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第29話-1 好きだけじゃだめ?
その日、秋はスタジオでのレコーディングの後、レギュラーで出演するラジオ番組の収録を何本分か終え、夜23時頃に帰宅した。
春はまだ帰ってきていないようだ。
一日中詰め込まれたスケジュールで疲れた体を投げ出すように、ソファに腰を下ろし、ふぅ、と息を吐いた。
新しい家に引っ越してから早半年が経った。
引っ越しは春の事務所の社長である霧峰志子 により厳重な体制が組まれ、万一に備え業者も使わず、大きな家具の移動は無し、全て新しく買い揃えることになった。普通車で運べる衣類などの荷物は霧峰のお付きである伊丹良太 が何度にも分けて運んでくれて、そうして度々自宅で顔を追わせることになった伊丹と秋はすっかり意気投合、今では連絡先を交換して時たま2人でお茶をするような関係だ。
伊丹と秋は妙に波長が合い、これまで人に話すことがなかった春との普段の話も"伊丹なら良いか"と、秋は色々とこぼしていた。
それは多少の惚気の時もあったし、相変わらず忙しくて顔を合わせる時間が少ない、なんていう軽い愚痴の時もあった。それ以外にも、秋がいまだに自分の親に春との関係について自分から話せていないこと、なんていう少し踏み込んだ話題を話すこともあった。
伊丹はそれらをいつもちょうど良い温度感でただ聞いてくれて、秋にとってそうして話を聞いてもらえることがただ有り難かった。
秋のあの生放送音楽番組でのパフォーマンスで、世論は一変した。
秋のパフォーマンスは大絶賛され、2人の関係を支持するコメントがほとんどになった。あの記事を書いたネット報道元には批判が殺到し、アカウントごと消滅する事態になっていた。それは激昂した霧峰の力が働いている…とかなんとか、そういった噂がSNSでも散見されたが、事実は闇の中だ。
とにかく、秋が春に向けて書いた楽曲「恋だ」を生披露したあの放送後から、秋や春に対しての誹謗中傷はめっきりと減り、しかしまだパラパラと見られるようなそういった誹謗中傷のコメントは逆に槍玉に挙げられ、「2人の熱愛を叩くことこそが悪である」といった流れになっていた。
これまで人に話すことができなかったというLGBTQを告白する芸能人たちが次々に現れ、むしろ同性が好きなことってイケてる!なんていうようなコメントなども見られ、春と秋は多様性、この新時代のニュースターのような持ち上げられ方をなされるようにさえなっていた。
秋はそれを、なんとなくぼんやりとただ受け入れることしか出来なかった。
批判コメントが毎日届いていたような日々からすれば、それは多少良いようにも思えたが、「同性が好きなことがイケてる」だとか、そういった類の意見はなんとなく腑に落ちなかった。別に、春が好きでいることに他人の評価は求めていなかった。ただ、事実、シンプルに春が好きなだけだ。それをファッションのように評価されるのはあまり気持ちいいものではなかった。
春とはあれ以来、この件について特に話すことはしていない。
そもそも春は普段SNSを見ない人で、今もおそらくそういった様子だった。わざわざ取り立てて話題に出すのは秋も気が引けた。
春が以前気持ちを吐露するようにこぼした"男が男を好きなことは気持ち悪いことだ"なんていうことを言う人はもうほとんど確認できていなかったし、それは春にとってはいいことなんじゃないか、とは思うけれど、結局、秋が色々とそうしたことに思考を巡らせた後に至る結論としては、「どうでもいいな」だった。
秋は春が好きだし、春も秋を好きだと言ってくれている。
そうして、互いが望んで一緒にいる。
その事実だけで、それ以外は本当に、どうでも良いのだ。
1人家にいるとそうして同じようなことを毎日考えていた。
幸福感とはまた違う、でも悲しいとかそういうのではない。
なんとなく満足いかないようなぼんやりとした気持ちで心が満たされる。
どうでもいい、どうでもいい…そう繰り返すように秋は小さくつぶやいていると、ピンポーン、とインターホンが鳴った。
尋ねてきたのは、伊丹だった。
昨日、以前の家に置き忘れた荷物をまた届けてもらうようにお願いしていたのだ。すでに日用品は揃って完璧で、今回は普段生活には使わないけど、でも手元に置いておきたい、と言ったようないわば思い出の品を伊丹はまとめて持ってきてくれていた。
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