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第1幕 篠塚章の生活
繁華街程近い高級マンションの一室で、今すぐバルコニーから飛び降りるにはあまりにも自分が小さくなっていくような感覚を覚えている。
「……章」
ベッドに戻ったくせ、眠ることもできず呆然としている。そんな僕の名を呼んだ美しいおとこは、名を荻原累といった。 おはよ、と頭を傾けさらりと靡く絹のような髪は、神様がいちばん綺麗な絵の具で彼を作ったのだとでも言いたげにきらきらと朝のひかりを集めていた。
僕はゆっくりとベッドの上でまばたきをして、もう一度布団に入った。くぐもった声で微かに、聞こえても聞こえなくてもいい音量で呟いた。
「累、昨日の僕はまただめだったの」
累はちょっと困ったようにふ、と息を吐いてからああ、とだけ言った。薄ら笑いを浮かべて布団から顔を出すと、責めるでもなく柔らかく微笑んでいて、僕はそれが突き刺さるように痛かった。
「ごめん」
「謝るこたないぜ」
累は目を伏せてガサゴソとベッドサイドの棚を漁った。爪切り、耳かき、文庫本、コンドーム、目薬。お目当てのライターとマルボロのブラックメンソールを取り出し、彼はバルコニーに出て窓を閉める。大きく伸びをしてから、散漫な動作で煙草を吸った。ふわり、レースカーテンがふくらんで、閉じる。輪郭だけの朝日も彼も眩しい。
僕はやっぱり布団を被って、ただ考え込んだ。
僕は累と性行為ができなかった。
累なら、と思った。ここに住ませてくれる恩になにかしら返したかった。でも、何度そんな空気になっても、いざ唇が触れるという所から記憶がなくなる。朝起きればきちんとした服に発情した気配すらない下着で抱きしめられて眠っていた。「そこから先」に進めなかった。
これじゃあ、累にとって僕を飼う価値はあんまりにも無さすぎる。小説だって一万字も書けやしないままなのに。累が言うには、数年ぶりに再会したその日の夜も抱こうとしたらしい。でも、失敗している。僕はオメガだ。抱かれるための性で生まれて、アルファに飼われている男だった。
伸びっぱなしの髪を掻きむしる。ほう、と煙を吐いた累がうつくしい顔でこちらを見て笑っている。何を、と思っていると、大袈裟に彼は口を動かした。ね、ぐ、せ。ちょんちょんと頭を突っついたあと、彼は笑って灰皿に煙草を押し付けた。
その灰皿だって、僕の皮膚で代替してくれと思った。そうじゃなけりゃ僕はなんの為にここにいるんだ。
「章、朝メシほんとにいらねぇの」
「いらない……」
「コーンスープだけ飲むか?」
「飲む……」
ダイニングテーブルの向こうで累は丁寧に朝食を摂っていた。トースト、サラダ、ジャムが落とされたヨーグルト。乱雑にバナナ・クリップでまとめられた長髪。それだけで絵になる男を見ていると、それを形容するための美しいことばがぶわりと思い浮かぶ。PCに向かいたくなる。書きたくなる。でも低血圧の体は上手く動かないから、差し出されたコーンスープを静かに飲んだ。キャンベルの赤いスープ缶が頭によぎる。喉を熱く過ぎたそれはほんのりと腹を温めた。
「章、ほんとに昨日のこともその前のも覚えてないのか」
解離性障害。PTSD。睡眠薬による健忘。形容する為の言い訳がぽこぽこと頭の中で変換されていく。溢れ出す文字と単語の海の中からようやく言葉を引き揚げて、口から出るまでに時間がかかる僕のことを累はよく知っていた。だから正直に腹を割るしか無かった。
「なにも」
そうか、と累は目を伏せた。
本当の事だった。でも察しはついていた。それを見て尚僕を抱こうとする彼のことがよくわからない。
