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第28話 旅立ちの夜に
車内は、他愛もない話で穏やかに満ちていた。
「今年のゾンビ、去年より怖くなかったっすよね」とか、「あのお化け屋敷、どこに非常口あるんか未だに迷う」とか。そんなやりとりがふっと途切れたとき、そらがぽつりと口を開いた。
「さっき、居酒屋でちょっと聞いたんですけど……就職、東京でしないんですね」
「うん」
啓太朗は少しだけ窓の外に視線をやってから、穏やかな口調で続けた。
「東京は……もうええかな。嫌いとかやなくて、向こうには向こうの良さもあるけど、俺にはちょっと合わん気がしてな。かといって、地元もなぁって思っとる」
「え、そうなんすか?」
「有力候補は、地元からちょっとだけ離れとる関西の中の街やな。……通えん距離ではないし、いいとこ決まったらええなと思っとるよ」
「へぇ……」
運転席から、啓太朗の落ち着いた声がゆったりと響く。
少しだけ間を空けて、今度は彼が訊いた。
「それより、そらは?将来のこと、なんか決まっとるん?」
「俺っすか?」
少しだけ笑って、そらは前を向いたまま答えた。
「俺、小学校の先生になりたいんすよ。……だから、大学は地元の教育大行くつもりで。うちの学校、推薦枠もあるらしいんで、なんとかそれ狙ってます」
「先生かぁ。なんか、らしいな」
「でしょ?ははっ」
「……親父らが引退するくらいには、教員も辞めて、実家の酒屋つごうかなとも思ってるんすけどね。ま、それはまだまだ先の話ですわ」
「ええな、しっかり考えとるやん」
「いや、しっかりってほどでも……てか、目の前のテストが先決っす。もう担任に、“このままじゃ教育大やばいぞ”って釘刺されてて。夏サボりすぎたっすわ……」
「……それは、がんばれ」
二人の声は、ゆっくりと夜の道路に溶けていった。
しばらく街灯の少ない山道を、静かに車が進んでいく。
窓の外には黒く沈んだ山々と、かすかに流れる川の音があった。
そらはふと、車の進む方向と川の位置に気づく。
「……え、もしかして。これ、しのみダムっすか?」
そう問いかけると、啓太朗は笑いながら、
「はい、あたりでーす」
と、軽くハンドルを切った。
「来たことある?」
「いや、ないっす。でも名前だけは聞いたことあります。めっちゃ綺麗って有名っすよね。昼間来たら川遊びもできるって……」
「そうそう。去年な、地元の奴らとバーベキューしたんよ、ここで。で、そのまま夜までおってんけど、めちゃくちゃ星きれいやってさ。……だからそらにも見せたいなって、ちょっと思って」
その言葉に、そらの心がまた跳ねた。
やっぱりこの人は、不意に心をくすぐってくる。
ときめくな、って言い聞かせても、無理だった。
「さあ、もうすぐ着くよ」
「うわー、楽しみやなあ……」
車はゆるやかに坂を下って、駐車スペースに滑り込む。
二人は車を降りると、夜の空気がふわりと体を包んだ。
暗がりに目を凝らせば、すぐそばを流れる川は、黒く静かに存在していた。
でも、その先に広がる空——
それは、言葉も出ないほどの星空だった。
都会では絶対に見えない数の星が、降るように空を埋め尽くしていて、空気は澄みきっていて、深呼吸すれば森の匂いとマイナスイオンが胸いっぱいに広がった。
今まで見てきたどの夜景よりも、優しくて、温かくて……
ただ、そこにあるだけで心が洗われていく。
そらは立ち尽くして、思わず「……うわあ」と声を漏らした。
「どう? お気に召しましたか」
横で啓太朗が、どこか誇らしげな笑顔を浮かべて聞いてくる。
「これは……やばいっす」
そらは、何度も瞬きをしながら、空を見上げたまま答えた。
「今まで行った中で、ここが一番好きかもしれん」
啓太朗はくすっと笑うと、小さくうなずいた。
「俺も、実は一番ここが好き」
星を仰ぎながら、ぽつりと続ける
。
「ぶっちゃけてまうけど、去年ここに連れてきてもらってからさ、なんか悩み事があると、ここに一人で来るんだよね」
「へぇ……」
「今年は、全然来てなかったんやけど。……帰るまでに一回、そらを連れてきたいなって思ってさ」
「……」
「それで、実は先週、一人で予習しに来たんよ。
場所とか、暗さとか確認しとこうかなーと思って。……ちょっとダサいやろ?」
啓太朗は少し照れくさそうに笑った。
でも、その笑顔はすごく優しくて。
そらの胸の奥に、じわっと温かいものが広がっていく。
「……でも、それぐらい。この景色は、そらに見せたかったんや」
その言葉に、そらの胸が、また締めつけられる。
ジーンと込み上げてくるものを、堪えきれなかった。
「ほら、靴脱いでみ。ちょっとだけここ川渡ったら、すぐそこがダムなんやって。そこ、腰かけられる場所があるから。もっと綺麗に見える」
啓太朗に促されて、ソラは靴を脱いだ。
二人で並んで、裸足のまま、そっと浅瀬に足を入れる。
川の水は、思っていたよりもずっと冷たくて、思わず声が出そうになる。
でも、身体の奥では心臓がドクドクと鳴っていて、その温度差がなんだか心地よかった。
「冷たっ……!」
「やろ。でも気持ちええやろ」
ゆっくり、ゆっくり。
星の下、ざぶざぶと音を立てながら、ふたりは浅瀬を渡る。
やがて対岸の平らな岩場にたどり着き、そろって腰を下ろした。
星は、さっきよりもさらに近くに見えた。
「……あー、ここ、永遠におれそうっす」
そらが、ため息のようにこぼす。
「やろ? めっちゃええやろ。……よかった。最後に、そらを連れて来れて」
また、“最後”という言葉が、静かに夜の空気を震わせる。
そらの胸の奥に、さっきよりも少しだけ重い何かが、ぽとりと落ちてきた。
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