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第32話 坂道とホームと、大好きの声

 そらは、胸の上に置いたままの箱をそっと開けた。  中から出てきたのは、少し丸みを帯びた透明なガラス瓶。  手首にひと振り、シュッと香りをのせる。  その瞬間――  ふわっと、あの香りが空気に広がった。  ほんのり甘くて、でも爽やかで。  まぎれもなく、黒川啓太朗の香り。  鼻先から入ってきたその匂いが、まるでスイッチみたいに、そらの中の何かを押した。  控え室で初めて会った日。  静かに「よろしくな」って言われたときの、あの低い声。  サンサンパークで、汗だくになって働いた日々。  お化け屋敷で何度もすれ違って、目が合うたびにドキドキしたこと。  ふたりで行ったドライブ。  助手席で見た横顔。  缶コーヒーを手渡してくれた手の温度。  泣きながら話した、夜のカフェ。  「大事に思ってる」って言われたときの胸の高鳴り。  星を見に行った夜の空。  あの瞬間だけは、たしかにふたりで、同じ未来を見ていた気がした。    ふと気づいたら、隣にいるのが当たり前になってた。  全部、思い出した。  全部、まるごと、香りと一緒に。 「……う、うわあああああああぁぁあん!!」  子供みたいな声を上げて、そらは泣き出した。  声を殺そうとか、涙を止めようとか、そんなの無理だった。 「好きやった……めっちゃ、好きやった。ほんまに……  ていうか、今も大好きやし! もう、なんなんこれ……!」  ぐしぐしと目をこすりながら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、叫ぶように言った。 「諦めさす気、全然ないやん……!  俺の匂い覚えとけって、ことやろ!?  “縛る気ない”とか言うといて、  めっちゃ縛ってくるやん……!!」  こぶしで床を軽く叩く。 「もうこれ、独占欲の塊やん……  忘れさす気、ゼロやん……!  ほんま、最後までずるいわ……」  そう言って、ぐしゃっと顔を両手で覆って、うなだれた。  隣でそれを見ていた涼は、最初こそ驚いたような顔をしていたけど、やがてふっと笑った。  心配してたけど、それよりも――少しだけ、安心したような顔だった。  そらがしゃくり上げながらも顔を上げたとき、涼がそっと言った。 「……お前が、そこまで泣ける相手でよかったわ。ほんまに」  その言葉に、そらはもう一度目をぎゅっとつむって、それから――顔を上げた。 「行く」  「……は?」と、涼が目をぱちぱちさせる。 「俺、行くわ」 「いや、どこに!?」  そらは鼻をすすりながら、でも真剣な目で答えた。 「駅。新幹線。やっぱり見送りに行く!」 「……はぁぁ!? いやいや、もう間に合わんやろ!? もう十時とか……」 「いや!がんばったらギリ間に合う!   バス停からの接続、まだあるはず!  行くしかない!! おい、リョウ、お前もついてこい! 俺の勇姿、見届けろ!!」  そう叫ぶやいなや、そらは玄関に向かって一直線に走り出した。  鼻水も涙もそのまんま。けど、今はそれどころじゃない。 「えぇぇ!? ちょ、まってまってまって、マジで行くん!?  いやほんま、お前ってやつは……!!」  涼も慌ててあとを追いかける。  二人は勢いのまま、自転車を引っ張り出して、ペダルを蹴った。  風を切って、タイヤが地面を鳴らす。  カゴの中で鍵やペットボトルががちゃがちゃと揺れる音さえ、今は鼓動の一部みたいだった。 「涼!! このまま坂降りて、あのバス停まで全速力や!!」 「ほんまに行くんかよ、お前……!?」 「今から行けば、バス停から新幹線の駅に着くやつ、ギリ間に合うはずや!!  それにさえ乗れたら……もう絶対、大丈夫や!!」 「うわ、マジかぁぁ!!」  そらは前を向いたまま、叫ぶように言った。 「ぜってぇ間に合わせたるーーー!!!」  二人のチャリが、風を巻きながらバス停へと向かっていく。  夏の終わりの風が、二人の背中を押していた。

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