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氾濫

 (そら)から降り注ぎそうなのは、男女(ふたり)の仲を割く灑涙雨(さいるいう)などではない。  墨に近い濃藍に沈みはじめた大河の随所に、星の誕生を想わせる暁光(あかつき)の爆ぜが散りばめられ、 見上げた牽牛(けんぎゅう)の面は予期に胸躍らせた高揚を隠さなかった。  今宵は、雨は降らない。何年ぶりの逢瀬となるのか。  ここ数年、年に一度しか叶わないふたりの契りを、無情な水流たちはことごとく悲しみの涙のそれへと覆えさせたのだ。  あとは、地上の河だけ。大地を潤す湖(うみ)を水源とする、天の川の氾濫がなければ、その両端に分かたれているふたりは、遂にその中心で互いの姿を相見えることが出来るのだ。  近頃は大気の熱が天界の霧をも焦がさんばかりで、河が氾濫したなどとはついぞ聞いたこともない。  今夜の逢瀬の結実を確信した牽牛は、胸の昂りを制することが出来ず、刻限(とき)を待たずに約束の河川の地へと、(くつ)音を高鳴らせた。 「……そんな……! 河が、河が……っ!」  どうどうと。河の神が怒りの柏手(かしわで)を打ち鳴らしているかと覚えるほどの、激しい濁流が河口から溢れかえっている。  これでは織女(おりひめ)衣通(そとおり)の衣を汚すどころか、華奢なその肢体ごと押し流してしまう。  またなのか。神はなにゆえに、ふれることも叶わぬふたりの(きよ)らなる想いを、よりによってその成就の夜ごとこなごなに砕き、まさかではあるまいが嘲笑うかのように、圧し潰してしまわれるのか。  絶望と憤懣に呑みこまれた牽牛のこころは、禁足の地へ向かう暴挙を厭わなかった。  天の雨と地の湖を整調する、『水窟』を(つかさど)る神聖なる力を授けられたのは、その昔天界から降ったとされる『天人』一族のみだ。  その水窟を暴いて河の氾濫を抑えられないのか、はたまた居合わせた天人に直訴を願いでるのか、 己の求めるところの判然とせぬまま、駆けて上下する血気じみた牽牛の視界へ、水窟への厳然たる禁門の影が果たして現れた。 「…………?」  鉄杭のような閂が外され、ほんの少し、聖域からの気がその秘扉(ひひ)から漏らされているような。  不審に思い、藪から覗き凝らさんとする牽牛の眼に、まるで人目を憚るかのようにそっと、()ろうとするか弱げな影がやがて過ぎった。 「…………お前は……っ、翠流(すいりゅう)……!?」  覚えず聲をあげてしまった牽牛の(まなこ)と、びくりとあえかな肩をいからせた肢体(かたち)、 そしてよく見知っている大きな(まろ)い、水源のような潤いの瞳がかち合う。  翠流は、天人一族の末子だ。  そして(よわい)は離れているも、牽牛の無二の朋友でもある。  未熟な翠流はまだ水窟を掌る任をまかされてはいないが、その水の開放・抑流を可とする『鍵』の保有は許されている。  折りしも牽牛に姿を見破られ、怯んだ彼の掌から零れおちた何かが、まさにかしゃり、と地に澄んだ星を砕いたような金属(かね)の音を鳴らし、 そのかたちを認めた途端、牽牛の(まなじり)は驚愕と疑噴の紅潮(あか)を散らせた。 「翠流……! それは、それは『鍵』では……!? ……まさかこれまでも、私と織女の逢瀬の夜に、謀ったように雨が降り、河の水が溢れて私の想いごと押し流されていたのは、 まさか、——まさかお前が……っ!?」

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