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第8話 頼もしい彼

 エリペールは何度も注意しようとしてくれたが、それを全力で阻止した。 「喧嘩になってはいけません。僕は慣れているので気にしないでください。奴隷商ではもっと酷いことを言われ続けてきました。あのくらい、平気です」 「平気なわけないだろう!! 平気になってはいけない。みんなマリユスの良さも分からず悪く言うなど許せない。明日、先生に話をしてみよう」 「多分、無駄だと思います」肩の力を落とす。    ブランディーヌの話だと、僕がオメガということも奴隷だったことも、先生にしか話してないとのことだった。それがこの有様であることを踏まえると、噂を流したのは先生の誰かだと考えられる。    ラングロワ公爵家からの申し出を断れなかったが、快く受け入れたわけではないのだろう。  もしも自分から学校を辞めたいと言ってくれれば、学校側に不備はない。それを狙っているような気がした。 「マリユス、私はどんなことがあっても味方でいる。絶対に我慢しないでくれたまえ。約束だ」 「分かりました」  必死に怒ってくれるのが嬉しかった。酷い言葉を浴びせられて、恥をかいたのはエリペールの方だ。公爵家の人間が奴隷を連れて登校している。前代未聞の事態に、誰もが平然といられないのも当然だと思う。    学校へ行くことは自分にとっての試練だと思っていたことを恥じた。僕と一緒にいるだけでエリペールの価値が下がる。なのに自分から離れずにいろと言って守ってくれようとしている。  笑い方すら知らない、たかが奴隷のために……。    ———僕を切り離せば、楽なのに———  奴隷を連れているというだけで、交友関係にも支障が出る可能性だってある。それでも学校を辞めると言えば、きっとエリペールは反対する。  自分自身のためではなく、エリペールのために強くならなければいけないと決意した。  リリアンが寝る前のハーブティーを淹れてくれた。公爵邸の庭で採れるハーブは香り高くリラックス効果抜群だ。  今日あった嫌なことも忘れる……なんて都合のいいことはないが、幾分か緩和される。  エリペールは飲み終わったティーカップを置くと、うんと伸びをした。   「寝室へ移動しよう」僕の手を取り、立ち上がる。  ベッドに入ると僕の腕枕で目を閉じる。欠伸が重なって、今日はエリペールが先に寝息を立て始めた。疲れているだろう。初めての学校で緊張していたのは同じなのに、余計な神経まで使わせてしまった。    あどけない寝顔は一年前と変わらないのに、背はぐんと伸びている。  きっと直ぐに追い抜かれるだろうと思った。    長いまつ毛はそのままかもしれないが、大きな眸はそのうちキリッと男らしい目力が備わる。このぷくぷくした丸い頬は、大人になるにつれ削ぎ落とされ、綺麗な輪郭を生むだろう。今は目立っていないがスッと細い鼻梁はブランディーヌに似た聡明さを映し出す。    エリペールの寝顔を見るたびに、大人になった彼の姿を想像するようになっていた。誰もが振り向くようなオーラを纏うだろう。想像しただけで法悦となってしまうような……。    僕はその姿をこの目では見られない。  オメガの性が発症しなければ、いつまでも隣でこうして眠ってくれるのか。いや、そうではない。いずれは婚約者ができるだろう。公爵家に相応しい、アルファ同士で結婚するに決まっている。  そうなった時、ブランディーヌは僕が一人でも生きていけるように勉強をさせてくれているような気がしていた。何も言わないでいるのは、まだ僕もエリペールも子供だから、不安にさせない為だろう。公爵夫人が将来を考えていないはずはない。  今のうちに目に焼き付けておこうと思う。  美しい世界へと導いてくれた、この天使のような人の姿を。  一緒に過ごす日々はあまりにも眩しくて、僕に向けてくれる眼差しは透き通っていて、発する言葉はどんな暗闇からも救ってくれる強さがある。    離れ離れになった未来でも思い出だけで過ごせるように、どんな些細なことも忘れたくはない。  毎晩、健やかな寝顔を見るたび、今日もそばでいられたことが嬉しくて、しかしその裏に切なさを感じてしまう。  いつまでも続かない幸せとは分かっていても、どこかで「もしかすると」と期待してしまう自分がいる。  僕の夜着を握りしめている小さな手を、その上から握り返す。  あぁ、やはり人に幸福をもたらす手をしている。  暖かさが手の平から染み渡り、僕はこっそりと涙を流した。  明日の朝も、一年後も、十年後も、よく眠れたと言って髪を撫でてほしい。それだけが僕の秘かな願いだ。

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