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第37話 春のおわり、夏のはじまり
ふわふわした気持ちのままペダルを踏んでいたら、気づけばもう家の前だった。
玄関に飛び込み、靴を脱ぎ捨てて急ぎ足で階段を駆け上がる。
自分の部屋に入り、ドアを閉めた瞬間――
「さあ、返事をしよう」とスマホを握りしめた、そのときだった。
――ブルルルッ。
手の中が震える。
メッセージかと思ったら、画面には「黒川啓太朗」の文字。
それは通知ではなく、電話だった。
「っ……!」
焦りすぎて、通話ボタンを押した瞬間にスマホを床に落とす。
『もしもし、そら?』
床から、懐かしい声が響く。
そらは一瞬、時が止まったみたいに固まってしまう。
『……そら? そら、聞こえとる?』
二度目の呼びかけでようやく我に返り、慌ててスマホを拾い上げる。
「あ、あのっ……春川です!」
『ははっ、何それ? どうしたの?』
スマホの向こうで、啓太朗が楽しそうに笑う。
その笑い声が胸の奥にすっと入り込んで、そらの胸は一気にキュンと鳴った。
「そら、LIMEのメッセージ見た?」
「はい、見ました! あ、えっと……内定、おめでとうございます!」
「ありがとう」
「早くないすか?」
「外資系の会社に決まったからな。
外資は採用試験がちょっと早いんや。受かってよかったわ」
「そうなんですね」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙を破るように、啓太朗が尋ねた。
「そら、六月二日……会える?」
「会えます。てか、予定入ってても、それ押しのけてでも会うんで!絶対俺と会ってください!」
スマホの向こうから、また「ははは」と啓太朗の笑い声が響く。
「相変わらず可愛いなぁ」
その一言で、そらの胸はまたキュンと鳴った。
「じゃあ、それ確認したかっただけやから。また連絡する」
「はい! 待ってます!」
通話が切れる。
そらはスマホを握ったまま、ベッドにバタンと倒れ込んだ。
そして自分のほっぺをつねる。
「え、これ現実?」
――痛っ。めっちゃ痛い。
「現実や……やっぱり……!」
布団の上で「あああああああああ!!」と言いながら、
ゴロゴロゴロゴロ転がる。
やっと現実味が追いついてきて、そらの胸はドキドキしっぱなしだった。
その日の夜。
風呂から上がって、ふわふわしたままスマホをいじっていると、LIMEの通知が鳴った。
――涼からだ。
「日曜日、久しぶりに息抜きで駅行くぞ。俺が靴買うから、それに付き合え」
ふいに笑ってしまう。
あー、そういうの久しぶりやな。
「まあ、いいか」って思いながら、返信を打つ。
「わかった。どないする?バスで一緒に駅まで行く?」
すぐに既読がつき、返事が返ってくる。
「いや、俺、先にちょっと用事もあるから、駅前待ち合わせな」
「OK」
そう送って、スマホを置く。
なんとなく、ただの休日がちょっと楽しみになる――そんな夜だった。
日曜日。
そらは、相手が涼だからと、特別気合を入れるわけでもなく、
いつも通りの格好で家を出た。
頭は軽く寝ぐせを直しただけのボサボサ、Tシャツにゆるいジーパン。
――でも、なけなしのオシャレで、香水だけはつける。
足元はビーサン。
カバンの中には、バスの中で勉強できるように単語帳を忍ばせた。
バスに乗り込み、窓際の席に座る。
ふと、来週のことが頭をよぎる。
――いいな、新しい靴。
六月二日、俺もちょっとマシな格好したいから……服とか覗いてみようかな。
窓の外の流れる景色をぼんやり眺めながら、そんなことを考えているうちに、バスはゆっくりと駅へ向かっていた。
バスが駅前ロータリーに滑り込む。
降車口から一歩外に出ると、初夏の陽ざしとアスファルトの熱気がふわっと押し寄せた。
そらは片手で髪をくしゃっと整え、もう片方の手でカバンの紐を握り直す。
涼は「駅前で待ち合わせ」って言ってたから、このへんのベンチか噴水のあたりやろな――そう思いながら歩く。
人混みを見渡しても、それらしい姿はまだない。
時間は……約束よりちょっと早め。
ポケットのスマホを取り出し、画面を確認する。新着メッセージはない。
ふぅ、と軽く息を吐いて、そらは噴水近くの影に腰を下ろした。
……と、そのとき。
視線の端に、ゆっくりと近づいてくる長身の男の影が映った。
あれ……涼って、あんな髪型やったっけ――。
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