それを試みた日に限って必ず健忘が出る。思い出し難い記憶を押し込めて無かったことにするかのように、すっかり忘れきってしまう。でも身体が覚えている。自分の薄い腹を殴りつけた痣はトイレで見つけ、その瞬間からじくじくと痛んでいた。身体中のかさぶたが剥がれ、累にもらった綿の黒いスウェットに皮膚が張り付いていた。腹を殴り、全身を掻きむしり、そして重たいまぶたが語るように泣き崩れた。それくらい分かる。累の全身うつくしいのだと言いたげな完璧なからだの、手首に僕が強く握った痕があった。死ぬ気で拒絶したのだろう。
累でもだめか、難儀な精神よ。
累だからだめなのだ、とぽつり違う自分が頭のどこかで呟く。そうだ、どうやらそれだ。高潔で美しく、自分がこんな所に転がり込んで来なければ、偶像として完成し彫刻のように歳を取っただろう彼と、こんな自分が交わることがどうしても自分に許せない。累は昔から傷が治るのが早いことを自慢にしていたが、それでも彼に傷をつけたくはなかった。かさぶたを服の上から引っ掻く。僕は汚くて醜くて、同い年のはずの累より随分と老けて見えて、実際傷だらけの老人のような身体をしていた。尻軽、淫乱、下賎なオメガ。思い出す痛い視線。身がすくんだ。
ああそうだ、売れる小説を書かなくては。
自分に価値をつける術を僕はそれしか知らないしできないのだから、これ以上悩んで病んでぐしゃぐしゃになる前にやらなくちゃあいけない。綴りたい。それでようやく報われる気がする。第二作のヒットでようやく累の背中が見えるだろう。追い続けていく事だけを考える。その先に僕は何処へいきたかったのかしら。売文家になる前の僕は、どうしてあんなに書けたんだったっけ。
がたりと音を立てて立ち上がり、ずるずると自室へ足を進める。なんでだっけ、なんでだっけ。「秋津怺」は、今どこにいるんだっけ。
小さな胃にスープ一杯未満、それだけで僕は累が仕事に出る夕方過ぎまでひたすら書いていた。ワープロソフトに縦に並び増え続ける文字は僕を落ち着かせ、止まったマウスカーソルは現実を見させ、やっぱり_没と付けられたファイル名の多さに死にたくなって、読み返せど読み返せど文章のていを成していないものしか見つからない。週刊誌のフラッシュと失敗したインタビューがまぶたの裏を渦巻いて、PC・デスク・椅子のみで構成されたなにもない部屋の中、僕は静かにおかしくなった。震える手で煙草を口に咥えて火をつけて、薄汚い着の身着のままコンビニへ走った。
────全部もうだめだ。曖昧にしたい。もう無理だ。もう秋津怺は死んでしまったんだ。ここには篠塚章という生身のもう三十近いクズがいるだけで、僕はもう何も書けやしないのだ。僕も死にたい。書けないなら意味が無い。秋津怺が死んだなら、その時僕自身も死なねばならなかったはずだったのに────
「……ら、章」
“そっち”の名前で呼ばれて一瞬、目が見える。耳が聴こえる。
累が仕事着のスーツのままこちらを覗き込んでいる。膝が、スラックスの膝が汚い床に着いて、吐瀉物かレモンサワーか、点々と血の混じった水溜まりに浸っている。ひざ、といいかけてまた何も分からなくなって、身体を丸め彼から逃げるよう後退り唸った。
「章。痛いだろ、一旦風呂いこう」
「痛くな、いたくな、い、何もわから、な、」
「息してくれ章、ゆっくり、ゆっくり」
「おぎわら、」
フラッシュバックする、どれだけ人に囲まれてもどこか寂しそうな学生時代の幼い荻原累。何故かその憂いを帯びた顔が、こっちに向いている。頭いっぱいに響いていた僕への罵声が静まり返る。彼へ手を差し出したくなる。不意に苗字を呼ばれた累は、目を丸くしてじっと僕を見た。
「……おぎわら、一緒に帰る?」
「…………シノ」
古い呼び方で返す累は、さっき幻覚で見たより人工的な肌の艶をしている。ブランド化粧品のハイライト。唇は女性もののマキシマイザー。完璧な化粧の少しだけ崩れた目元、ほんの僅かな皺。少しづつ頭が冷える。
