を開くまでに少し時間がかかった。
「……ごめん」
「ほんとに、ごめん」
かすれたような声だった。
でも、そらは目を伏せたまま、少しだけ首を横に振った。
「……啓太朗さん、それしか言わんよね」
「俺のこと、うっとうしい? うざい? しつこいよな……」
「……振られてるのに、こんな……」
言葉を詰まらせながら、そらは続けた。
「……啓太朗さんのことは、もう……よぉわかった」
「……もう、好きとか言わんから。
安心して……」
その姿を見て、啓太朗は、そっと手を伸ばした。
震えるそらの手を、優しく握る。
「……違う。……そんなふうに思ったこと、一度もない」
そらが顔を上げると、啓太朗の瞳がまっすぐこっちを見ていた。
「……そらが“好き”って言ってくれて、
ほんまに嬉しかった。……これは、嘘やない。ほんまに。
でも……今の俺やったら……そらを守れん……」
また、静かに沈黙が落ちた。
そらは目を見開いたまま、黙っていた。
「それじゃ……わからん……」
声はかすれて、震えていた。
啓太朗は、小さくうなずいて、目をそらす。
「……うん。やんな」
「……ほんま、ごめん」
そらはしばらくじっとその顔を見つめていたけれど、
やがて、すっと目を閉じた。
「……わかった。もう……もう、ええわ……」
「啓太朗さんのことは……諦める」
言葉は静かだったけど、その分だけ強くて、
今までにない決意の音がしていた。
そして、ドアに手をかけながら、
振り返らずに言った。
「……ご飯、ごちそうさまでした。
じゃあ……おやすみなさい」
ドアが開いて、夜の空気が流れ込む。
そらの背中は、
そのまま振り返ることなく、
暗い道へと、歩き出した。
靴を脱いだ記憶も、ドアを閉めた感覚も、ほとんど覚えてなかった。
体が勝手に動いて、
気づいたときには、ベッドにうつ伏せで倒れ込んでいた。
ぐしゃ、っと音を立てて沈んだ布団の感触だけが、唯一の現実だった。
目を閉じても、啓太朗の顔が浮かぶ。
あの車の中の声も、温度も、
全部、まだ残っているのに。
シートの隣からふわっと香った、
あのシトラスの香水の匂い。
近づいたとき、ふいに感じた体温。
そして──
唇に、何度も何度も重ねられた、軽いキスの感触。
くちびるが、じんと熱いまま、戻ってこなかった。
涙が止まらなかった。
ぽた、ぽた、ぽた。
枕が濡れていくのも気にせずに、
そらは、声も出さずに泣き続けた。
「……もう……終わった」
喉が痛かった。
でもそれ以上に、胸の奥が、
締めつけられるように、ギューッと痛かった。
「バイトも行きたくない……」
「啓太朗さんに会うの……いやや」
「……てか、もうしんどい……
これから一生……誰も、好きにならん……」
ぼそぼそと、弱い声でつぶやく。
「こんなに……しんどい思いするぐらいやったら……
啓太朗さんのこと……最初から、好きにならんかったらよかった……」
言葉にした瞬間、また涙があふれてきた。
胸の奥が、きしむように痛くて、
呼吸するのもつらくて、
自分の感情がもう、自分でもわからなかった。
「……もう……全部……やめたい……」
そう呟いて、
そらはそのまま、何も着替えず、
お風呂にも入らず、
布団にくるまった。
涙でじっとりと湿った枕に顔を埋めて、
そのまま、深く、眠りに落ちた。
誰にも知られずに、
静かに、静かに、心が沈んでいった夜だった。
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