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第26話 旅立ちの夜に

 九月最初の土曜日。まだサンサンパークのプールは営業中だけど、今週末で夏の繁忙期も終わりだ。  この日は、そらと啓太朗が最後に一緒に入るシフトだった。 仕事を終えたあと、先輩のひとりが言った。 「ちょっと早いけど、お疲れ会&黒川さん行ってらっしゃい会しよか!」  自然と流れができて、バイトメンバーで地元の居酒屋へ行くことになった。  店に入ると、先輩たちが念を押す。 「おい、未成年組は絶対酒飲むなよ。炭酸で我慢しとけよー」 「わかってますって〜!」  テーブルには次々と料理が運ばれてきて、唐揚げやポテトの香りに、そらのお腹が鳴った。みんなで今年のバイトについてあれこれ語り合う、和やかな空気。 ふと、誰かが啓太朗に声をかけた。 「黒川さん、大学三年やんな? 就活とか、どうすんの?」 「んー……まだあんまり考えてへんけど、東京よりは関西かな。 地元に帰ってくるかはわからんけど……東京は、もうええかなって思ってる」  啓太朗は、いつもの落ち着いたトーンでそう言った。 その横顔を、そらはこっそり見つめる。  ——東京はもういい、か。  なんとなく、それが誰に向けられた言葉なのかを、勝手に思ってしまう自分がいた。  九月に入ってからのそらは、ずっとどこか上の空だった。学校が始まっても、授業の内容なんて全然頭に入らない。休み時間もぼーっと窓の外を見てることが多くて、話しかけられても反応が遅れがちだ。  そんなそらを見て、涼が呆れたように言う。 「お前、マジで抜け殻やな。中身、どっか行っとるで」 涼の声は、笑ってるようで真剣だった。 「うーん……そうかぁ?」  そらは机につっぷしたまま、どこか上の空で返す。 「はぁ……ほんま重症やな、お前」  涼が大きく息をついた。 「あと日日で、黒川さん東京帰ってまうんやろ? そんなんでええんか?」 「そんなんでいいも何も、俺、ふられとんやで。しかも、無駄に三回……」  そう言って、そらはまた伏せた。 「なんかもう……俺、これ以上、傷つきたくないし、何も考えたない……」  感情のない声だった。どこか自分自身ですら、他人事みたいに聞こえる。  その瞬間——。  バシン!  背中に、強めの衝撃。思わずそらの体がのけ反る。 「いっ……てぇ!! なにすんねん!」  振り返涼のの目が真っすぐに怒っていた。 「おい、お前、しっかりせえよ」  強い口調だった。でも、そこにあるのは叱咤でも怒りでもなく、親友としての愛情だった。 「お前の持ち味はなんや? まっすぐで、素直で、一直線ちゃうんか?」  そらは、何も言えなかった。 「今のお前は、もうスライムや。だらだら、ねちゃねちゃ、ぐちゃぐちゃしやがって……お前のええとこ、一個もなくなってもとるぞ」  目の前のテーブルが、ドン!と大きく鳴る。 涼が、目の前にコーラのペットボトルを置いた。 「ほら、炭酸飲んで元気出せや」 「……うい」  そらは、情けない声で返した。 でも、その口の端は、少しだけ緩んでいた。  すると、「おい、そら、こっち来い」 唐突にそう言って、涼がずいと身体をひねる。 ふたりで端っこの席に座っていたのに、くるりと背を向けると、涼がそらの肩にひょいっと腕をまわしてくる。 え? 何ごと?と戸惑っている間に、涼が耳元で—— 「こそこそこそこそ……」 「いや、え? 何? 涼? 何でいきなり後ろ向いて、こんな、こそこそこそこそ話し出したん?」 「ええから、見ときや。こっからが本題や」 急にスパイみたいなテンションになってきた涼に、そらは苦笑するしかない。 「で? 何なん?」 「お前さ……もう、完璧に諦めたんか?」 「……なんでそうなんねん」 涼の問いに、そらはむすっと口をとがらせて、 「はい、東京帰ります。だから諦めます。バイバイ、はいおしまいって。 そんな、すぐにきれいさっぱりできるわけなかろうが」 その語気に、そらもつられて声を潜めながら、キレる。 「せやけど、砕けたくないんや……。もうこれ以上傷つきたくないねん」 「アホか」 涼は笑いながら、でもまっすぐに言う。 「お前は砕けてなんぼやろが。砕け散ってナンボの春川そらやろ?」 「……なんでそんな物騒な紹介みたいになっとんねん」 「いいか? 人生で一番悔いが残るのはな、やった後悔ちゃうぞ。やらへんかった後悔や」 「……」 「やって砕けたら、それで終われる。でもな、やらんと終わったら、死ぬまで引きずるぞ?」 「……っ」 「最後や。こっちからどでかい爆弾、かましたれ」 涼の顔はふざけてるようで、その目だけは真剣だった。 そらは少し黙ってから、ポツリと口をひらく。 「……なあ、でも、お前、けいたろうさんのこと反対しとったやん。あんなやつやめとけ、って言っとったやん」 「うん」 「なんで急に応援しだすん? 何の心変わりなん?」   「……まあ、俺も一回腹割って、あの人と話したからな」  涼が、どこか照れくさそうに言った。  「……へえ?」  「正直な、俺はまだ、あの人のこといけ好かん!!」  ちょっと拗ねたように言いながら、テーブルに置いてあった枝豆を一粒つまんで投げるように口に放る。  「なんか、爽やかぶって、モテて、仕事もできるし、イケメンやし……都会っぽいし。……なんか、もう全部、ムカつく」  「いや、それ……ただのひがみと悪口やん」  思わずツッコミを入れると、  「うっさい。まあ聞けや」と、涼がさらに肩を引き寄せる。  「でも、あんな人でもな。なんか……いろいろあるらしいわ」  いつものおちゃらけた声が、少しだけ落ち着いたトーンになる。  「だからまあ、頭ごなしに目の敵にするのは……やめることにした。応援するっちゅーわけではないけど、別に、もう嫌いでもない」  「……うん」  「ただお前がこのまま、だらだら終わるぐらいやったら、後悔するぐらいやったら……最後にもっかい、砕けちってこい」  「……くだけ……」  「そうや。どでかく砕け散ってまえ。ど派手に。花火みたいに。ドカーーーンと!」  そう言って、涼は笑った。  「これから、こっちでまた誰かに出会って……彼氏か彼女か、どっちかわからんけど、ラブラブの相手ができるかもしれへん。……そしたら、あんな奴のこと、笑って忘れられるかもしれへん」  「……」  「でも、最後にもう一回ちゃんと告白して、そっから秋になって、冬になって、 春になって……それでも、やっぱ好きやったって思ったらさ」  そらの目を、まっすぐ見つめて。  「それはもう、“ほんまもん”やろ」  そう言って、涼はコップのコーラを一気に飲み干した。

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