「シノ、一緒に行こうぜ」
荻原累はただ少年のように呟いた。いっそ乱暴に僕の肩を抱いた。安心して息を吐き、僕は傷だらけで酔い錯乱した大人の身体を預けた。
もう、真夜中になっていた。
彼とシャワーを浴びた。灰混じりの傷口を綺麗に洗い流し、口を濯ぎ、煙と酒の臭いは僕の胃からしかしなくなった。
ベッドの上に敷いたバスタオルの上で、自分でつけた無様な傷が保護されていく。白い大判絆創膏がたくさんついた身体は蚕の死にかけのに似ていた。
毎晩付着する血をしっかり洗い流されたあたらしい綿のスウェットは、フローラル系柔軟剤の香りがした。オメガの男と一緒の布団で寝るというのに、アルファの累は僕を整え、包み、清潔にそっと寝かせておいてくれた。累の考えていることはわからなかった。栄養失調のせいで発情期もないほど痩せたオメガのことなど、やっぱり性の対象にはしていないのか。ならばなぜ、商売道具のうつくしい身体に怪我を負ってまで、何度も僕を抱こうと試みたりするんだ。なぜ、僕の後始末と介護を続けるんだ。
僕らは背中どうしをくっ付けてベッドに居た。累のパジャマはこの時期はシルクでできていた。ぼんやりした頭で、ふっと急に、絹よりも繊細な長髪と、その髪に隠れた項に吹いてある寝香水の香りを煙草の煙が抜けたからっぽの肺に満たしたくなった。
ゆっくりと彼から背を離し、視線をそっと向けた。寝返りで腰骨が擦れ痛む。髪は彼の胸の方に流され、巻き込んでしまうことは無かった。項は少しだけ見えていた。累の緩く上下する身体。眠りについている。自分でもわけのわからない衝動に突き動かされ、すこしだけ、と近づく。
終幕の線香に近い白檀、夜明け近い花の香り、日の出のような柑橘の匂い。近づく度色を変える累の婀娜っぽい香りにため息を呑み込む。もうすこし、もうすこしだけ。長い時間をかけて、とうとう鼻を項に預けて、僕は累に撓垂れ掛かって、そして抱きついていた。鎖骨が、胸が、腕が、脚が、布越しに彼の体温に触れていた。ただ気付けなくて、温かく、美しく、眩しく、良い匂いのここに居たくて、頬を染めた。
累の檸檬の香りに浸っている最中、その仄かに赤い目が開かれていたことにも、気づけなかった。
「あきら」
累は掠れた声で呟く。ハッと我に返り、身体が固まり怯える僕を、累は冷静に窘めていた。
「あきら、やめろ」
「…………累」
後ろ髪を引かれるかのように離れ難い彼から、ゆっくりと身体を離した。累は決してこちらに向き直ることなく、上体だけを傾けて赤い目で此方を見ていた。
「章、なにしてんだ お前の婆ちゃんじゃねぇよ」
「……そ、そんな勘違い、じゃあないって」
「俺が誰だか分かってるだろ?」
「…………分かってる」
「俺はお前に昨日何した?」
「…………知ってる」
「怖ぇなら、嫌いなら、やめろ。俺も人間で……アルファだぜ、ほんとに分かってるのか」
なぁ。
掠れ潰れ深く薫るテノール、累の声がどうしようもなく心地よかった。恐怖も、痛みも、フラッシュバックもなかった。目の前は累の毛穴ひとつ目立たない肌に吸い込まれて暗い将来を見なくて済んだ。
「…………累、僕のこと、何で抱きたいの?」
「何でって……な、はぁ。そう。知らねぇぞ。あー……」
累は珍しく歯切れの悪く口を詰まらせた。そして静かに、僕の心の底の地獄まで響く声で言った。
「いつか抱いたあと、最初の夜に教えてやる」
心拍がひとつ、飛んだ。
パサついた髪が乱暴に左手で撫でられる。そして彼はもう起きないと言いたげに態とらしい寝息を立て始めた。僕はただ、ぼろぼろでみすぼらしくて、それでも累のお陰で清潔なからだを強ばらせて、疑うように穴があくまで累を見つめた。
どうやら穴はあかないらしかった。
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