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第26話-6 選んで

部屋に沈黙が流れる。 時計の針の音すら聞こえてきそうな静けさの中で、秋はそっと隣に座る春へ目線をやった。 春は俯いたまま、細く長いまつ毛が影を落とし、ただ静かに瞬きを繰り返していた。 それは迷っているとき、言葉を探しているときの癖――秋がずっと知っている仕草だった。 胸が締め付けられ、秋は恐る恐る口を開いた。 「…また痩せた? …ちゃんと食べてる?」 春は俯いたまま、小さく「うん」とだけ返す。 「…今日は?今日は何食べた?」 「……まだ」 秋は眉を寄せ、無理に明るさを装って言った。 「……ウーバーでもする?ほら…向井さんいるし…あとでお寿司とか…めっちゃ良いやつ頼んでもらおうよ」 冗談めかした声に、春は黙ったまま、ほんの一瞬だけ微笑んだ。 しかしその笑みは、すぐに消えてしまった。 再び沈黙が落ちる。 互いに言葉を探しあぐねるその空気に耐えかねるように、秋がぽつりと声を漏らした。 「…電話……春が何時に仕事終わるか分かんなくて…かけらんなかった」 「…うん」 「………それに… 春が……俺と話したくないかもなって思って」 秋は自分の声がかすかに震えているのに気づき、喉を詰まらせる。 春はそれを聞きながら、視線を伏せたまま、何度も瞬きを繰り返した。 その沈黙が、秋の胸にじわりと痛みを広げていった。 静かに、春が口を開いた。 「…そんなことないよ」 その返事に秋は安堵したはずなのに、胸の奥で拭い切れない不安が疼き、春に向けていた目線をそっと落とした。 「……後悔してる?…俺と付き合ったこと」 しばらくの沈黙ののち、秋が静かにそう尋ねると、ずっと俯いていた春が、やっと秋に視線を向けた。 春はじっと、その質問の真意を探るように、秋の目を見つめている。 そうして、1ヶ月ぶりに春の目線を直に浴びた秋は、心臓を強く掴まれるようで、思わず目を逸らしてしまった。 再び部屋に重たい沈黙が落ちたあと、春が静かに尋ねる。 「……秋は…後悔してるの?」 秋はゆっくりと視線を上げ、もう一度春の目を覗いた。 その瞳は大きく揺れていて、不安の色が深く滲んでいる。 それを見て、秋は咄嗟に首を何度も横に振った。 「…してない、してるわけないでしょ」 そうして春の手を取り、不安そうな瞳をした春を抱き寄せた。 久々に鼻を掠める春の匂いに、秋の目にはじんわりと涙が滲む。 震える息を小さく吐きながら、溢れ出す本心を口にした。 「……会いたかったよ」 目からこぼれ落ちた涙が頬を伝う。 「……春は 春は……会いたかった?」 「……ごめんね」 長い沈黙の後、春が震える声でそう言った。 秋は息を飲み込み、静かに言葉を返す。 「……もう謝るのやめよって言ったよ」 「………僕と…いるせいで」 「そんなこと言わないで…そんなふうに言わないで」 秋は再び春を強く抱きしめ、必死に言った。 「好きだよ …好き 好き …好き 春も… …俺のこと好きでしょ…?」 春はそれに何も言わず、ただ秋に抱きしめられ、息を殺して何かを堪えているようだった。 秋は続ける。 「俺は…春が男が好きだって知る前から…春が好きだったんだよ? 春が俺のこと好きになってくれてなくても、多分ずっと…おんなじように春が好きだったと思うよ。…思うっていうか、絶対そう 絶対、絶対好きだった 何も春のせいじゃないよ」 秋はそっと腕を解き、春を見つめた。 春は目を伏せたまま、瞬きするたびに涙をこぼしていた。 秋はそれをそっと指先で拭う。 「…気にしてくれてたんでしょ? 俺が何か言われるか、とか」 春は答えず、ただ涙を溢し続ける。 秋は春の手をそっと握り、優しく続けた。 「俺は春といれて本当に嬉しいんだよ ずっと春と一緒にいたいって思ってるよ でも……春が俺といてしんどいって思うんなら…一緒にいるべきじゃないのかなって思う」 「お互いが選んで一緒にいなきゃ意味ないよ 春も選んで 春は…どうしたい?」 二人の間に、また重たい沈黙が落ちる。 春は唇を震わせ、秋はその返事を待ち続けた。 その時、リビングのドアがコンコン、と小さく鳴った。 音に弾かれるように、秋はスッと春の手を離し、咄嗟に涙を袖で拭った。 春もまた、視線を落として呼吸を整える。 部屋には、言いかけた言葉と、確かに触れ合った温もりだけが残されていた。 ゆっくりとそのドアが開いて、松山が顔を覗かせた。 「向井さんから松永さんに連絡入れた 明日、朝向井さんが春を現場に送ってくから、今日はここに泊まっていったら」 そう言った松山の声は、空気を壊さないように抑えられていた。 春はしばらく黙って俯いていたが、やがて小さく「ありがとう」と答えた。 「俺らはあっちの部屋で寝るから。ベッド使って」 そう言い残すと、松山はそれ以上何も言わず、静かにリビングを出ていった。 閉まるドアの音がして、再び部屋には二人きりの静けさが戻る。 重たいものと、温かいものがないまぜになった沈黙が流れ、互いの存在だけが確かにそこにあった。 ――

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