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第11話-6 その夜

しばらくして、春が静かに口を開いた。 「…好きだったわけじゃないよ」 その声に、秋がふっと春に目線を向けた。 「…利用してた 人が期待してくれるような… そういう自分でいられないのが…嫌で  そんな自分が心底気持ち悪くて …自分と同じ向井さんを利用して逃げてただけ」 春は俯いていて、表情はキャップのつばに隠れて何も見えない。 秋はただ、そんな春を見つめて息を呑んだ。 春は続けて言った。 「…本当は…秋には知られたくなかった 秋が思ってるような…求めてるような自分でいたかった」 「本当は…好きだなんて思っちゃいけないのに 秋は…僕が触れていいような人じゃないのに 触れたいなんて…思っていいような人じゃないのに …ごめんね」 そう言った春の肩は、小さく震えていた。 春の言葉に、秋の呼吸も浅くなる。 そっと春に歩み寄り、顔を覗く。 春は目を伏せて、その頬には涙が流れていた。 秋は目を見開いた。 春の、初めて見る泣き顔だった。 秋はその顔を見て、思わずグッと手に力を込めた。 「…帰ろう」 春の視線が秋に向けられる。その長いまつ毛には涙の滴が光っている。 「……今すぐ…抱きしめたいけど…ここじゃ出来ないから」 「だから帰ろう」 秋はそう言ってすぐ、春の腕を掴んで走り出した。 ―― ―― ――

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