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第30話 旅立ちの夜に
そらが目を見開く間もなく、啓太朗は柔らかく続けた。
「また、今年より楽しい夏になるように……祈っとく」
そして、そっと空の額に唇を落とす。
ほんの一瞬、かすかに触れただけのキス。
それなのに、そこから伝わるものは、愛しさも、切なさも、祈りも、期待も……すべてが混ざって胸を締めつけた。
そらはもう、止めようとしても涙があふれ続けた。
「……さあ、帰ろか」
啓太朗は少し笑ってみせた。
「ずっと、ずっとここにおりたいけどな。……しゃあない、帰るしかないから」
そう言って、そっとそらの手を取る。
その手は驚くほど優しく、あたたかくて。
指先にこめられた想いを感じながら、そらはただ握り返す。
啓太朗はその手を離さず、夜の川辺から車まで、ゆっくりと、二人だけの足音で歩いた。
川を渡るピチャピチャという水音が、夜の静けさに優しく溶け込んでいた。
二人の足音だけが、星空の下に響いている。
そらは、心の中で必死に願っていた。
「帰りたくない。
ずっと、ずっとこのままでおれたらええのに――」
やがて車が見えてくる。
その前で、ふと立ち止まった啓太朗が、小さく息を吸い込んだ。
「…あかんかったらええんやけど、」
ぽつりと切なげに言うその声は、少しだけ震えていた。
「もし、そらが許してくれるんやったら。
もう今しか触れられへんから、最後に…思いっきり、ハグしてもいい?」
その言葉に、そらは返事をする間も惜しいように、
次の瞬間、啓太朗の胸に飛び込むように、ぎゅっと抱きついた。
「……っ」
シトラスの香りが、思いきり鼻をかすめた。
今までで一番近く、一番強く、包まれている。
この匂い、このあたたかさ、この鼓動――
「忘れたくない」
心から、そう思った。
そらは泣きながら、啓太朗の胸に顔をうずめたまま、かすれた声で言った。
「啓太朗さん…これ、香水っすよね……どこのやつですか?
俺も……おんなじの、使いたい」
啓太朗はその言葉に、少し驚いたように笑って、そっと頭を撫でた。
「……そんな、かわいいこと言ったら……離れられんくなるやろ」
そのくせ、より一層強く、そらの身体を引き寄せて、深く、深く抱きしめた。
「あとで携帯にリンク送ったるわ。お揃いにしよか」
その瞬間。
お互いの心が、そっと理解し合った。
これが、最後のハグ。
言葉には出さなくても、胸の奥で確かに「さよなら」が鳴っていた。
やがて、ゆっくりと腕をほどくと、啓太朗が小さく微笑んだ。
「――ほな、行こか」
そう言って、優しくそらの背を押し、助手席のドアを開けた。
そらが乗り込むのを見届けると、自分も運転席へと静かに回り込んだ。
車のドアが、夜の静寂に音を立てて閉まる。
エンジン音が、それまでの余韻をやさしく包み込んだ――。
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