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第35話 春のおわり、夏のはじまり

 季節は巡り、春から夏へと移ろおうとしていた。  地元の川沿いに咲き誇っていた桜は、あっという間に散り、いまは淡い緑の葉桜が陽射しにきらめいている。  冷たい風はもう吹かず、日中は半袖で過ごせるくらいの、やわらかな空気。  寒さがやわらいで、歩く足取りも自然と軽くなる季節だった。  そらと涼は、三年生になった。  遊びよりも、勉強や進路のことが話題に上ることが増えた。  そらもバイトのシフトを少し減らして、その代わりに塾へ通い始めた。  部活の連中たちは引退が近づき、最後の大会に向けて汗を流している。  そんな中、そらは放課後のほとんどを机に向かって過ごした。  ――机の横には、スマホが置いてある。  待ち受けは、あの夏の日にしのみダムで撮ったツーショット。  笑っている自分と、横顔で笑う啓太朗。  ロック画面を開けば、それが一番最初に目に入る。  香水も、まだ大事に持っている。  手首にひと吹きするたびに、胸の奥がきゅっとなる。  もう何度も嗅いだはずの香りなのに、心臓が跳ねる感覚は、最初のときと変わらない。  ――あれから、一度も連絡はなかった。  そらも、しなかった。  たまに、地元の先輩から「こないだ就活で帰ってきてたらしいで」とか「年末に帰省してたらしい」と耳にすることはあった。  でも、そらに直接、連絡が来ることはなかった。  不思議と、それが致命的なショックになることはなかった。  ――根拠なんて、どこにもない。  けれど、必ずまた連絡がくる。そう信じていた。  その信じる気持ちだけが、そらを前に進ませていた。  三年生になって、また涼と同じクラスになった。  席は少し離れているけど、休み時間になればいつの間にか隣にやってくる。  この日も、そらは机に肘をついて単語帳をぱらぱらとめくっていた。  ページの端を親指で弾きながら、英単語を頭に叩き込む。 「……おまえ、ほんま変わったな」  隣の席に腰掛けた涼が、感心したように言う。 「めっちゃ勉強するやん。  おまえ見てたら、俺も勉強せなあかん気になってくるわ」 「いや、おまえも勉強せなあかんやん」  そらはページから目を離さずに返す。 「関西の四大学のどっか行くんやろ?」 「せや!」  涼が胸を張った。 「俺は大学行ってモテんねん! ほんで、合コンで『K大学ですー』って自己紹介して、  『きゃー、カッコいい上に賢いんですね!』って言われて、モテまくるんやーー!!」  その宣言は、なぜか教室中に響き渡った。  休み時間のざわめきが一瞬止まり、視線が一斉に涼へ向かう。  そらは、心の底からあきれた。  ――なんでわざわざそんな大声で言うねん。  そして周囲からは、すかさず冷たいツッコミが飛んだ。 「……K大受かっても、中身それやったら女はついてこんでー」 「せやせや、合コン以前の問題やわ」  女子たちの辛辣な一言に、涼は「ぐはっ!」と胸を押さえて椅子にもたれかかった。  そらは半笑いで単語帳を閉じた。  でも、そらは知っていた。  涼は、できるやつなのだ。  そらたちが通っている高校は、啓太朗の通っていた進学校ほどではないけれど、市内ではそこそこ名の知れた進学校だ。  そらは、中学の頃からコツコツと地味に勉強を積み重ねて、やっとの思いでこの学校に入った。  それに対して涼は、部活を引退した三年生の夏から、ほんの数か月で偏差値を十以上も上げて、この高校に滑り込んできた。  やると決めたら一気に成果を出すタイプ。  ちゃらんぽらんに見えるけど、肝心なところでは力を出せる。  ――こいつは、侮れない。  そらはそう思っている。  そして何より……  K大の経営学部。  ここは、啓太朗さんの滑り止めの大学だったらしい。  バイトの集まりで何度か顔を合わせたとき、涼と啓太朗さんは、なんか妙に息が合っていた。  涼がふざけて、啓太朗さんが苦笑しながらも軽く返す、そのテンポが自然で、見ていて不思議な安心感があった。  しかもこの涼、こんなアホっぽいのに、実は地元で数店舗展開しているスーパーの社長の息子だ。  将来的にはきっと跡取りになるだろう。  ――本当に、侮れない。  うちはしがない酒屋で、家も普通。  けれど涼の家は違う。  純和風の立派な造りで、門から玄関までは手入れの行き届いた庭が広がっている。  物心ついた頃から十年以上の付き合いになるが、涼の家に入るときは今でも少し緊張する。  なのに、当の本人はあんなちゃらんぽらんだ。  長男と次男という違いはあれど、 その境遇は啓太朗さんとよく似ている。  地元のお金持ちの家の子。  同じ大学、同じ学科志望……  ――もしかして、涼を観察したら、啓太朗さんも攻略できるんちゃうやろか。  今さらながらそんなことを思い、しばらく涼を観察してみた。  ……が、あまりにも参考にならなさすぎて、 すぐやめた。  たぶんあのときは、啓太朗さんに会いたすぎて、頭がおかしくなっていたに違いない。  帰りのホームルーム。  担任が、分厚い紙の束を抱えて教卓に立った。 「進路調査くばるぞー。週末にちゃんと親御さんと話して、週明けには絶対出せよー!」  ざらついた紙が机の上に置かれる。  そらは受け取ったその紙をしばらく凝視した。  ――H教育大しか考えてこんかった……  でも、もっと視野、広げてもいいんかも?  そんなことをぼんやり思っていた。  ホームルームが終わると、クラスの中は一気にざわつき始めた。  進路の話、塾の話、模試の話……机を囲んで笑う声や、真剣に相談する声が入り混じる。  そらは、さっさとリュックに教科書を詰め込んで、帰る準備をしていた。  そこに、涼がやってきた。 「なあ、そら。お前、H教育大一本勝負のままか?」 「……うーん、最近ちょっと悩み出した」  そらはリュックのベルトを直しながら答える。 「うちは金ないからな……国公立は譲れんし、下宿も親に負担かかるから、ずっとH教育大しか考えてなかったけど……  でも、ちょい遠くても家から通えて、国公立で教員免許とれるとこって結構あるんよな。  まあ、偏差値も上がるけど……今、上がり調子やし、そこも考えるつもり」  涼がにやっと笑った。 「ほんま、お前は真面目やな」 「俺はボンボンやないんで。お前みたいに私立は無理なんですー」  軽く笑い合った、そのとき――  そらのポケットの中で、スマホが震えた。  画面を見たら、そこには――  「黒川啓太朗」 の文字があった。

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