36 / 60
第36話 春のおわり、夏のはじまり
「うわっ!」
そらは、椅子を派手にひっくり返した。
教室の数人がこちらを見て、涼が「なにしてんねん!」と目を丸くしている。
一瞬、息が止まったみたいになった。
心臓が、ドン、と大きく跳ねる。
握っているスマホが手の中でじっとりと熱くなっていく。
……うそ。なんで、いま。
頭の中でいくつも言葉がぐるぐる回って、指先がかすかに震えた。
ドキドキしながら、メッセージをひらく。
"そら。久しぶり。
就職決まったよ。"
啓太朗らしい、無駄のない短い文章。
それだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
返事を打とうと親指を動かした瞬間、
またすぐにスマホが震えた。
"6月の2.3日 地元帰るよ"
その文字を見た途端、息が詰まった。
喉がカラカラになって、指先が汗ばむ。
――え、え、待って。
考えるより先に、またメッセージが届く。
"そら、2日の土曜日、もし会ってくれるなら
そらの1日、俺にちょーだい"
……
……っ!!
そらは椅子をひっくり返したことなんてもう忘れて、その場で机に突っ伏した。
心臓が破裂しそうで、顔が熱くて、息の仕方もわからない。
――なにこれ。
なにこの破壊力。
そらの頭と心臓は、啓太朗のメッセージで爆破された。
今のそらは”悶絶”という言葉を体現していた。
「おいおいおい、どうなしたんや!? 大丈夫か?」
涼が、ひっくり返った椅子の向こうから顔をのぞかせてくる。
「……やばい、大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない!!!!」
そらは顔を真っ赤にしてそう言うと、リュックを背負って教室を飛び出した。
「お、おい! どこ行くねん!」
涼の声なんてもう耳に入らない。
そのまま椅子を押しのけ、教室のドアを開けて駆け出した。
「……なんやねん、あいつ」
涼が呆れたようにつぶやく。
クラスのみんなもざわざわとそらの背中を見送った。
「あいつ、最近急に真面目になったし……」
「かと思ったら、なんか一人でドタバタしてるし、情緒不安定やな」
「まあ受験生やからな」
そんな声が飛び交い、教室はまたいつもの喧騒に戻っていった。
――でも、そらはもう止まれなかった。
靴を履き替え、校門を抜ける。
駐輪場まで一直線に走り、自分の自転車にまたがった。
リュックをカゴに放り込み、ハンドルの上でスマホを取り出す。
画面には、さっきのメッセージ。
6月2日――その日付が、頭の中で何度もリフレインする。
会える。やっと会える……
すると、胸の奥から、いろんなものがじわじわとあふれ出してきた。
――うれしい。
就職決まって、めでたい。
あの約束、覚えててくれた。
大好き……
でも……なんで連絡してくれへんかったん。
悲しかった。
信じとったけど……やっぱり、ちょっとだけ不安やった。
もし帰ってきとったなら、会いたかった。
でも――誘ってくれて、めっちゃうれしい。
やっぱり……大好き……
気づけば、視界がにじんでいた。
涙がじわじわと浮かんでくる。
うれしさと、信じてたけど心の奥にあった不安が、
この瞬間ふっと溶けていくみたいで――
安心感と一緒に、いろんなものが
胸の奥から次々にあふれ出してくる……
いろんな感情が混ぜこぜになって、胸がぎゅうっと痛くなる。
そのとき、そらははっきりと感じた。
――ああ、心臓の位置って、ここなんや。
そらは、シャツの胸のあたりをぎゅっと掴む。
こみ上げる熱を押さえつけるみたいに、うつむいた。
そして、堪えきれずに、一粒の涙がぽとりと落ちた。
自転車にまたがったまま、そらは完全にフリーズしていた。
胸の奥がざわざわして、息をするのも忘れるくらい。
ふと、横を制服姿の生徒たちが通り過ぎていく。
笑い声、部活の話、下校のざわめき――全部が遠くに聞こえる。
そこでようやく、そらは自分がずっと固まっていたことに気づき、
はっと我に返った。
よし、俺はこの一年で成長したんや。
散々じらしっていうテクニックを、啓太朗さんから受けた。
――だから今度は、俺がじらす番や。
本当は今すぐ返事をしたくてたまらん。
けど、そこをぐっとこらえるのが大人ってもんやろ。
冷静なフリをしながら、そしてぶつぶつ呟きながら、
そらは自転車をこぎ出す。
「よし、家帰ってから……家帰ってから返事する」
そう言って、そらはペダルを踏みしめた。
ともだちにシェアしよう!

