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第30話-5 初めての相手
しかしどうしても気乗りしない。トントン、と包丁を動かしては止まり、ぼーっと考えこんではハッとして、を繰り返す。
“…春の初めての相手はうちやねんで
手繋ぐのも、キスも、…そういうことも”
「…いやだ」
またそうやって口を突いて出た嫌に、秋はハッと気付く。
そうだ。
秋は、なんとなく思い込んでいた。
自分は春の”特別”なんだと。
あれだけ何度思いを伝えても何年も恋人にはしてくれなかった。
きっとこれまでも、誰に対してもそうだったんだろう、と、秋は勝手に思っていた。
いろんな人が春に思いを伝えて、春はそれを受け取ることはしなかった。
そうしてやっと、初めて思いを受け取ったのが、他でもない自分だったんだと、秋はそう思い込んでいた。
でも、そうじゃなかったのかもしれない。
春は由緒と付き合っていた。
そうして春と秋がそうだったように、恋人として、由緒と恋人らしくステップを踏んでいった。
自分は特別でもなんでもなかったのかもしれない。
男が好きな春が、男である秋から思いを寄せられて、そうして秋の思いを受け取って付き合う、なんて、なんだか至極真っ当で、そしてとても簡単なことのように思えてくる。
むしろ、由緒の思いを受け取ったことの方が、特別だったんじゃないか。
これまで女の子が好きだった秋が春を好きになって、その全てが意図せずとも特別になっていったように、春にとっては、由緒はそうだったんじゃないか。
恋愛的に好きになれないとは分かっていても、それでも恋人になった。
あれだけ人に踏み込ませることを許さない春が、許した相手。
そうして別れた後も、ああして仲が良い――
その“特別”は今もなお、終わることなく続いているのではないか。
――
カチャン、と静かに寝室の扉が開いて、淡くリビングの明かりが差し込んだ。
静かな足音が近づいて来た後、ふとひんやりとした手が優しくおでこに触れた。
秋はそれに驚くが、必死に眠ったふりをする。
そうして手が離れた後、しばし春の気配がした後、また静かに足音をたて、春は寝室から出ていった。
秋は耳を澄ませる。
秋は夜ご飯の準備を途中で放棄し、なんの片付けをすることもなくそのまま寝室のベッドに潜り込んだ。
わけもわからず溢れる涙を拭くこともせず、しかし涙が止んだ後も疲れて眠るなんてことも出来ず、ただじっと息を潜めて布団に潜り込んでいた。
リビングからは小さな物音が聞こえる。
きっと、秋がキッチンに残したままのあれこれを片してくれているのだろう。
おでこに触れたのはきっと、体調でも良くないのかと心配したのだろう。
秋はまた込み上げてきた涙を堪えるように、震え出した唇をぎゅっと噛み締めた。
「一緒にご飯を食べよう」
「帰ったら続きをしよう」
そう言って別れた朝の約束を今は叶える気分にもなれないし、口を開けばきっと余計なことしか言えない。
秋だって分かっている。
きっと由緒とのことはすでに過去のことで、終わったことだ。今更何を言われても春は困るだけだろう。
秋にだってそれなりに恋人はいたし、それについて春に何か尋ねられて、そして今の自分が思っているようなことを言われても、心底困るだけだと思った。
普段生活していてそうした元恋人のことを考えることなんてほとんどないし、秋の頭の中は常に春でいっぱいだ。
春だって、きっと、そのはずだ。
だって、春は自分が好きなのだから。
それは、頭では分かっている。
でも、でも――。
それでも今この気持ちを抑えられる術が何もなくて、ただ自分が誰よりも何よりも特別であることだけを証明してほしい。
嘘だって言ってほしい。
付き合ってなんかないよ、秋とだけしか付き合ったことなんてないよ。
秋だけが、”特別”なんだよ。
でもそんな面倒な要望を春には言いたくなかった。
そうだったんだって過去を笑い飛ばして、何も気にならないよって、そういう風に言いたかった。でもそれが出来そうにもないから、秋はただこうして眠ったふりをしてやり過ごすしか出来ないのだ。
“小さい男ですねぇ”
藤堂に言われた言葉が頭をよぎる。
嫌だ。
春には、春だけには、そんなこと、思われたくない。
そうしてまた耳を澄まして、秋は息を殺すようにしてじっとベッドに身を預けた。
そうして30分ほどした頃か――。
再びカシャン、と寝室のドアが開いた。
秋は薄く開いていた目をギュッと閉じる。
すると、寝室に着信音が鳴り響いた。少し遠くからで、寝室の入り口に立つ春が持つ携帯からだ。
春は再び静かにドアを閉め、その電話に出たようだ。
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