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瓦解の夜 *

   (そら)は、満天の星原。  翠流がほんの少し鍵を解錠した水窟のみずは、天の川の奔流をいっとき轟かせたが、日を跨ぐ刻限にはもう退いて、涼風にそよぐ水田の流れと等しいほどになっていた。  実直で神の威光に逆らわない牽牛が、少しでも諦めの気持ちに傾いてくれさえすれば、良かったのだ。 「牽牛様は、いつ、いらっしゃるのかしら……」  それとも、今年もまた、おいでになれないのかしら。  日付の天辺に達した天の川の畔で、織女は嘆きの涙を袖に濡らしながらも、永遠に逢うことの叶わぬかも知れない『夢想』の夫と、 それを待つ憐れで"貞淑"な妻である自分に、身に蓄えた芙蓉の蜜に酔いしれるがごとくに、今宵もまた、浸る。  水窟は、静謐が保たれる筈の神聖な場所だった。  天の雨と地の(うみ)から引いた、(あお)の聖母のごとき地底の湖沼が拡がり、民に潤いをもたらす巨きな甕をなみなみと満たす。  水盤を護るのは天然の玄武の岩屋で、その天辺には風穴が穿たれ、地底の憧憬をさらう、天空へのせめてもの導きが開かれていた。  許されるのは、岩窟の牙から水面に滴り落ちる、波紋の音のみ。  そして翠流の瞳には、夜空が、天帝が治め、星の従者たちが乱舞する、紺碧と白銀の大海のみが映る筈だった。  牽牛の指が高く結わえていた後頭の(もとどり)を掴む。  解かれる。夜の闇が放たれるように。  彼の黒い、生命と野生と、ひとりの男としての精までもほどかれて、 地上の熱を閉じたこめた雄々しい肉体を覆うように、艶めいたうねりに転じて、降り注ぐ。  だけどそれは、漆黒であるのに、その髪の狭間から覗く、ただ自分だけを収める黒い眼の囁きと溶けて、昂る熱におののきながらも、どこまでも鮮烈な純朴に護られていて、あたたかだった。  翠流は、大地の、優しい夜空に抱かれているようだと、胸の鼓動とふるえて想った。 「俺を見てくれていたのは、お前だったんだな……」  幻想を抱いていたのは、自分もだったんだと。  幻想の姫と、逢えない自分に酔っていたのは、他ならぬこの俺だったのだ、と。  翠流の肌は、眼で触れるとひんやりと仄白く、だが指で触れると、水銀のような滑らかさは一瞬で、たちまちにそのなかに自分と同じ、無垢で一途な、切ない熱を充満させていたことを知る。  星の破れめのような悲鳴は、一瞬だった。  そのこわれそうな肢体では、とても収まりきれぬのではと危惧していた怒張は、 せめて和らぐようにと抱きしめ、巌の褥から庇った腕のなかで、刹那に張り詰めた吐息(いき)とともに、彼の奥にと埋ずめこまれた。 「星が……っ! あああ星が、何度もちかちか、僕のなかで弾けて、もう、止まらない……っ、怖いよ……!」  星は、お前だと。得がたく、狂おしく掴んでしまいたくなるのは、お前の方だと。  星の化身である翠流の身体は、無限だった。  星の運河のように柔くあつく、抗いがたく自身を受け容れてくれる安堵も束の間、 瞬く間に精を絞りとられんばかりの貪欲で密度の高い、凄まじい渦に呑み込まれて、牽牛もまた、何度も眩んだ。 「あああまた……! 熱いい……っ、牽牛の飛沫(しぶき)がまた、僕の胎内(なか)を叩いて、(おく)が溶けちゃうう……! もう呑み込めないよ……! 溢れてる、溢れてるのに掻き混ぜるから、牽牛の大事な子種が、こぽこぽ零れちゃうう……っ!」  解かれたのは、怖ろしかった。  (ことわり)は、許されるのかと。この熱は、残らず甘受されてかまわない希求なのかと。  だけどいまは、目の前の白夜の肢体がどこまでの己の惑い、充たされなかった渇望、蓋をしていた真の欲情を容れてくれて、 最早いつ抱いたか思い出せない織女の裸体のうえに、翠流の、生きたなまみでまざまざと塗りかえられている。     融けて、爆ぜて、態勢(かたち)をどこまでも変えてもまだ欲しくて、 酸素(いき)が、ひどく足らない。  それを供給しあうように互いの呼気と湿度をあますことなく欲しがり唇を開け、掌に収まる小ぶりな双丘の軟らかさに酔い、揺さぶってその中心を決して離さず、  俺もまだ、お前の深淵が見たいんだと。  星の酩酊のように、ふたり、明けの明星を知るように得た互いの真実を()んで、しあわせに融けさってゆく。  七夕(しちせき)の夜は、分かたれたこいびとの逢瀬が叶う、無限のとき。  眠れる番い、真のすがたがここにようやくまみえたのかと、  今宵、天上の銀河は、その目に天と地の()うあいを、はじめて映じた。

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