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第38話 春のおわり、夏のはじまり

 ……と、そっと近づいてきた男は――涼ではなかった。  去年より就活で少し短くなった髪。以前より少し幼く見える。  けれど、背格好はあの頃のまま。  そして、見覚えのあるTシャツ。  いつ見ても洗練されていて、やっぱりかっこいい――懐かしい啓太朗だった。 「……え」  驚きすぎて、息すらうまく吸えない。  声が出ない。言葉が浮かばない。  ただ、そこに立つ啓太朗の姿を、呆然と見つめ続ける。  「――ただいま」  やわらかく笑って、低く落ち着いた声でそう言った。  そして一拍置いて、いたずらっぽく眉を上げる。  「ごめん、来ちゃった」  その右手には、小さなスーツケース。  まだ何も言えずに固まっているそらの手を、啓太朗が軽く取った。  「……カラオケ、行かん?」  あまりに唐突で、反射的に「……あ、はい」と頷いてしまう。  手を引かれるまま、二人は駅前ロータリーを抜け、徒歩1分の場所にあるカラオケボックスの扉をくぐった。  啓太朗は、迷いもなく店員と手際よくやり取りを済ませ、小さな個室を一つ押さえた。  「こっち」と短く言って、そらを先に歩かせる。  外の廊下は学生たちの笑い声と、どこからか漏れるJ-POPでにぎやかだ。  案内されたのは、一番奥まった端の小部屋。  ドアを開けると、店員がドリンクバーの場所を説明し、プラスチックのコップを手渡してくれる。  「ごゆっくりどうぞ」――そう言って店員が出ていくまで、そらは一言も発せず、ただ黙って啓太朗のあとをついていった。  二人きりになっても、そらはまだ状況をうまく飲み込めず、ぽかんと立ち尽くしていた。  啓太朗はそんなそらをよそに、スーツケースを壁際に置き、プラスチックのコップをひょいと手に取る。  「そら、ドリンク入れに行こう」  気づけば、そらの分のコップまで持っていた。  「俺はコーラにしようかな。そらは?」  「あ、俺もコーラで」反射でそう答えてしまう。  「OK」  啓太朗は二人分のコーラを注ぎ、そのまま部屋に戻っていく。  そらも無言でついていき、小さなテーブルにコーラが置かれる。  啓太朗がひと口飲み、「あー、暑かったからめっちゃ美味しい。そらも飲みな」  「あ、はい」  言われるままグラスを手に取り、そらもひと口――シュワッとした甘さが喉を通る。  ……そしてまた、固まった。   頭の中をフル回転させて、そらの口から最初にしぼり出された言葉は――  「え……涼は?」だった。  「うん、そうだよね。気になるよね」  啓太朗は口角をわずかに上げて、「じゃあ順を追って説明していくよ」と言った。  「涼くんには手伝ってもらったんだ。俺がどうしてもそらに会いたくて。 六月二日って約束したのに、早くそらに会いたくなっちゃって。 涼くんに遊ぶ約束を取り付けてもらって、その時間を僕がもらうことにした。 ……ここまでOK?」  「はい……全然OKじゃないですけど、OKです」  啓太朗はふっと笑い、少しだけそらのほうに寄った。  まっすぐに視線を合わせてくる。  「そら、一年前の約束、覚えてる?」  「……はい。覚えてます」  「その約束を守りに来た」  短くそう告げてから、一拍おいて――  「そら、俺は……そらが好き。会ったときから、ずっとずっと……   去年の夏、そらの思いに応えられなくて、ごめん。   でも……やっと、そらを受け入れる準備ができたから。迎えに来た」  胸の奥に、熱がぐっと押し寄せる。  「そら……もしよかったら……まだそらが俺のことを思ってくれてるんやったら…… 俺の恋人になってください。……どうかな?」  その言葉を聞きながら、そらの頬を温かいものがつっと伝った。  止めようと思っても、涙はぽろぽろとこぼれ落ちていく。 ――どうしよう。  胸の奥で、鼓動がどんどん大きくなっていく。  耳の奥で、自分の心臓の音がはっきりと響く。  呼吸が浅くなるたびに、胸の奥がじんと熱くなる。  啓太朗は、何も急かさず、ただそらを見つめている。  その視線が、優しくて、強くて――逃げ場なんてなかった。  言葉を探そうとしても、喉がきゅっと締めつけられて、声にならない。  涙をぬぐうことも忘れて、ただ、まっすぐに彼を見返していた。  心臓の鼓動と、啓太朗の呼吸の音だけが、この狭い部屋に満ちていた。

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