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第10幕 紫煙、現在地
酷い夢を見た。あんまりひどいものだから久々に嘔吐した。僕が累と一緒に作った夕飯がぼどぼど便器に落ちていくのを見て、ぼんやりと僕っていつの間にかトイレで吐けるようになったんだなあと思った。
秋津怺が死んだ日の夢だ。
あの頃の僕はひたすらに疲弊していた。いくら書いても担当に見せられるクオリティの原稿が出来上がらないまま、大賞を獲ってから二年、三年があっという間に過ぎていった。怖かった。僕はあれで枯れたのだと思った。それでも未だ次々舞い込むインタビュー、対談、挙句の果てに俳優にならないかとのふざけた誘い。インターネットでは、根拠もなく次作の壮大な設定を練っているのだと噂が流れた。話せることがなくなって、プライベートを切り売りして、そして、オメガであると、口を、滑らせた。
そこからは悪夢の中で観る悪夢だ。記憶は途切れ途切れになってめちゃくちゃ。必死にSNSで反論すればするほど僕は間違って伝わっていく恐怖に怯えた。オメガであることが秋津怺に呪いのようにこびり付き、オメガならではの作品を求められ、オメガである肉体を求められ───
明け渡した。
あの日の僕は、秋津怺の延命の為に篠塚章を差し出したつもりだった。結果、秋津怺は死んだ。精液と血液と吐瀉物に塗れて、薄い布団の上へ置き去りにされた。秋の初めにしては、寒い日だった気がする。
はあ、はあ、はあ、と息を切らしながら、僕はトイレットペーパーを手に取って、口を拭った。僕は吐瀉物や胃酸を自分で拭うことができるようになった。この後うがいも、きっとできる。僕は取り返した。清廉で美しい秋津怺を、セックスして殺した。荻原累の温もりに剥き出しの肉で触れて、篠塚章を取り戻した。
今、何も書きたくない。頭の中は感情のノイズでめちゃくちゃなのに、文章にして整理したい気持ちが湧かない。それを僕はめちゃくちゃのまま受け取って、僕ってまだめちゃくちゃなんだと認めた。歩いて、たった一メートルもない距離を息も絶え絶えに歩いて、洗面所で口をゆすいだ。少しまた吐いた。でももう一度ゆすいだ。累の買い与えてくれた割れないコップを洗って、フックに掛けた。
自室に入ってもPCは目指さなかった。煙草を掴んで引き返した。キッチンの換気扇へ足を引き摺っていって、そこに置いてある累の店の名前の入ったライターで煙草に火をつけた。
湿気た煙草は不味かった。でもわけも分からず混濁した意識の中必死に吸い込む煙より、余程きれいな毒の形をしていた。
ふう、と肺から煙を吐く。うがいをしても残る凄惨な酸味はゆっくりとタールとニコチンに燻されて失われていく。それを繰り返していると、なんとか悪夢でつぶれた内臓が元通りふくらんでいく気がする。
「……章」
ぱちん、と換気扇のオレンジ色の灯りが点く。えらく具合の悪そうな累の、苦しそうな顔が照らされる。彼が僕を追ってきてくれたのに気付かなかったことを恥じる。
「大丈夫か」
「……あんまり。でも、平気ではある」
「そうか」
累は自分の煙草を箱から一本取りだして、さっき僕の使ったライターで火をつけた。ふたつの白い煙が換気扇へ吸い込まれる寸前、絡まりあって、そして消えていく。
「累は」
「なに」
「累は、大丈夫?」
「…………あんまり。」
「そうか。累、やっぱり昨日のこと……何か気に病んでいた、よね。悪かった。聞いてやれなくて」
「ううん、章。もう、それは……大丈夫だ。たぶんそのうちなんとかなるし、なんとかならなくたって……いいと、ずっと思ってる」
「……そう」
「でも、章……あのさ、章、俺」
「うん」
累の煙草のほうが燃焼が早い。息が詰まったように眉根を寄せながら、累は灰皿に煙草を押し付けた。はあ、と思い切り吐いた煙は、僕の煙草と全然違う匂い。
「…………話を、聞いてほしい。上手じゃない、と思う。めちゃくちゃかも。でも、聞いて、章」
累は、今にも泣き出しそうに目元を赤らめて僕に囁いた。僕は累の目をまっすぐ見て、大きく頷いた。
「あの、な。俺って、ずっとずうっと、章に酷いことをしてた」
「……」
「嘘も、いっぱいついてたんだ」
「うん。続けて」
「俺、ずっと…………章、お前のこと、好きだったのに、あいしてたと、思ってたのに」
「……うん」
「多分……ッ俺って、この家に章が来てから、ずっと、あきらの……こと、ガキ扱いっていうか、なんか……たぶん、上メセでいてッ」
「……うん」
「うまく、言えねぇけど。章が、最近ちょっと元気になって、くれたのって、章はさ……俺と、俺とのことと、もちろん小説のことと、一生懸命ずーっと考えて、考えてて、やっと動けるようになったから、だよな」
「……そう、だね」
「俺ってずっと、ずっと、ずっと……なんも、考えてなかった……」
「……そうかな」
僕は震える手で煙草の灰を落とした。
「たくさん考えてくれたよ。君にとっちゃ、たぶん……ぜんぶ自己満足だったように思えて、怖いのかもしれないが。僕は、ちゃんと累がしてくれたことで、なんとかこの一瞬の正気に辿り着いてしがみつくことができた。ほら、セックスもできたろう。多分僕はまたおかしくなる、何度でも。でも、この正気の時間が発生したことは、君の功績でもあるわけだ。それは……誇ってくれても、構わないと、思うのだけど、どうかな」
累は涙を小学生みたいに雑に拭って鼻を啜り、うん、と小さく頷いた。
「あのね。僕はなんにも分かってなかった訳じゃあない。おかしくなる度に累に抱いてくれって迫って、自分で迫ったくせに求められると更におかしくなってたのは僕で、累はそれを自分のせいにしてた。累は僕に隠してたけど、正直今仕事もそんなに上手くいってなくて悩んでるのも知ってたよ」
「……そう、か」
「うん。君が僕に何を見せたくて何を隠したいかは、分かってた。でもね、どうして僕にそんなにしてくれるのかは分かってなかった。でも言ってくれた。累、おまえ、僕のこと、愛してたの」
「うん……」
「そっか」
もう何本目かもわからない煙草に火をつける。累は煙草に手をつけず、ぐすぐす泣いていた。
「僕はさ」
「うん」
「累のこと、愛してたよ。ずっと昔からね。今はよく分からない。そういうのわかんなくなったんだよ、僕は僕の命で精一杯になってしまった」
「…………んなこと、ねぇよ」
累もようやく二本目の煙草を手に取り、火をつけた。吸い込んで、吐く。煙草の煙は、呼吸が可視化されてうつくしいと思う。
「んなことねぇ。章、お前、ちゃんと……俺の事、見てくれてた。自分がいっぱいいっぱいでも、俺の事見てくれて……俺が刺されてからは、ほんと頑張ろうとしてくれてて……それって、俺、愛されてたんじゃないの」
「……たしかに。そう、かもね」
「俺は、そう思ってた」
「じゃあ、それが愛でいいか」
「……うん、そう。それでいいよ」
それからしばらく、黙って煙草を吸っていた。二人で煙草を吸うことなんて、今まで一度もなかった。
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