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第34話 幻覚か、現実か

 仰向けになり、ただ一点だけを見詰め、虚に瞬きを繰り返しているエリペールの焦点は合っていない。  頬は痩け、唇は乾き切っている。美しく艶を放っていた髪も、今では見る影もない。  たった一年で、人はこんなにも変わってしまうのかと愕然としてしまった。 「……僕のせいだ」  一人では寝られないと、あれだけ言っていたのに。それを誰よりも知っていたはずなのに。  後悔は後から後から押し寄せる。    謝って済む問題ではない。どんな罰を受けたとしても、エリペールが回復しなければ意味はないのだ。    もしもブリューノと偶然再会していなければ、もしもあのまま逃げていれば……きっとエリペールはこのまま衰弱の一途を辿り、やがて命尽きただろう。    自分に出来ることが何なのか、考えようにも頭が混乱しすぎていて思い浮かばない。  名前を呼ぼうにも、声を出そうとするだけで喉が詰まってしまう。  触れても良いのだろうか。  隣に行っても良いのだろうか。  直ぐ隣に立っているのに、こちらに気がついておらず視線は変わらない。  僕だけが体の中に燻っている熾火を抱いている。  しかしこれはエリペールが生きているという証なのだ。  何もせずには助からない。  気持ちを切り替えベッドへと上がり、顔を覗き込む。  膜が張られたように光を失った眸には、何も写っていないように感じてしまう。  しかしエリペールは僅かに瞼をヒクリと動かした。 「っ!? エリペール様?」 「マ……リ、ユス……」  喉が渇いていて、はっきりとは聞き取れない。しかし今、名前を呼ばれた気がした。 「エリペール様」  ゆっくりとした口調で呼びかける。  エリペールは曇った眸を僕に向けた。 「……幻覚……か……ついに、幻を見てしまっているのか……」  譫言のようにポツリと言う。  一瞬こちらを見た視線はすぐに離れてしまった。目を閉じそうになってしまうが、閉じられない。  眠れないエリペールは目を閉じることすら叶わないようだった。 「マリユスです。エリペール様……僕、マリユスです……」  もう一度こっちを見てほしい一心で呼びかける。  シーツの上に置かれている手を取り、自分の頬に当てた。 「エリペール様。一人にしてごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」  涙が乾いた皮膚に吸収される。  エリペールは指を引くつかせ、頬を撫でた。 「マリユス……声を、聞かせてくれ」 「エリペール様、ここにおります。マリユスはここにおります」  叫びたいくらい、悔しくて、悲しくて、怖かった。  エリペールは目の前の僕を幻覚としか思っていない。 「マリユスの声まで聞こえるとは……」  自嘲するように吐き捨てる。  視線は合っているようで合っていない。二人の間に靄がかかっているような感覚がする。  エリペールのアルファのフェロモンはしっかりと届いているのに、僕のフェロモンは感じていないのか。  それとも衰弱が激しくて反応できないのか。  頬に当てている手の平に唇を押し当てる。せめて感触だけでも伝わって欲しい。  さっき少し反応があった。神経は今でも正常のはずだ。  エリペールの隣に横になり、両方の手を手繰り寄せる。  それを自分の顔や体に這わせた。 「分かりますか? エリペール様。僕に触れているのを感じますか? フェロモンは届いていますか? 僕は、感じていますよ。エリペール様のアルファのフェロモンに早く包まれたくて、体が熱を帯びています」  絶えず話しかけた。少しずつだが、エリペールに変化を感じていた。まだ気のせいかもしれないと思うほど、ほんの僅かではあるが、正気を取り戻しつつあるような気配を感じる。  僕が隣に横になったことで、細胞が、本能が覚えている、抱き枕の体温と圧を感じているのかもしれない。  きっと眠れていないから、意識は混濁しているだろう。しっかりと眠ってほしい。  ただその前に、マリユスは幻覚じゃないとだけ分かってほしい。 「エリペール様、失礼します」  こんな行為が許されるとは思っていない。罰なら後でいくらでも受けると決意し、仰向けのエリペールの上に跨る。  大きく深呼吸をし、エリペールに口付けた。  キスなどバース性を発症したあの夜以来なので、全く上達していない。それどころか、いまだに正しい吸い方など知らない。  自分の唇を押し付けているだけで精一杯だった。  それでもエリペールの唇の感触に、ラングロワ公爵家に帰ってきた実感と、目の前にエリペールがいる現実を噛み締められた。 「帰ってきました、エリペール様の許に。だから、目を覚ましてください。起きて愚かな僕を叱ってください。エリペール様……」  再び唇を押し付けた。  体の熱が上がっていく。ヒートが加速していく。  これは、これはきっと、目を覚ます前兆に違いない。    息が上がる。一年ぶりのエリペールのフェロモンに、細胞の全てが反応しているようだ。  こんな時になって気付いたのは、自分はエリペールのフェロモンしか感じられないと言うこと。  バース性が発症し、学校であれだけアルファがいる空間にいても発情期以外にヒートを起こしたことはない。  なのに意識が朦朧として動かないエリペールを目の前にしただけで、こんなにも昂っている。  早く触れられたくて、アルファの精を体内に注いで欲しくて堪らない。  自分の中心で芯を通し始めたそれを、エリペールの腹に擦り付けたくなってしまう。 「あぁ、だめ。だめだ。エリペール様は苦しんでらっしゃるのに、僕一人で欲情するなんて。こんなの、きっとお仕置きされてしまう」  しかし意識とは全く別の次元で昂っているこの体の鎮め方など分かるはずもない。  形の整った唇を見詰める。微動だにしないそれが、やけに官能的に見え、吸い込まれように顔を寄せる。 「んっ……ん、はぁ……」 「っく……ふぅ……ん……」  驚いて慌てて顔を離す。  今、確かにエリペールからの反応があった。 「エリペール様……」 「マリユス、本物なのか」 「……はい……はい……」 「こっちへ来たまえ」  曇った眸は変わらないが、今度はしっかりと目が合った。  一年間も患ったエリペールの腕に力は入らないが、それでもしっかりと抱きしめてくれた。 「夢でも良いから会いたいと思っていた。けれど私は眠れなかった。眠れなければ夢も見れない。僅かな望みも絶たれ、絶望しかなかった。しかしマリユスは、必ず私の所へ帰ってきてくれると信じていた」  エリペールはブリューノと同じように言う。 『エリペールだから信じる』『マリユスだから信じる』  答えは実に単純だった。自分の過去も身分も関係ない。僕たちだから信じられる関係でいられる。 「私は今、眠っているのか。それでマリユスを見られたのか」 「違います。エリペール様の目の前におります。あなただけの、マリユスです」  じっと見詰め合う。 「キスをしてくれ。とても心地良いのだ」 「なんなりと」  意識を取り戻したばかりで存分に動けないエリペールに、改めて僕からキスを贈る……。  

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