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第29話 旅立ちの夜に

  「……最後、なんすよね。ほんまに」  そらが、夜空を見上げたまま、ぽつりとつぶやいた。  「うん。最後だよ」   啓太朗は、横顔を月に照らされながら、静かにうなずいた。  「これで最後。……もう、十日の午前中の新幹線に乗って、東京に帰る」  「……」  「なんか、この夏はさ、そらがいたから、あっという間やったなぁ」  また、そんなことを言って——  ほんと、ずるい。そう思った。  「……ほんと、啓太朗さんは、ずるいわ」  そらは、うつむきながら言った。  その声は、ほんの少し震えていた。  「もう……これ、見送りは行けないっす。たぶん俺、泣いて、どえらいことになりそうやから」  「……」  「たぶん、新幹線……無賃乗車して、飛び乗ってまいそうやわ」  乾いた笑いを浮かべながら、そらは冗談めかして言った。  でも、目の奥はずっと熱いままで。  それを隠すように、わざと明るく振る舞った。  「それは困るなぁ……」  啓太朗が、少し笑って、そう返してくれた。  ふたりのあいだに、少しだけ、沈黙が落ちる。  その沈黙は、苦しくて、やさしかった。  やがてそらが、そっと口を開いた。  「……啓太朗さん」  「ん?」  「ほんまに、最後やから……もう、別に返事とか、いらないんで。俺の気持ち……言っても、いいっすか?」  啓太朗は、すぐには答えず、少しだけ目を閉じてから、小さくうなずいた。  「……うん。いいよ。ちゃんと聞く」  そらは、星空の下、まっすぐ啓太朗を見た。  そして——息を吸って、震えそうになる声を、丁寧に言葉に変えた。  「……啓太朗さん。俺、やっぱり……啓太朗さんのこと、   めっちゃ好きっす。   俺も、この夏……めっちゃ楽しかった。初めて恋愛したって、わかった。   正直、辛いことの方が多かったけどな。……ははは。あんたのせいで」  言葉とは裏腹に、目の奥がじんわりと滲んでいく。  それでも、そらは笑った。  「でも、全然、後悔してへんし。この夏のこと、全部。きっと……俺の宝物になると思う。   こんなに好きにさせてくれて……ありがとう」  啓太朗は、何も言わずに、ただ黙って聞いていた。  そらは、少しだけ声を落として続けた。  「なんか、啓太朗さん……俺のこと縛らへんし、次の恋いってもええって言うとったやん。   でもな、俺、さらさら、そんなんできる気せーへんわ。   なんかずっと……東京の方向いて『啓太朗さん……』って思っとる気ぃする」  夜風が、ふたりのあいだをそっとすり抜けていった。  静かに、静かに——沈黙が、星空に溶けていった。 「あー、あかん。もう泣かんとこーって思ってたのに……勝手に涙出てくるわ。やばい、やばい。涙腺壊れてしもうたわ」 そらは笑おうとした。 でも声が震んで、目線は下に落ちる。 ずずっと鼻をすすったかと思うと、もう堪えきれなかったみたいに、涙がぽろぽろとこぼれ始めた。 「……俺、啓太朗さんの恋人になりたかった」 震えた声が、夜の静けさに吸い込まれていく。 「ほんまはもっと、啓太朗さんのいろんなこと、知りたかったし……サンサンパークでデートとかもしたかった。夜だけじゃなくて、昼に一緒に出かけたり……一緒においしいもん食べたり……」 泣きながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐそら。 その瞳には、星よりもずっと濃い想いが滲んでいた。 「あぁ……俺の初恋、ホンマ最高やったわ。ありがとう、啓太朗さん」 唇の端がわずかに笑みに歪むけど、その笑みもすぐに涙に溶けた。 「啓太朗さん、東京でも頑張って。就活、応援してるんで……俺も次、高3やし、今から本腰入れて勉強します。啓太朗さんが東京で頑張っとるって思ったら、なんか俺も頑張れる気します」 「……ほんまに、ほんまに……そ、ら……」 啓太朗はそれ以上言葉が続かなかった。 沈黙の中、彼の目から、一筋の涙が静かに頬を伝う。 「……俺、もう“ありがとう”しか言われへん……ほんま、ありがとう」  少し息を整えてから、低く、しかしはっきりと告げた。 「来年の7月。俺から連絡する。必ず。でも……これは約束じゃない。そらは守らんでええ。俺だけの、一方的な約束や」  

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